混乱する日々・一
容疑者は何人いたのだろうか。坂下は『あの事件』が起こったときの場面を脳裏で蘇らせる。容疑者は四人だ。もしかしたら、彼らは五人だと言うかもしれない。自分も入れて、という意味不明な言葉と共に。
「橋本」
坂下が小声で言うと、橋本が坂下を見つめる。顔で訊いているようだ。坂下は言った。
「西野とかもいた。そういう人とは今も知り合いか?」
橋本は中川のほうを見た。だが、何も言わない。表情で訊いているのだろう。二人がどういう関係なのか、少し気になる。というよりは、二人が恋愛関係とか友人関係という幸せな関係を持っていて楽しそうに日々の生活を送っていることに嫉妬しているのかもしれない。
その嫉妬のような感情が坂下の心を微妙に苦しめている。すると、中川が坂下とは目を合わせないようにして、呟いた。
「いるけど」
彼女は溜まった負の感情を吐き出すかのように、低い声で続ける。
「何か?」
坂下は少し怯えた。声でここまで背筋が震えたのは久しぶりだ、と思った。これではダメだと思い、坂下は全身に力を入れる。怯えを見せない口調で答える。
「呼べ。と言っても、今日はダメだな。明日だ。明日がダメなら明後日だ。絶対に集合させるんだ」
それぞれの言葉の語尾の部分の声には力を込めた。聞いた中川は面倒な表情をしている。坂下は彼女の気持ちがよくわからない。
それとは少し違って、橋本の表情には少しだけだが一瞬笑みが浮かんだ。見間違いだろうか、と思ったが、そうではないようだ。彼は頷いたのだ。僕の意見に賛成しているのだろうか。理解してくれているのだろうか。そうだとすれば感謝したい。
坂下は中川に顔を向ける。視線が合うと、彼女が目をそらしてきた。面倒だと思っているが、断っても意味がないと気づいているのかもしれない。
僕は君に嫌われても何とも思わない、と坂下は心の中で呟くと、「明日、来るからね。午後一時に」と二人に向かって言う。そして、足を進める。橋本の横を通り、中川の横を通る。彼女は最後まで目を合わせてくれなかった。別に気にしていないのだが、ここまで非協力的だと解決させることが難しくなるなあ、と坂下は悩んでいた。
頭の中に色々と思い浮かべながら、坂下は自宅へ帰る。何となく、何も思わずに振り返ってみた時には、二人の姿は見えなかった。家の窓から漏れる光と、空に広がる闇が坂下の視界に入っている。
*
坂下の姿が見えなくなると同時に、中川は舌打ちを何回もし始める。その音が橋本の耳に届き、頭を微妙に刺激する。何だか、気分が悪い方向へ行ってしまいそうになったが、彼女の気持ちを考えると、何も言えなくなる。止めろ、とは言えない。
一分くらいが経過すると、彼女は舌打ちを止めた。そして、呆れたように言った。
「何、あの人。というか、どうしよう」
「ああいう人間に相手をしないという態度をとるのは逆効果だ」
聞いた中川は溜息をついた。橋本は自分の意見を説明し始める。
「坂下は『ある事件』の真相を見つけようとしている。そのために中川に近づいた。坂下が調べて、最初に見つかったのが中川かもしれない。だから彼は、呼べ、と言ったんだ。ここで呼ばなければ、坂下は絶対にこう言うだろう。……何故、呼ばない? 犯人だと知られるのが怖いのか、と。だから、ここは諦めて付き合うしかない。明日、俺も行くからさ」
ここまで言うと、橋本は声が漏れるような深呼吸をした。説明が終わったことを知らせるサインだ。だが、それには気づかず、数秒の沈黙で、説明が終わったのだと理解した中川は仕方なく「わかったよ」と答えた。
彼女は今が夏休みであることを呪っているのかもしれない。表情に見事に表れている。その表情を少しも変えずに暗い口調で彼女は訊いた。
「西野とかにメール、送らないとダメかな」
西野……洋祐か、と自分で理解する。
「そうだな。島田もいたと思うんだが、彼にメールは送れるか」
「島田はわからないんだよね。高校違うし」
「わかった」
橋本はそう言うと、作り笑いを浮かべた。だが、中川の表情が良くなることはなかった。今日は無理だな、と思った橋本は中川に「さようなら」と言ってから、自宅へ帰った。
橋本は歩きながら空を見た。真っ黒だった。その時に、明日はどうなるのだろうか、という言葉が脳裏に浮かぶ。この言葉の裏には、少しだけだが期待も隠れているのだと、橋本はわかっていた。