コラム 大名が寺社を保護する理由
西国の覇者である大内家。
この家によって保護および復旧された寺社は北部九州にかなりある。
箱崎宮、英彦山、宇佐八幡宮等が大内家に保護され、社殿を復旧された記録が残っている。
そのメリットを簡単に提示しておこう。
1)当時の知的エリートを味方につける
この時代、読み書き計算が当たり前にできる時代ではなく、教育機関としての側面を寺社は持っていた。
彼らを保護するという事は、その地域の知的エリート層を味方につける事を意味する。
今回は大友家の話なので、宇佐八幡宮復興に大内家が多大な貢献をした結果を軽く書いておくが、その下でまとまっていた佐田家をはじめとした国衆が大内家の支配下に入り、反大友家として激しく抵抗する事になる。
特に、後に述べる事になる勢場ヶ原合戦では、大友軍本陣直撃の間道を教えたのが彼ら地元国人衆たちだったという事を指摘しておこう。
更に、この時期の寺社は自力救済に伴う裁判の仲介機関であり、地元の情報が集まる行政機関であり、合戦が発生した際に現地住民が避難する避難所でもあった。
中世寺社の公権力からの中立性はそれだけで色々話が書けるのだが、とにかく、このような重要拠点であるという事を強調した上で大内家がそれらを保護復旧した事で筑前国及び豊前国の統治に利用したという事を記しておく。
2)その寺社の持つ荘園を介しての正当性を主張できる
宇佐八幡宮は平安時代においては九州最大級の荘園領主であり、源平合戦時には平家側についていた。
もちろん、これを源氏側だった鎌倉幕府が見逃す訳がなく、多くの荘園は没収・及び横領される事になった。
宇佐八幡宮の荘園が多くあったのが豊後国であり、その横領の中心に居たのが関東から下向した守護大名大友家であるといえば、その先は言わなくてもわかるだろう。
こうやって、荘園返還から奪還にという正当性を主張して、大友家に対して戦を仕掛けられるのである。
もちろん、大友家もこれに対抗するために奈多八幡宮を使う事になるのだが、これも長くなるので今回はここまでにしておく。
3)信仰に伴う家中一体化と京でのロビー活動
寺社を保護復旧した事で地元の宗教勢力の権威を入手できる。
特に宇佐八幡宮は源氏の信仰厚く、京の石清水八幡宮は宇佐八幡宮からの勧請であり、鎌倉の鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からの勧請である。
そんな訳で、宇佐八幡宮を保護した事により、源氏のひいては武家の神様を保護するというロジックでプロパガンダが展開できるのである。
なお、大友家は源頼朝の血を引いているという貴種プロパガンダを領国に流しているので、この一手はいやらしく効いたのだろうな推測できる。
また、合戦前に八幡様の加護云々と言えるのも地味に強い。
現代人である我々は宗教の力を軽視して見がちだが、この時代の宗教は決して侮ってはいけないものであると私は力説しておきたい。
そして、京で活動する際に公家や寺社とつきあうと、彼らの地方荘園が現地武家に横領されるという問題に直面する事になる。
これらを解決する事で、大内家は京の公家や寺社を味方につける事ができ、京の幕府内部で絶大な力を発揮する事に繋がったのである。
もちろん、これらの政策は莫大な資金がかかる。
寺社に荘園を返還するという事は、その現地の武士の食い扶持が無くなることを意味するからだ。
それに対処するだけの経済力を大内家は持っていた。
一つは博多を抑えた事による勘合貿易。
一つは石見銀山からあがる銀。
最後はこれらを西国から畿内に送る瀬戸内水軍を掌握した事による物流網である。
大内家滅亡の引き金である大寧寺の変。
その遠因である陶晴賢との対立の一つがこの寺社保護政策なのだが、決してそれは間違いではなかった。
かといって、そのデメリットも無視できるものではなかったのだが。
デメリットについてはまた別の機会に語りたいと思う。
大友家には宇佐八幡宮を焼くだけの理由はあった。
某TSビッチ姫を書いていた時こんなの知らなかったんだよなぁ……




