第62話 幸一のプレゼント
「では、試合前の練習はこれで終わりにしよう。」
ハァ…、ハァ…
さっちゃんの瞳は、真っ直ぐ俺を貫いている。
力のこもった視線の奥では、不安で潰れそうになっている。
今日は12月23日―
運命の決勝戦は、明後日の25日だ。
その日は奇しくも、さっちゃんの誕生日でもある。
「気持ちは分かるけれど、これ以上はオーバーワークだよ。休息もしっかりとって、万全な体勢で試合に臨もう。」
「う、うん…」
「さっちゃん。不安になったら思い出して。自分の拳には、色んな人達の色んな想いが宿っているって。」
「うんっ!」
単純なのか複雑なのか、時々わからなくなるけれど、誰かの心の中なんて理解出来るはずがない。
けれど、こうやって会話を通じて想いを交わして、少しずつ分かり合っていくんだと思う。
親父や委員長さん、お母さんと雪ちゃんとレオさんも、きっと他にも沢山の人が、さっちゃんを励ましてくれた。
そのお陰で、『ほぼ』元通りになったかな。
残された時間もないけれど、後は腹さえくくってくれれば、きっといつも以上の力を出してくれると思う。
それにしても…
さっちゃんを励ましてくれた人達は、その全員が俺に何とかしろと言ってくる。
まったく…
俺は、さっちゃんの事はよく知っていても、その…、何というか…、女の子の気持ちは分からないんだ…
でも今度の試合はそうも言ってられない。
1年生の新人が掴んだ、最大にして最高の舞台なんだ。
これを逃せば、上にあがるには3年…、いや5年はかかると思う。
成功すれば…
ハッキリ言う。
ベルトが見えるほどの、歴史的快挙になる。
成功させてあげたい一心で、俺なりに色々と考えたんだ。
でもそれは、25日当日に決行する。
なんとしてでも、さっちゃんと勇気を一緒にリングにあげるんだ。
あっ、そうだ。
「明日は計量終わったらケーキ持って、ひまわり荘に行くからね。ゆっくり体を休めるんだよ。」
「うん…」
やっぱり元気がない…
あぁ…、何とかしてあげたい…
えぇーい!
25日に男を見せるんだ!
まずは俺が腹をくくらないと!
そして翌日―
計量も無事パスして、すれ違いざまにチャンピオンも計量をパスした。
試合前の記者会見で相田さんは…
『パワーのあるインファイターの対策は、十二分にしてきた。後は自分との戦いだと思っている。』
そう言い切った。
まるで勝利を確信したようなコメント。
悔しいが、さっちゃんには絶対的に足りていない部分がある。
それは経験。
それを補う為に、沢山の動画も見たけれど…
相田さんの、見事に完成された化物っぷりが再確認出来るだけだから、途中から見るのを止めた。
作戦はいくつかあるけれど、正直期待は出来ない。
丸投げするつもりは更々無いけれど、後はさっちゃんに期待しよう。
当てさえすれば勝てる―
この言葉を呪文のように繰り返し伝えてきた。
後は当てられる状況を作るだけなのだけれど…
親父も言っているけれど、『それが出来るなら、相田さんは過去に敗北もしていただろうな』って言葉が頭から離れない。
フィニッシュブローを打たせないような試合運びが出来るから、チャンピオンはチャンピオンであり続けているわけで…
考えても埒が明かない。
考える時間はとっくに終わっているはずだ。
さっちゃんと二人で予約しておいたケーキを受け取り、そのままひまわり荘に届けた。
今晩はボクシングの話しをしない。
何気ない会話から、世間話をする。
大はしゃぎのマー君につられて、笑顔が広がっていく。
そうそう。
ナナちゃんが一時退院したんだよ。
彼女はすっかり姉であるさっちゃんになついていた。
命の恩人―
