第5話 幸子のボクシングとの出会い
誕生日の夜。
ドキドキして眠れなかった。
自分の体なのに、何が起きているのかわからない。
本当は気付いている。
きっとこれは、興奮しているということ。
自分もあんな風にやってみたいと思っていること。
ボクシングのような激しいスポーツで勝つことが出来れば、自分が変われるんじゃないかと思っていること。
ボクサーになるという事は、死んだお母さんが言っていた「強い人」とは意味が違うけれど、でも、人として強くなっていけるような気がする。
そして、1000万あれば、お金の問題が全てクリア出来るんじゃないかと考えていること。
でもね…
冷静に分析すれば直ぐに答えが出る。
やったこともないプロスポーツの大会で優勝するとか、そんなの無理に決まっている。
だいたい、チャンピオンみたいな13年間無敗の、ボクシングの神様みたいな人だっているし…
何年かかるかもわからない。
その間に、お母さんの借金も、ナナちゃんの病気も間に合わなくなることも考えられる。
こんなことは、お母さんには相談出来ないかな…
スポーツ自体は反対しないと思う。
だけれどボクシングは駄目だと言うと思う。
それに、目的にお金が含まれているなんて知ったら、絶対に許してくれないはず。
どうしよう…
そうだ。
こーちゃんに相談してみよう。
明日は日曜日でアルバイトもないし、学校は冬休みで時間もある。
相談だけなら…
ボクシングを間近で見ている彼が、辞めた方が良いよって言うなら諦めよう。
優勝はともかく、頑張ってみようと言うなら…
そんな事を考えながら、布団を被る。
心臓の音がうるさくて、なかなか眠られなかった。
その心臓の高鳴りは、初めて自分にチャンスが巡ってきたと興奮し緊張している為だと感じていた。
可能性は低いけれど…、ゼロじゃないと…
翌朝8時。
いつものランニングに出かける。
走り出して10分程度で、三森ボクシングジムの前を通る。
足を止めて大きな窓を覗く。
すると、いつも通り数人の男性が練習をしていた。
サンドバックを叩いている人。
縄跳びしている人。
筋トレしている人。
凄い迫力…
昨日の試合を思い出して、また胸がドキドキする…
そんな時、奥の扉から見知った顔の人が、トレーニングルームに入ってきた。
こーちゃんだった。
私は直ぐに顔を引っ込め頭を抱える。
なんで隠れたかはわからない。
どうしよう…
やっぱりやめろって言うよね…
ん~~~
ガチャッ
!?
「おはよう、さっちゃん。どうしたの?」
玄関から出てきたのはこーちゃんだった。
「ぉ…、ぉはょぅ…」
私は思わず走り出そうとした。
「待って!」
珍しく彼は私を引き止める。
いつもは自由にさせてくれるのに。
「何か用事があったんじゃ?」
「えっと…。えっと…」
オロオロして彼の顔をまともに見れない。
「俺の勘違いなら良いんだけど、ほら、さっちゃん筋トレしているじゃん?うちでやりたいのかなーって思っていたんだよ。筋トレ用の設備もあるしね。だけど男ばっかだから怖いのかな?って…」
あぁ、そっか。
そういう風に思ってくれたんだ。
それならその流れで相談してみよう。
「筋トレの機械って…、ちょっと興味ある…」
「だよね!だよね!いつか誘ってみようって思っていたんだ!」
ニコニコ笑いながら、中に入れてくれた。
練習していた人達が振り返る。
「幸一の彼女か?」
「見せつけるねぇ!」
「そうじゃないです!」
顔を赤らめて必死に抵抗していた。
「ごめんね。」
そう小さく言った後に、私の紹介をしてくれた。
「鈴音 幸子。俺の同級生で、ひまわり荘に住んでいる。」
その一言で、ほとんどの人が察してくれた。
「小さい頃にちょっと色々あって、表情があんまりないけど気にしないでください。」
やんわりと大切な事も伝えてくれた。
この一言があるのと無いのとでは、コミュニケーションが大きく変わってくるから。
「それで、筋トレとか好きで、うちのマシーンに興味を持ったみたいなんだ。だからちょっと試させてやってください。」
「筋トレが趣味とか、いい趣味してるよぉ~」
「筋肉いいよー!筋肉!」
男の人達は快諾してくれた。
気にせず好きなだけやって良いよと言ってくれる。
そして、誰もが自分の練習に戻っていった。
「ささ、やってみよ。」
「うん…」
まずは腹筋を鍛えるやつ。
足の甲で引っ掛けて、板に寝そべり、頭が下がっている状態。
「案外キツイけど、無理しない程度に試してみて。」
こーちゃんの言葉と同時に開始する。
お腹の筋肉が軋む。
これは効くかも。
数回軽くこなす。
「ちょ…、そんなに軽く出来るの?」
こーちゃんは驚いていた。
「うん…」
少し考えて、次はこれをやってみようと誘ってくれた。
ベンチプレスってやつかな?
