思い出す事件・一
橋本は中川と一緒にマンションへ向かっている。橋本は携帯電話で母親にメールを送る。
『友達と食事に行くことになったから、帰るのが遅くなる』
携帯電話の電源を切っておけば楽になるのだが、帰った時に何を言われるのかを想像すると、電源を切ることはできなくなる。そう思いながら、携帯電話を右ポケットに入れた。
彼女はスパゲッティを全部食べられなかった。食欲も無くなるような問題で、俺が想像しているよりも悩んでいるのだろう、と橋本は考えた。暗い道を二人は何も言わずに歩いていた。
中川がマンションを指さす。マンションの窓から光が漏れている。四階まであり、建物の色は黒に近いと思った。
マンションに近づいてみると、入り口に誰かが立っているのが見えた。橋本との距離がかなりあるので、身長や体格はよくわからない。さらに近づこうと思ったが、中川の足が止まったので、真似するように橋本の足も止まる。動いてはいけないような気がした。
「どうした?」
橋本が訊くと、彼女は答える。
「あの人……」
彼女の目が大きく開き、怯えているような表情になる。
「不審者か?」
「うん」
彼女の声が小さくなっていることに気づいた。橋本は情報を整理してみた。
――入り口にいる人が、中川の部屋を覗いている。その目的は不明で、中川との関係も不明。
もう少し情報が欲しい、と考えた橋本は入り口にいる人に気づかれないように小声で中川に訊いた。
「あの人の特徴は?」
「窓から少し見たことがあるけど、高校生のようだった」
「他には」
「顔は男子だったかな」
男子で高校生……。橋本の脳裏に一つの仮説が浮かぶ。
「同じ高校の生徒じゃないのか?」
「絶対違う」
彼女は否定した。その口調は鋭かった。そして続ける。だが、その時の口調は弱々しい。
「顔に見覚えが無いし」
顔も見たようだ。だが、詳しくは覚えていないらしく、「どんな目をしているか」と訊かれると顔を俯けて黙ってしまった。部分的なことはわからないようだ。
知らない男子高校生の正体が誰なのか、気になってくる。橋本は中川に言った。
「捕まえてくる」
橋本はマンションの入り口へ少しずつ近づいていく。中川は遠くで見守るように橋本を見ている。
少しずつ不審者の姿が鮮明になっていく。黒い髪は短い。着ている黒い服には白い線で英語のような文字で何かが写されている。顔は下に向いていて、考え込んでいるように見える。
そして、二メートルくらいまで近づいた時、入り口にいた不審者が橋本を見た。確かに男子だった。
彼は顔を反射的に橋本からそらして、橋本がいる場所の反対の方向へ逃げようとした。だが、その時に段差に右足が当たり、背中を空に向けるようにして地面に倒れた。ドサッ、という音と共に「くっ」という言葉が不審者の口から出る。
橋本は倒れた不審者に近づいて訊いた。
「お前か?」
だが、顔は地面に向いたままで、何も答えない。橋本は不満があるような表情をして、溜息をついた。すると、倒れた不審者が起き上がる。痛そうな表情をしている彼を橋本は睨みつけた。
驚いたのか、彼の身体がビクッと動く。彼は橋本を我を失ったかのように見つめている。放心状態のようだ。そして、彼の目が橋本の右手にいった瞬間、
「……君は」
と声を漏らす。身体が少し震えている。どういうことだろうか、と橋本は疑問に思った。そして、彼は呟く。
「橋本……か」
橋本の表情が固まった。これは夢だろうか。しかし、これは夢でも妄想でもなく、現実である。だが、その当たり前のことを橋本は少し疑った。
「どうしてわかる?」
橋本が思わず訊いた。すると、後ろから足音が聞こえる。振り向くと、中川が恐れるようにゆっくりと歩いてくるのが見えた。