思い出す事件・二
橋本と中川の視線が重なる。すると、彼女は小声で訊いた。
「捕まえたの?」
「ああ」
橋本は驚いているような不安定な声を出した。中川は、何だろうと思っているような顔をして首を傾げる。
「この男……」
そう言った橋本は不審者の左腕を右手で掴んだ。未知の物に触れているような感覚になる。不思議な感触が彼の左腕から橋本の右手に、そして身体全体に伝わっていく。少し戸惑いながら続ける。
「……俺のことを知ってる人間だ。……名前は?」
その問いに不審者は小声で答える。
「……坂下」
坂下という少年はお化けを見ているかのように怯えている。細い目をしていて、肌は荒れている。中川とは正反対だ。顔は小さく、高校生というよりは中学生のように見える。
彼は小学四年生の時の同級生だった。だが、『ある事件』のせいで彼は転校してしまった。思い出したくない記憶の一つだ。
「これで逃げ場は無し、か」
坂下の言葉に橋本は何も言い返さず、坂下を見つめていた。少し面白いな、と橋本は思った。一瞬だけだったが、ゲームをしているような気分になった。
彼は口を開く。
「この方が良いかもしれない。逃げ場があるから僕は逃げる。だから、逃げ場は無い方がいい」
何を言いたいのかわからない。寒い外で長話をするのは嫌いなので、橋本は単刀直入に訊いた。
「部屋を覗いていた理由は何だ?」
「覗いていた、か。そんな風に見られたのか」
坂下は残念そうな口調で答えた。本人に部屋を覗こうという気は無かったらしい。だが、これが演技だという可能性もある。
次に、彼は理由を話した。
「中川が真犯人だ。……君が僕を押さなければ、誰も傷つかなかったんだ。それなのに、君は罪を全部僕に着せた。今まで、何とか耐えてきたけどね……無理らしい」
憎しみや悪意が混じっている彼の言葉が橋本の脳裏に響く。中川も思い出したくないような表情をしている。二人とも顔をしかめた。
そのことを坂下は無視して、続ける。
「『あの事件』は終わっていないんだ」
*
橋本には少し感謝している。彼が逃げ場を消してくれたので、僕は言いたかったことを伝えることができた。しかし、それは他人の力を借りたということになる。
坂下の心に微妙な思いが広がる。僕自身が最初に行動することができなかったのだ――と自分を責める。
『あの事件』で坂下は人間不信に陥った。裏切られたダメージが彼の心に大きな穴を開けて、色々な思いがその穴に吸い込まれていった。心の中に残るのは憎しみや悲しみ、悪意などのゴミのような感情だけだ。何故、そういう感情は穴の外へ流れていかなかったのかはわからない。
中学校に入ってからは少し落ち着くようになったが、心に開いた穴が治ることは無かった。住んでいる都道府県は同じでも通う中学校は中川や橋本の通う中学校とはかなり離れていたが、嫌な気分だけが溜まったまま生活していた。
そして時が流れて、高校生になっても状態が変わることは無い。時は何も解決してくれなかった。
この呪いのような何かは一生消えることが無いのだろう、と坂下は思っていたが、高校三年生の夏休みの一日前に『あの事件』の記憶がフラッシュバックのように蘇った。恐怖を感じた。
その時に思った。このままではいけない、と。しかし、気が弱かったのでマンションの中に入ることができなかったのだ。逃げ道があったからだ。別に行かなくてもいい、という選択肢が残されていたから、行動する決心ができなかった。
しかし、橋本がその選択肢を消してくれた。だから今、ついに進むことができる。……微妙な心境だが。
視点が変わりました。まあ、伝える必要も無いのですが。
『あの事件』が物語の鍵になります。それがどういう事件か、ということは黙秘します。次回の楽しみにしてください。
登場人物はさらに増えていきます。物語が上手く進むか、少し不安ですが頑張っていこうと思います。
読んでくれている皆様には感謝しています。本当に感謝しています。頭を深く下げて「ありがとう」と言いたい気分です。