第66話 幸子がリングで見つけたもの
ハァハァハァハァハァ…
苦しい…
苦しい苦しい苦しい…
息が…
空気が足りない…
視界は酷く狭くて、ボヤケて、何がどうなっているのか全然分からない。
音は無茶苦茶にうねっていて、誰かが何かを言っているけど全然わからない。
全身が悲鳴をあげていて、膝はガクガク震え、少しでも油断したら引っくり返りそう。
ハァハァハァハァハァ…
苦しい…
誰か…
誰か教えて…
私はどうなっているの…?
相田さんは何処にいるの…?
その時だった。
頭が重たくて下を向いていた私のボヤケた視界に、見覚えのある黒いズボンの人が近寄ってきた。
これは…
レフリーさんだ…
やばい…
やばいよ…
私がこんなんだから、試合を終わらせるかどうか判断しに来たんだ。
耳元で何か言われた気がする。
続行出来るかどうか聞いているの?
答えなきゃ…
答えなきゃTKO負けになっちゃう!
「まだやれます!!!まだ…、戦えます!!!!!」
精一杯叫んだ。
ハァハァハァ…
ファイティングポーズ取らなきゃ…
あっ…
嘘でしょ…
私の腕をレフリーが掴んだ…
終わらせないで…
!!!!!
ハァ…、ハァ…、ハァ…
高々と挙げられた、青いグローブの右手を中心に…
視界と音が一気に戻っていくのが分かった…
ワァッァァァァアァアアアアァァァアアアアアアアアア!!!!!
突然の大歓声に、何がどうなっているか分からない。
私は腕を降ろされ、どうして良いかまったく理解出来ていなかった。
「こーちゃん!こーちゃん!!!」
まるで迷子が親を探すかのように、大好きな人の名前を叫んだ。
弱々しく突き出した両手の中心に、誰かが飛び込んできた。
「さっちゃん!!!」
「こーちゃん!!!」
「おめでとう…、ウゥ………、おめでとう!!!」
「ど、どうなっっているの…?」
「勝ったんだよ!!!優勝だぁぁぁあああ!!!」
あぁ………
良かった………
これで………
夢が叶えられる………
会長がグローブを外してくれた。
「さっちゃん!おめでとう!!最後の1撃は、切なくて格好良くて、もう最高だったよ!!!」
「会長…、褒めすぎです…」
「何を言ってるんだ!?今褒めなくて、いつ褒めるのさ!!!今日はさっちゃんが恥ずかしくて穴を掘って隠れるまで褒めるぞ!!!」
「やめてください!」
「でも親父の言う通りだよ…、グズッ…、さっちゃん格好良かった!」
「こーちゃんのお陰だよ…」
「んーん。さっちゃんが諦めなかったから…。グズッ…、さっちゃん…。ウワァァァァァァァン………」
「こーちゃん…」
彼は人目をはばからず泣いていた。
私は優しく彼を包んだ。
ずっと私を支えてくれた彼を…
『さぁ!優勝インタビューです!!!』
ワァァァァァァアアアアアアア…
『初出場で初優勝を飾った、鈴音 幸子選手!!!おめでとうございます!!!』
大歓声と沢山の拍手に包まれた。
360度、全方向から降り注いでくる祝福の風に、涙が止め処なく零れ落ちていく。
「ありがとう…、ございます…、グズッ…」
『苦しい戦いでした。感想などあればお願いします。』
「相田さんは…、兎に角凄くて強くて…、私の動きがほとんどよまれてて…。技術では全然敵わなかったです。」
『しかし2度のダウンを奪い、KOしました!』
ワァァァァァァアアアアアアア…
「1度目の時は相田さんが混乱している隙に、2度目はアウトボクシングという大きなフェイントから、最後は…、すみません、よく覚えていません…」
アナウンサーさんが少し驚きつつ、説明してくれた。
『最後の時の鈴音選手は大きく崩れ、誰もがダウンだと思った瞬間、超低空からの強烈なスマッシュを撃ち放ったのです!』
そんなことが…、あったの…?