棒の両端に重りがついているやつを、寝そべりながら持ち上げる。
「さっちゃんは鍛えていたから…」
色々考えながら重さを調整してくれている。
「まずはこれでやってみよう。女子の平均より少し重いけど…。どんな感じか教えてね。」
正直、かなり軽そう。
案の定、軽くあがってしまう。
「これじゃ、筋トレにならない…かも…」
そう答えると、やっぱりねと言いながら重りを付け足していく。
「次はこれで。」
それも軽かった。
こんなやり取りを繰り返し、気がついたら重りは大きくなっていて、いかにも重たそうになっている。
「さ、さすがに無理だと思うのだけど…」
こーちゃんはそう言いながら、無理そうだった場合の対処方法なんかを教えてくれる。
間違っても自分に落としたら、大怪我しちゃうからと付け足す。
さっきのだって、それなりに重かった。
だけど、10回あげてと言われれば出来そうだった。
怪我はしたくないので、慎重にあげていく。
ギシギシ…
全身が軋む。
これはなかなか重い。
少し腕が震えながらも上げきり、ゆっくり元に戻す。
ガシャンッ!
ギリギリのところで、思わず落としてしまう。
大きな音が部屋に響いた。
「おい!幸一!女の子になんてことしやがる!」
トレーニングしていた一人が駆けつける。
「こんな無謀な事は辞めるんだ。逆に体を壊すぞ!」
どうやら私の事を心配してくれたみたい。
「いや…、もっと重いのあげられそうなんですけど…」
こーちゃんは不安そうな、それでいて何だか嬉しそうに言っている。
「さっちゃん。期待以上の筋力だよ。毎日やっていた筋トレの効果は凄かったんだよ!」
そう言ってくれた。
駆けつけてくれた人が驚いている。
「何を言っているんだ…。筋トレしているみたいだけど、このバーベル100キロだぞ?女の子が簡単にあげられるような重さじゃ…」
ひゃっ…、100キロ?
私の体重の倍ぐらいをあげていたってこと?
数字を聞くと、流石に自分でも驚いた。
それからと言うもの、色んな筋トレマシーンを試させられた。
結局全員がついてきて何だか怖かったけど、どれをやっても数字は凄かったみたい。
私はいつの間にか夢中になっていた。
当初の目的を思い出したのは、意外にも練習生の人に言われてだった。
「ねぇねぇ、サンドバック叩いてみなよ!」
そうだった。
こっちが本当の目的だったと思い出した。
「あっ、でもさっちゃん。ボクシング興味ないでしょ?」
すかさずこーちゃんが助け舟を出してくれる。
この辺は毎回のこと。
彼はいつも私の心配をしてくれていた。
「昨日…」
「昨日?」
「試合見てた…」
「レオさんの?」
コクリと頷く。
すると練習生の人達が話題に乗ってくる。
「あぁ、あれはチャンピオンの相田さんが強すぎ。」
「だよなぁ。あれだけ完成されたボクシングされちゃ、誰だって辛いよ。」
「レオさん落ち込んでないと良いけどな…」
色んな感想を言いながらも、同じジム所属のレオさんをかばっているように聞こえた。
「つまり、やってみたいと?」
こーちゃんは不思議そうな顔で私の顔を覗く。
「一回だけ…、叩いてみたい…」
「いいよ!うん、いいよ!やってみようよ!」
彼の表情がパーッと顔が明るくなる。
「体鍛えているさっちゃんには、ちょっと向いているかもって思っていたんだ。ランニングもしているし、鍛えた体を発揮するには合っているスポーツだと思うよ!」
そう言いながらグローブと白い包帯のような布を準備してくれる。
「これはバンテージと言ってね、拳を保護するものだよ。」
そう言いながら両手に巻いてくれる。
「きつかったり、緩かったりしたら言ってね。」
握られている手からは、彼の優しさが伝わってくる。
何だかカーッと顔が熱くなる。
巻き終わるとマジックテープで固定する。
次にグローブをはめて、紐で縛る。
「よし、準備完了。さっそく叩いてみようか!」
