思い出す事件・三
坂下は背筋を伸ばし、細い目を橋本と中川に向けて言った。
「『あの事件』で僕がどれだけ苦労したか……」
「待て」
橋本が遮って、続ける。
「被害者は木村さんだったよな。で、木村さんを押したのは君。それで解決しただろう。逆恨みは止めてくれ」
その言葉が坂下の心に突き刺さる。この野郎、と心中で呟いた。自分の中にある理性が崩れてしまいそうだった。二秒くらいが経過すると、坂下は口を開く。
「解決した、と?」
認めていないような言い方だった。橋本は見下すように坂下を睨みつけている。苛立ちが増していくのが自分でもわかった。中川は怯えていて何も言えないような状態だ。
「あれは偽装だ」
橋本に負けないように坂下も見下すような瞳を見せたが、身長が橋本より低いせいか、その強さは半減されているように思えた。目に力を入れたのに、それが全て無駄になってしまったかのようだ。
だが、ここで逃げてしまえば、終わりになってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
「たしかに僕が木村に当たって、木村が道路へ押されていった。それは間違っていない。でも、僕が木村に当たる原因を作ったのは――」
とここまで言うと、坂下は右手で中川を指さした。すると、中川はビクッと電流が流れたように背筋が伸びて、驚いた表情で坂下を見つめた後、怯えた目を橋本に向けた。
橋本と中川は恋愛関係を持っているのか、と思ったがそんなことは気にせず、坂下は続きを突き刺すように言った。
「お前だ。中川、お前が僕を押した。そして、押された僕は木村に当たった」
言い終えると、数秒の沈黙が三人の中に流れた。冷たい風が痛く感じる。隣の家から聞こえる「カチャカチャ」という食器を洗っているような音が妙に脳裏に響いた。何か言えよ、と坂下は思った。
すると、その思いが通じてしまったのか、橋本が口を開いて呟いた。
「昔のことじゃないか」
彼は面倒だと考えているような表情をしている。だが、僕はその面倒なことで人生の八割は損しているような気分になるんだよ、と坂下は心の中で言い放った。
そして、坂下は二人に向けて言った。
「被害者に、昔という言葉は通用しないんだ」
*
事件は被害者と身の回りの人間に永遠に治ることのない傷を与える、という言葉が橋本の脳裏に浮かぶ。たしかに坂下の言葉が全て間違っているとは言い切れない。
そして、小学四年生の時に起きた『あの事件』のことが次々と蘇る。
――あの時は六人で遊んでいた。六人とは、橋本と中川と坂下、そして木村、他には……西野と島田がいた。色々な遊びをしていたが、事件が起きた時はみんなで、何でそんなことをしていたのかは覚えていないが、押し合いをしていた。……力が強い人を決める遊びだったかな。喧嘩ではなかったことは確かだ。
意識していなくても記憶が蘇っていく時、坂下は黙って橋本と中川を見つめていた。橋本が考えている表情を見せていたので、待ってくれているのだろう。
――遊んでいる途中、坂下が木村を押した。すると、木村は倒れるようにふらふらとした不安定な歩き方で道路まで歩いていった。どうしたのだろうか、と思った瞬間、彼女は道路の中まで入り、横から走ってきた車に激突。命を失うことにはならなかったし、後遺症も残らなかったが、治るのにかなりの時間が必要になり、治った時は別の学校へ転校してしまった。
その時はとても悲しかった、と橋本は思った。その感情も少し蘇る。
――そして、犯人探しをした。誰が木村を押したのか? 結論は「坂下が木村を押した」だった。坂下の身体が木村の肩に当たるのを見たという人物がいたからだ。
とここまで蘇ってから、橋本は中川を見た。中川は面倒だと思っているような表情をしている。その人物の一人が中川だったことを思い出す。
何故か、木村が車に激突した場面が脳裏で繰り返し蘇っていた。
――右側からスピードの速い黒に近い色をした車が、木村に激突し、彼女は飛ばされた。彼女の着ている服が赤く染まり、道路も部分的にだが赤く染まっていた。橋本たち五人や周りにいた人々の中には、驚いて何も言えない人や、悲鳴を上げる人などがいた。
「思い出したのかな」
と坂下が突然言った。「ああ」と橋本は反射的に答える。顔が下向きになっていることに気づいたので顔を上げると、坂下の真剣な表情が見えた。