隠者と愚者
とある国のはしっこ、大きな川の向こうに、広い森がありました。
森の中は昼間でもうす暗く、じめじめとしてさみしい場所です。そのため、森をおとずれるひとはほとんどありませんでした。
さて、その森のまんなかにある、りっぱな木の根もとに、ひとりの男が住んでおりました。
男はかつて、国でいちばんの知恵者と呼ばれておりましたが、いくさと争いの日々に疲れ、今は世を捨てた隠者となり、森のおくで誰とも交わらず暮らしておりました。
食べるものは森で拾った木の実やきのこ、ハチが集めたミツを取り、小鳥の巣からたまごを失敬し、晴れの日は陽気をあびてぐうぐう眠り、雨の日は小屋から一歩も出ずぼんやりとして過ごし、何もなさず作り出さず、書もしたためず学びもせず、無為に暮らしておりました。
そんなある日のことです。隠者はいつものように、木もれ日のしたでぐうぐう眠っておりました。夢うつつの耳に、木の葉をかきわけるがさがさという音が聞こえてきます。
「近付いてくるのは何者じゃ。ひとか獣か……獣であれば、返事はいらんぞ。はよう立ち去れ」
夢から覚めぬまま、隠者はもごもごと声をかけます。どうせ獣じゃと高をくくっていた隠者のそばに、足音は近付いてまいりました。
「お休みのところすみませんね、おじいさん。少し道をおたずねしたいのですが」
折り目ただしく問いかける声に、隠者はぱっと目をひらきます。そこに立っていたのは、旅姿をしたひとりの若者でした。
「何じゃ、おまえは」
「旅の者ですよ、おじいさん」
気だるげな隠者の声にもかかわらず、若者ははつらつとした顔つきでこたえます。
「どこへ旅をするつもりじゃ」
「どこへでも。僕の知らないことがある場所へ」
「何のために」
「世界の不思議を解くために」
若者の目は好奇心にきらきらとかがやいていています。まだ見ぬ何かを楽しみにして、どこまででも歩いていこうとする目です。彼を見ていると、隠者は何やら悔しいような、腹立たしいような気持ちになっていきました。
「おまえは不思議を解くと言うが、そうして、いつまで旅を続けるつもりじゃ」
「いつまででも。世界から不思議がなくなるまでは」
若者の笑顔のくもりなさに、隠者は、ふん、とはなをならしました。
「おまえは、まだ若いからそんな風に思っとるがの。わしには分かるぞ、おまえの旅は、もうすぐ終わりじゃ」
「それはどういう意味でしょう?」
不吉な言葉におどろいた若者が、あわてて問いかけます。隠者はそんな若者の顔色さえつまらなそうに、半分目を閉じたまま答えました。
「世界には、不思議などそう多くはないからじゃ。お前はもうすぐ何もかも知ってしまい、そうして旅などつまらんものじゃと思うにちがいない」
「いいえ、けっしてそんなことはありません。僕はまだこれから、北の果てにも向かうつもりです。それに、南の海へも」
「その次は? 西の山をのぼって、東に川をくだるか? 東西南北はしからはしまで歩いて、それからどうする。今のおまえには、世界を歩きつくすまでまだまだ長い時間がかかると思えるじゃろう。だが、そんなものはすぐじゃ。長い人生の半分も使わんわい」
隠者があまりにもきっぱりと告げますので、若者は少しばかり不思議そうな顔をしました。
「もし、おじいさん。どうしてあなたはそんなにもはっきりと、僕の知らない世界について教えてくださるのですか?」
「どうしてじゃと。そりゃあ、わしもまた世界中を見て回ったことがあるからに違いないわい。おまえが良ければ、世界のどこに何があるか、わしの口から説明してやろう。そうすれば、世界を見て歩こうなんてどれだけつまらんことか、お前も分かるに違いない」
隠者は昔のことを思い出し、若者にとうとうと語って聞かせました。
北の果てで見た、空にかがやく七色のカーテンについて。流れる流氷がぶつかって、澄み渡るひびきをあげること。よちよちと歩く飛べない鳥たちの大移動。
南の海に広がる、サンゴしょう。極彩色の花々の甘い香り。ひとびとのこぐボートの勇ましさと、大嵐の恐ろしさ。
西の山は降りやまない雪で一年中まっ白。東に川をくだれば、大河のはばはこの森のごとく広がる。
何もかも調べつくした隠者は、どこにどのような地形があり、それぞれの場所でひとびとがどのように暮らしているのかさえ、若者に教えることができました。
これで何もかも知ったつもりになって、つまらなくなって旅をやめればいいと、隠者はそんないじわるな思いでおりました。
ところが若者は、隠者の話を楽しげに聞き続けます。そうして最後には、にこにこと笑ってお礼を言いました。
「いや、おじいさん。ありがとうございました。おじいさんが教えてくれたおかげで、僕は何を楽しみに世界を回ればいいのか、よく分かりました」
「お前、何もかも知ったというのに、まだ自分で行くつもりなのか」
隠者に向かって、若者はぺこりと頭を下げます。
「はい。色々教えてくださってありがとうございます。おじいさんの調べてくれたことはよく分かりましたので、僕は、なぜそんな世界ができたのかについて、調べに行こうと思います」
「なぜじゃと?」
「ええ。なぜ世界はこんな風なのでしょうね。東西南北があるのはどうしてでしょう。それに、僕はなぜ生まれたのでしょうか。どうしてこんなに色んなことが気になるのでしょう。おじいさんにとって、そういうことの一切がつまらないのは、これもまたなぜなのでしょうね。そういう不思議を知るまでは、僕は旅をやめるわけにはいきません」
なぜなんて、隠者は考えたことがありませんでした。もちろん、答えることもできません。
そうして隠者が目を白黒させているうちに、若者はにこにこしながら遠ざかっていき、それから――隠者は、大木のしたでいつも通り目を覚ましました。
さて、隠者には、ひとつ思い当たりがありました。
昔、隠者がまだ世界のすべてを知る前、国をたった後にこの森で、誰かに会ったことがあるような気がします。そうして、その誰かに色々な世界の話を聞いたような気も。
それなのに、今の今まで、その誰かのことも、どんな話をしたのかということも、すっかり忘れておりました。
「さて、なぜなのじゃろうな」
隠者は首をかしげます。
世界はなぜ、こんな風なのでしょう。
なぜ、若い頃に気になったことを調べつくさぬまま、つまらないと思い込んでしまったのでしょう。
まだ知らないことが多くあるのに、知り尽くしたと思いこんでいたのはどうしてでしょう。
森の中を、さやさやと風が吹きぬけていきました。
どうやら、答えは、ここにはないようです。
隠者は重い腰を上げました。世界にはまだ解き明かされていない不思議があるようです。
年老いた身体に、旅はこたえるでしょうが、このまま死を待つことは、もう隠者にはできませんでした。
それは若い頃の自分にもらった、大事なだいじな不思議なのでした。
おわり。
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以下は、梨鳥 ふるりさんから原案を貰った際の会話になります。