きっと…、それは…
「倒れなかったのは…、試合前の宣言の通り…、皆さんの応援が背中を押してくれたからだと思います!本当にありがとうございます!!!」
ワァァァァァァアアアアアアア…
『今の気持ち、一番誰に伝えたいですか?』
突然の質問だったけれど、リングサイドにいるお母さんを呼び寄せた。
こーちゃんの手助けを得て、リング上にお母さんとナナちゃん、そしてマー君がやってきた。
「よく頑張ったねぇ…」
「うん…、皆が…、皆が応援して…、グズッ…、くれたから…、グズッ…」
ボロボロと流れ落ちる涙と戦っている私を、お母さんは優しく抱きしめてくれる。
「さっちゃんは、お母さん自慢の日本一の娘だよ!」
「お母さん…」
お母さんも涙を零しながら、嬉しさを噛み締めているようだった。
『さぁ!優勝賞金の1000万円です!!!』
沢山の企業名が記載され、真ん中に1000万円と書かれた大きなパネルが渡された。
沢山の拍手は、このお金を手にするに値する試合だったと褒めてくれているみたいだった。
だけど…
『この賞金は、何に使いますか?』
この問に、私は即答した。
「今使います!」
『今?』
パネルを持って、お母さんの前に歩み寄る。
そして、グイッと賞金を渡した。
「お母さんにあげる。」
私の言葉に一瞬驚き、直ぐに怒ったような顔でパネルを突き返してきた。
「ダメダメダメ!これはさっちゃんが努力して苦労して乗り越えて、やっと手にした優勝の証なの!絶対に受け取れないからね!!!」
私はグッと押し返す。
「受け取ってほしいの。」
「ぜーーーったいに駄目!!!」
「でも…、このために頑張ってきたから…」
お母さんは、まさかって顔をした。
「このお金で、ひまわり荘の借金が返せる?」
「ばっ…、馬鹿なこと言わないの!そんなことしなくてもちゃんと…」
「このお金で、ナナちゃんの手術代が払える?」
「………、さっちゃん………」
「このお金で、マー君が食べたいって言ってた、10人前のコロッケ買える?」
「うぅ………、沢山…、買えるよ…」
「良かった…」
「全部買えたら、お母さんの幸せも見つかる?」
「さっちゃん…」
「お母さんは、全部の時間をひまわり荘につぎ込んでいたから…。だけど、お母さん自身の幸せも見つけて欲しいから…」
「さっちゃん…」
「ダメ…、かな…?」
「さっちゃんは日本一の娘じゃない!」
「お、お母さん…?」
「世界一の娘だよ!!!」
「お母さん!!!」
ギューっと抱きしめられ、胸がいっぱいで、涙は滝のように流れて…
「お金は好きに使いなさい。そんなことよりも、家族の幸せを考えていたことが嬉しいの…。強くなったね、さっちゃん…」
お母さんの言葉に、10年間溜め込んで我慢していた想いが弾けた―――
「お母さん大変!お姉ちゃんが…!!!」
ナナちゃんが叫んだ。
「笑ってる………」
私は―――
産んでくれたお母さんとの約束を果たせて―――
笑顔を取り戻すことが出来た―――
私の笑顔がリングを包み込んでいく。
こーちゃんなんか、私を思いっきり抱きしめて、笑顔を取り戻したことを喜んでくれた。
そんな彼は、アナウンサーさんからマイクを借りると…
「今日は、鈴音幸子の誕生日なんです!皆さん!お祝いしてやってくれませんか!?」
と叫び…
ハッピーバースデーの大合唱がホールに響いた…
ちょっと恥ずかしかったけれど…
凄く嬉しかった…
天国のお母さん、聞こえますか?