そう言ったナナちゃんにさっちゃんは―
「ここに居る全員が、私の命の恩人…。本当にありがとう…」
そう言って深く頭を下げていた。
本心だろう。
1人では、とてもじゃないが超えられない壁だったと思う。
絶望的な壁だったけれど、もう頂上が見えている。
もう手が届く距離まで―
そしてさっちゃんは、全員にプレゼントを渡していた。
マー君には帽子、ナナちゃんには、雪ちゃんと戦った時のグローブ、お母さんにはロングコート…
「はい!どうぞ!」
「あ、ありがと…」
まさか俺にもあるとは思っていなくて驚いた。
完全にサプライズだった。
ちょっと先を越された感がある。
袋の中身は、指先の無い手袋だった。
その手袋を装着してみたら―
無意識に涙が溢れていた。
「こーちゃん?」
心配そうに覗き込んできたさっちゃん。
「何だか、色んな事を思い出しちゃって…」
この10年間のことを―
涙を拭く。
もう直ぐ長かった戦いに決着が付く。
その手助けは俺がやり遂げるんだ。
すげーやる気出てきた。
「この手袋、明日の試合でつけるから。」
「!?」
「皆にみせびらかすんだ。」
「な、なんだか恥ずかしいよぉ…」
「俺は自慢したい!」
「………」
顔を赤らめながらうつむくさっちゃん。
「僕もこの帽子かぶって応援行くよ!」
マー君の言葉で更に盛り上がるひまわり荘。
今日も温かい光に包まれて、クリスマスイブが終わる。
さて…
明日は最高の状態でリングに上げてあげないと…
それは俺にかかっている…
正直、緊張が半端ない。
だからと言って逃げたりしないぞ。
俺はずっとそうやってさっちゃんに向き合ってきたんだ。
そして運命の12月25日を迎えた―
「じゃぁ、親父。俺はちょっと用事があるから。戻ってくるまでさっちゃんの事、しっかり頼むよ。」
「おい幸一。こんな大切な時に用事だって?それって今日じゃなきゃ駄目なの?」
「駄目なの。なるべく早く戻ってくるから。さっちゃんも待っていてね。」
「………」
不安そうな眼差し…
「出来れば…、一緒にいて欲しい…」
そう彼女は言った。
胸が苦しかった。
「直ぐに戻ってくるよ。」
試合開始まで1時間を切っている。
控室には、色んな人が応援や励ましに来てくれているし、ちょっとは気がそれるはず。
レオさんなんかは察してくれて「いいから行って来い」と小声で言ってくれた。
「お願いします。」
それだけ伝えて部屋を出る。
すれ違うように雪ちゃんがやってきた。
彼女はウィンクをして「任せておいて」と呟いた。
大丈夫。
さっちゃんはもう1人じゃないから。
後は無事に用事を済ますだけなのだけれど…
今日の主役とも言えるモノが来ない…
もうとっくに届いていてもいいはずなんだけど…
時計を見ると、試合会場へのゲート前に移動する時刻まで30分を切ろうとしていた。
流石に焦ってきた。
ギリギリまで注文付けたから、それが響いたかな…
でも譲れなかったし…
時計を見る度に1分が過ぎている。
いや、1分おきに時計を見ているほど焦ってる。
まだか…
まだか…
あぁ…、焦ってきた…
後20分…
時間切れかな…
あぁ…、どうしよう…
もう、戻ろう。
これ以上は逆効果かも…
踵を返し、控室に向かおうとした時―――
ビッビッーーーーー
古臭いクラクションが聞こえ、振り返る。
ま…、間に合った…
「遅いです!」
「いやぁ~悪かったね。クリスマスだって忘れてて、予想以上に混んでて…」
「すみません!もう時間がないです!」
「後ろの座席にあるよ。」
「ありがとうございます!!!」
俺はソレを持って急いで控室に駆けていく。
人生でこれほど慌てた事が無いほど走った。
バタンッ!
