春雷会
手野グループは、戦前にあった手野財閥、さらには江戸時代で相談役や後見のための組織に端を発する春雷会という組織がある。
古文書では、1728年に設立され、砂賀藩藩主の砂賀家を支えた家臣団によって組織されることとなっていた。
春雷会長は砂賀家当主であり、これは砂賀藩藩主が就くことである。
なお、副長として筆頭家老が就くこととなっていた。
春雷会の所管することがらは、砂賀家と、分家である山砂賀家、手野家の統括、相談役、後見とされた。
それが戦前へと移ると、江戸期中に断絶した山砂賀家を除き、砂賀家、手野家の諮問機関となると同時に、手野繊維を代表する手野財閥の議会という形となった。
日清戦争が終わったころから、春雷会は江戸時代のような面々から変わり始める。
法人格なき組合ではあったものの、手野財閥全体に影響を及ぼすことができる組織には変わりなく、一部の新設会社や社長などの役員の決定まで関与をしている。
1900年にグッディ家、テック・カバナー家と関係を持つようになって以降も、この状況に変わりはなかった。
ゆるやかではあるが、中枢会社と呼ばれる手野財閥の中心となるような会社の代表者や、代表者の補佐をする人も春雷会の会員となることができるように、規則が変更されていった。
大きく変わったのは1910年に春雷会株式会社が設立され、その会員の種別が確定してからである。
春雷会では、手野家、砂賀家の各当主、副当主格、代表者については特別会員とした。
さらに明治維新以前からの春雷会会員の直系卑属である者は古参会員として遇され、春雷会の会員となるべき企業の代表者や代表者の補佐をする首席の者については企業会員とされた。
この3つの会員区別ができたことにより、株式は3分の1ずつ分けられ、それぞれに発言権が与えられることとなった。
海外進出を強め続けており、手野財閥の中枢である春雷会にも、発言を行うことができるようにするという意見が出たのは、企業会員からであった。
海外のかなめであるグッディ家、テック・カバナー家の2つの家について、特に重視すべきという企業会員の一致した意見に対して、春雷会の意義という点から考え、砂賀家、手野家の家政機関、手野財閥の諮問機関ということから、海外派閥を入れるということは避けるべきという古参会員で激しい論争があった。
そこで特別会員である手野家、砂賀家の当主同士の話し合いということとなり、姻族である彼らを迎え入れない理由はない、とし、最終的に1914年に資格が変更され、特別会員枠として入ることとなった。
なお、これによって特別会員は手野家、砂賀家、グッディ家、テック・カバナー家の4家の当主あるいは当主代理人、さらに手野家、砂賀家の当主以外の代表者によって構成されることとなった。
グッディ家、テック・カバナー家については、海外に常駐するためそれぞれの国籍を有する当主代理人が春雷会の会合には参加することとなった。
この時に取締役の規則も新たに作られ、特別会員から3人、古参会員から3人、企業会員から2人が取締役となり、取締役の互選によって代表取締役を1名選出することとなった。
取締役は任期は2年、再選可能となっていたが、代表取締役は特別会員から選出され、かつ任期は1年となっていた。
このため、1931年から2年間はグッディ家が、1937年から1年間はテック・カバナー家が、それぞれ代表取締役の任に当たることとなった。
とくにテック・カバナー家の時には、今もなお続いている手野極東国際映画祭の第1回が行われた。
今は手野国際映画祭として、世界四大映画祭としてFIAPF公認の映画祭となっている。
この手野国際映画祭は現在は手野財団の一部として運用されている。
1941年、第二次世界大戦がはじまると、春雷会も否応なしに国からの干渉を受けることとなる。
特にグッディ家、テック・カバナー家の参画がある手野財閥については、彼らの全株式の放出とともに、各当主代理人の軟禁が命じられた。
軟禁されたとはいえ、場所が指定されていなかったということもあり、岡山県砂賀町にある砂賀城内に軟禁という形をとった。
彼らが持っていた株式は、それぞれが指名した日本国籍の弁護士が引き継ぎ、彼らの復代理人として、さらに各家の利益代表者として行動することとなった。
なお、表向きは手野家、砂賀家の副当主が株を継いだことにしたうえで、その弁護士に全業務を一任するという形をとっていた。
当主代理人は、1942年の交換船によって帰国させられることとなる。
1945年、終戦とともに当主代理人はすぐに春雷会の任務へとあたるために戻ってくることとなった。
帰任とともに復代理人の権限の全てを引き継ぎ、それから訪れることとなる各家の視察団の受け入れ、財閥解体にともなう事務作業の数々の手続きなどなど、さまざまなことを行うこととなった。
手野財閥の部門の解体とともに、中心となっていた純粋持ち株会社手野統括は解散され、手野財閥に属していた企業が路頭に迷うこととなる。
ここで当主同士が話し合い、当面の間、手野財閥の代わりに春雷会がその任にあたり、さらにアジア部門全体を統治することとなった。
アフリカおよび欧州、さらにソ連圏にあたる地域についてはグッディ家が、南北アメリカおよびオセアニア地域についてはテック・カバナー家が責任を取ることとなった。
春雷会はグッディ家、テック・カバナー家がいるということもあり、解散命令は出されることはなかったが、実際のところはテック・カバナー家が裏から手を回したという噂である。
1951年、財閥解体の流れが止まる。
ここですぐに春雷会を中心として手野グループとして再出発するための再編事業が始まることとなる。
この再編に伴う多数の企業を系列としてまとめ、さらにその系列同士が業務が重複しているという複雑な様相を呈していた。
このため、手野系列社長会として、それぞれの相互理解や親睦などを図る組織を立ち上げることとなった。
この手野系列社長会が手野グループ全体の統帥を行うこととなり、春雷会は実務から手を引いた。
しかし、戦前のような持株会社としての中心はなく、ただ手野グループとしてまとまっているに過ぎない状態だった。
再び離れることを防ぐということもあり、春雷会はその求心力の中心として利用されることとなった。
1970年には手野産業が、すべての持株会社として設立され、手野系列社長会とともに手野グループのけん引役となる。
ここで、会員資格が見直しをしようということとなった。
以前の見直しから相当経ち、もはや戦後ではない、と言われるようなった時世ということもあってだ。
特別会員という名称から当主会員と名を変え、手野家、砂賀家、グッディ家、テック・カバナー家の4家の各当主がつくこととなった。
古参会員は上席会員となり、古参会員の直系卑属の者がなることとなる。
そして、企業会員は特別会員となり、当主会員、上席会員の総議によって会員となった者である。
なお、特別会員となる者は、基本的には中枢企業となるような手野グループの中心に位置する企業の代表者であるため、名称こそ変わったものの、原則は踏襲されている。
株式の保有は、会員ごとに3分の1され、所属人数によってさらに按分されることとなる。
2010年には、手野グループの栄典を授けられた者による会員資格が作られた。
これを栄典会員と呼ぶが、栄典会員は株式の保有はないことが他の会員とは異なる。
春雷会の株式を持つ会員資格を正会員と呼び、栄典会員は準会員となるのはここからである。
そして、春雷会は存続の危機を幾度と乗り越えて今まで残ってきた。
手野グループ全体の統治こそしていないが、権威の象徴のような形で関与はしている。
今でも、手野グループの議会として機能はしている。
手野家や砂賀家の家政機関という位置づけも変わっていない。
これから長い歴史を歩んでいくこととなる春雷会は、少しずつ変わり、それでも変わらないところもありつつ生き残っていくことだろう。