サンドバックを目の前にすると、案外大きくて驚く。
「基本的なパンチはね、左足をしっかり踏み込んで…、やってみて。」
こーちゃんがフォームを見せてくれるのを、見よう見まねでやってみる。
「そう、バンッと音がするぐらい思いっきり踏み込むんだよ。体重を左足に乗せるんだ。次に右足は踵を浮かせておいて外側にひねるようにする。そうやって体重をパンチに移すイメージね。そして腰をひねり、右手をねじりながら突き出す。」
ポンッと軽くサンドバックを叩くこーちゃん。
何回か確認しながら右手を突き出してみる。
彼はこうした方が良いよとアドバイスをしながら教えてくれる。
その時、不意にドアが開き、どこかで見た人が入室してきた。
「父ちゃん、お早う。お母さんのところのさっちゃんだよ。」
そう説明するけど、何だか疲れているっぽい。
そうかもね。
昨日負けちゃったしね。
三森さんは「さっちゃん久しぶりだね」と、言葉少なげだった。
久しぶりなんだけど、会話らしい会話はしたことがない。
だって熊さんみたいで怖いから…
「レオさんは暫く休暇だし、日曜日で練習生も少ないし、父ちゃんも休んでていいよ。ジムの方は俺が面倒見とくから。」
そうこーちゃんは言っていた。
「はぁ…。昨日の借りは、タイトルマッチで返すしかないかぁ…。けど、チャンピオン強かったなぁ…」
三森さんは、大きな体を小さく丸めてうなだれていた。
それだけショックが大きかったんだと思う。
もう少し頑張れば手に届くって感じではなかったから…
「丁度いいや。父ちゃんにも見てもらいたんだけど…」
彼は三森さんのところに行き、何か説明している。
どうやら私のことみたい。
「だけどな幸一。素人さんがいくら筋トレ凄くやっていても、それがボクシングに活かされるとは限らんよ。」
「そんな事はわかっている。でも結構良い線いってると思うんだよなぁ。本人にやる気があるならだけど…、どうかな?」
二人が相談している時に、左での打ち方も確認しておく。
すると練習生の一人が、隣で練習しながら打ち方の手本をしてくれた。
「これがジャブ…、これがフック…、これがアッパー、んで、さっき幸一が言っていたのがストレート。」
私は必死になって同じようにしてパンチ出しながら素振りをする。
「おっ?さっちゃんだっけ?なかなか良いよ!左、右と打ってワンツー!」
バッバンッ!!
ちゃんと叩くには半歩足りない距離。
バンッ!
乾いた音が響きだす。
ハッ…、ハッ…、ハッ…
体が温まりながら、集中力が高まっていく。
フォームを確認しながら、無我夢中でサンドバックに触れていく。
誰も視界に入らなくなり、乾いた音と隣で教えてくれる練習生の声だけが聞こえる。
「左、左、右!」
パンッ、パンッ…バンッッ!
手応えを少しずつ感じる。
「一歩前に出て!ワンツー!」
ドッドンッ!
重い音と共に、拳に強い刺激を感じる。
「ん?」
「さっちゃん…?」
三森さんとこーちゃんが注目した。
それすら気付かず、リズムを取りながら拳を突き出していく。
「よしっ!フィニッシュ!!思いっきり叩き込め!!!」
バンッと左足を踏み込み、右足踵を外側へ、そして腰をひねりながら力を拳へと伝えていく。
右手拳は腰の位置から、相手の顔の辺りへ向かって、下から上へ突き上げた。
ドンッッッッ!!!
自分でも信じられないほどの力が、サンドバックを跳ね上げさせる。
汗が飛び散る。
温まった体からは、もっと叩けと激しく要求してくる。
!?
「あぅ!」
ボフッ…
跳ね返ったサンドバックが、反動で戻ってくると、情けなくぶつかり床に投げ出された。
「さっちゃん!大丈夫?」
「………」
火照った体でこーちゃんを見上げた。
彼は私の真剣な眼差しを受け取ってくれる。
私は恐怖を乗り越え、勇気を振り絞った―――
体が勝手に動き出す―――
生まれ変わる為の扉を開ける為に―――