控室には、さっちゃんと雪ちゃんと、泣きそうな顔をした会長がいた。
どうやら酷く落ち込んでいるみたいだ。
雪ちゃんの視線を力強く受け取り、俺も力強く頷いた。
彼女はゆっくり立ち上がり、「さっちゃん、ライバルの勇姿、客席から見ているからね!」と言い残して退室していった。
さっちゃんは今にも泣きそうなぐらい落ち込んでいてナーバスになっている。
俺はヅカヅカと歩み寄り、ガッと彼女の手を握った。
驚くさっちゃんが俺の瞳を見つめる。
「さっちゃん…。俺は今でもこれからもさっちゃんが大好きだ。」
ボンッと音がしそうなほど、一瞬で赤面していた。
「そんなさっちゃんに渡したいものがあるのだけれど、受け取ってくれる?」
何が何だか分からないまま、小さな口を半開きにして、小さく静かにコクリと頷いてくれた。
俺はさっき受け取ってきたばかりの、ソレを渡す。
「時間がなくてラッピング出来なかったけど…」
不思議そうな顔をしているさっちゃん。
「誕生日おめでとう!」
「!!!」
「開けてみて欲しい。」
彼女は、大切な大一番の前だというのに、そんな事も忘れて慌ててダンボールを開けた。
……………
暫く箱の中身を見つめていたさっちゃんの瞳から―――
一筋の涙が頬を伝う―――
そこには、真新しいボクサーパンツとスポーツブラ、そしてシューズとグローブが入っていたから―――
「ギリギリになっちゃったけど…、それを着て今日の試合戦って欲しい。」
「……………」
「リングには1人で上がらないとけないから…、俺は一緒に行けないから…。だからせめて、俺が考えたユニフォームを着て、俺も一緒に連れていって欲しんだ。さっちゃんが戦っている場所に。」
俺は目の怪我で、ボクサーとしてリングには上がれない。
その事は、さっちゃんにも伝えている。
だから、俺の言葉の意味を理解してくれたと思う。
そして…
「俺も一緒に戦うから。さっちゃんに一番近い場所で。そう思ってくれたら、不安や寂しさを少しでも和らげられるかなって…」
そう、彼女は一人じゃない。
それはさっちゃん以外の人達は理解していると思う。
けれど、1人で10年間戦ってきたと思っている彼女には、なかなか伝わり切れないと思ったんだ。
だから…
「ど、どうかな?」
「こーちゃん…」
「時間もないし、次の試合でもいいのだけれど…」
「グズッ…、こーちゃん…」
「あっ、色が駄目だったかな?さっちゃんの私服、青系が多いからてっきり青が好きなのかなって思って選んだのだけど…」
「こーちゃん!!!」
胸に飛び込んできたさっちゃんは―――
ギューッと強く抱きついて―――
俺のシャツを濡らすほど豪快に泣いていた―――
「ありがとう…、すぐ着替えるから…、今日は絶対にこれを着て試合するんだから!こーちゃんと一緒に戦うんだから!!!」
「ありがとう…」
スッと離れて、涙で溢れた顔は、真剣な表情をしていた。
直ぐに更衣室へ駆け込んでいく。
ふぅー…
何とかなったかな?
ニヤニヤした親父に、ようやく気が付いた。
「な、なんだよ…」
「よっ!色男!美味しいところ全部持っていきやがって!」
「ちぇっ、そういうんじゃないってば。」
「分かっている。あぁ、分かっているさ。で?いくらしたんだ?あれ、既成品じゃなくてオリジナルだよな?高かっただろ?」
「あぁー………、まぁ、貯金が全部吹っ飛んだぐらい。」
「奮発したなぁ。」
ニヤニヤしながら耳元で呟いた。
「経費で落としても、いいんだぜぇ?」
その言葉には即答出来る。
「必要ない!」
「あら、そう。俺はどっちでもいいけどね。」
「ふんっ!」
着替えてきたさっちゃんは、息を切らせて帰ってきた。
「ど、どうかな…」
恐る恐る姿を見せた彼女の勇姿は―――
一生忘れることがなかった―――
これから奇跡をおこしにいく―――
女神のようだったから―――
きっと―――
リングで激しく撒い終わった女神は―――
10年という長い時を超えて―――
世界で一番の笑顔を見せてくれる―――
俺はその笑顔の為だけに―――
10年間頑張ってきたんだから―――――
「素敵だよ、さっちゃん。凄く似合ってる。」
俺はニシシーと笑う。
彼女は顔を赤らめて、俺に抱きついてきた。
「戦う勇気は充填出来た?」
「勇気が溢れちゃうくらい…」
「チャンピオンを倒すぞ!」
「はいっ!」
「いくぞ!」
「はいっ!!!」
こうして舞台の幕が切って落とされた―――
歴史を変える幕開けが―――