産んでくれてありがとう…
身をもって助けてくれてありがとう…
私…
生きてて良かった…
これからも…
お母さんの分も、精一杯生きるからね…
『それでは!第4回クリスマスバトルを閉会します!!!来年はどんな戦いが生まれるのか!?それまで皆さん!お楽しみに!!!』
アナウンサーさんが大会を閉める。
私はこーちゃんに肩を借りて、大喝采を受けながら花道を歩いていった。
ホールから通路へ抜けると、急に力が抜け、立っていられなくなっちゃった。
「緊張が解けたのかもね。ほらっ…」
こーちゃんにおんぶして貰って、控室に戻ってきた。
直ぐにドアの向こうに報道関係者が集まってきていた。
会長が外に出て、取り急ぎ対応をする。
その間に帰宅の準備を進めた。
外は大騒ぎで、時々ドアが叩かれたように大きな音をたてていた。
「会長…、大丈夫かな…」
「今回ばかりは、女子ボクシング界にとって、久々の大きな話題だからね。これがもしもタイトルマッチだったら、今日は帰れなかったかもよ。」
「そ…、そんなに…?」
「もう…。張本人なんだから、少しは認識しておきなよ。さっちゃんは、それだけ凄い事をやり遂げたんだ。」
「実感…、ないかも…」
「まぁ、明日になれば分かるよ。」
「頑張って着替えてくる。」
控室の中にある更衣室で、言うことを聞かない体と格闘して、何とか着替えを済ませると、なんだか扉の外が静かになっていた。
少し経つと会長が戻ってくる。
ドアの外に押し掛けてきていた記者達は、居なくなっていた。
「雷鳴館の轟会長さんが、明日合同記者会見することで、記者達を納得させてくれたよ。」
「合同?」
私の問いに小さく頷く。
「勿論、相田とさっちゃんの合同記者会見さ。ちなみに夕方やる予定だよ。」
「じゃぁ、それまでに雷鳴館に居なくちゃいけないの?」
「ん?うちのジムでやるんだよ?」
「えっ?どうして?」
「さっちゃんが勝ったからじゃない。」
「あっ………」
きっと私は間抜けな顔をしていたと思う。
それを見た会長とこーちゃんは派手に笑っていた。
本当に実感がないから…
「よし、取り敢えず幸一は、タクシーでさっちゃんを自宅へ送ってあげて。俺は荷物を持ってジムに向かう。」
会長の指示で帰宅となる。
タクシーの中は静かで、いつの間にか眠ってしまっていた。
起こされた時には家の前。
支払いを済ませたこーちゃんに引っ張り出してもらって、再びおんぶしてもらう。
まぶたが重くて、兎に角ベッドが恋しい。
あぁ…
でも…
一つだけ、やり残したことがあるよ…
家にあがって、おんぶのまま二階の部屋に連れていってもらう。
「大丈夫?重いでしょ?」
「へーき、へーき!」
でもちょっと辛そう…
何とか部屋に着いて、ベッドに寝かせてもらった。
「ゆっくり休んで。正月明けまで休暇だからね。」
「こーちゃん…」
「ん?どうした?」
「あのね…、こーちゃんに伝えたいことがあるの。」
「ん??」
「告白の返答…」
「あっ…」
彼は慌てて、どうしたら良いかオロオロしていた。
少しして腹をくくったのか、真剣な表情で私を見つめてきた。
「ど、どうぞ。」
「私を…、彼女にしてください…。私もこーちゃんが好き…」
「もちろんさ!」
「恥ずかしくない彼女になれるよう頑張るから…」
こーちゃんはゆっくり首を振って、そっと頭を撫でてくれた。
「そんなことは必要ないよ。俺は今のさっちゃんが大好きなんだ。そして、これからのさっちゃんもずっと好きになる。だから、無理したり背伸びした付き合いはしたくないんだ。お互いね。」
彼の思いやりと優しさが、疲れた体に染み込んで、心が満たされていく。
そして、私は…
「今日はね…、今まで落としていた感情の中の、最後の2つを見つけたの。」
「2つ?」
「1つは笑顔…、もう1つは…、恋心………」
「!!」
鼓動が高鳴っていく―――
「あのね…、我儘言ってもいい?」
「いいよ。優勝のお祝いに、何でも聞いちゃう。」
「誕生日プレゼントは貰ったから、今度はクリスマスプレゼントが欲しいの…」
鼓動は更に大きくなっていく―――
「あっ…、でも、貯金全部使っちゃったから…」
こーちゃんはちょっと寂しそうな顔をした。
私は彼の手を握って、そのまま瞳を閉じた―――
意味を理解したこーちゃんの顔が近づいてきて―――
初めての恋が始まった―――――




