第48話 幸子の目標となる人
コンコンッ
試合が終わったばかりの、雪ちゃんがいる控室のドアをノックすると、トレーナーの近藤さんが顔を出してきた。
「あっ、鈴音さん。入って入って。」
来月対戦する相手なのだけれど、快く入室させてくれたよ。
「さっちゃん!」
雪ちゃんは、私の姿を確認するなり抱きついてきた。
「凄かったよ…、雪ちゃんの戦い…」
「うん…、ありがと…。凄く辛かった…」
「私達の試合、決まったね。」
「うん…、必死に頑張ったからご褒美頂戴!」
「えっと…、えっと…」
「美味しいご飯がいいな!」
「うん!」
シャンプーの匂いがする雪ちゃんが離れると、私の手を引いてベンチに座らされる。
「一緒にレオさん応援しよっ!」
「良かった。私もそうしたいなって思っていたの。」
モニターからはアナウンサーがレオさんと山崎さんの紹介をしていた。
「そう言えば…」
「ん?」
雪ちゃんは私の肩に頭を乗っけながら、視線は画面を向いている。
「凄いオーラだった。」
「オーラ?」
「うん。こーちゃんは分からなかったみたいだけれど、私には見えた。」
そこへ、相田さんの控室に行こうとしていた轟木会長の動きが止まった。
「鈴音君には見えたのかい…?」
「見えちゃいました…」
「そうか…。これだけは言っておこう。今のままでは池田には勝てんぞ。」
「理解しています。」
私の真剣な眼差しを受け止めると、フフッと笑いながら近藤さんと一緒に部屋を出ていった。
「なになに?あたいには何がなんだかさっぱり…」
彼女はちょっと不貞腐れながら、私に抱きついてくる。
「後でゆっくり話そ。」
「そうしようか。」
モニターから聞こえてくるアナウンサーさんの声が、更に1段階ボルテージが上がっている。
入場が終わり、二人が対峙しているから。
レフリーからの注意事項を聞いている間も、物凄い睨み合いが続く。
「山崎さん、凄い気合だね。」
「うん…」
何故か胸騒ぎがする…
二人がコーナーに戻ると、会長からのアドバイスに力強く頷くレオさん。
山崎さんも同じく、力強く頷いていた。
カーン
第1ラウンドが始まった。
二人はリング中央でグローブをタッチさせる。
直ぐにレオさんは距離を置き、相手の出方を確認して―
そう予想した矢先、山崎さんが突撃し、接近戦を挑んできた。
意表を突く攻撃だ。
だけれど、このぐらいではレオさんは崩れない。
冷静に攻撃を裁くと、いつの間にか逆転の攻勢に出ていた。
何発か良いのを貰ってしまった山崎さんは、無理せず距離を取る。
すると今度はレオさんが距離を詰め、反撃に出た。
山崎さんが押されている。
「やっぱりレオさんは凄いね。」
「でも相田さんには勝てなかった。」
「相田先輩も凄いけれど…、ね…」
何か言いたげな感じだったけれど、多分敢えて言わなかったんだと思う。
私も余計な詮索はしないし、おおよその検討は付くから。
相田さんは、誰が何と言おうと凄いし、まさしくボクシングの神様だ。
だけれど…
私生活まで犠牲にしてチャンピオンの座を守り続ける彼女の姿は、執念とか、それこそ神様なんて言葉で簡単に済まされることではないよね。
知れば知るほど、化物と呼ぶ先輩方の気持ちも理解出来ちゃう。
それほどの実績と行動力を、あの人は今も発揮し続けている。
神様の座から引き釣り下ろすのは、至難の業だ。
だって、挑戦する人も神の領域に辿り着かないといけないのだから。
朝起きて夜寝るまでボクシングに捧げている人を倒すには―
それを超える何かが必要なんだろうな―
私にはその資格があるのだろうか―
ぼんやりそんな事を考えていたら、第1ラウンドが終了した。
『両者激しくぶつかり合いながらも、内容はレオ選手がややリードか?このラウンドのポイントはレオ選手が取ったでしょう。』
「判定にはならないだろうね。」
雪ちゃんの分析に、小さく頷く。
「多分…、次のラウンドで仕留めに行くと思う。」
レオさんは荒っぽくて豪快な印象が強いけれど、実は詳細な分析に基づいて試合を組み立てているの。
だからレオさんが仕留めにいくということは、それだけの情報と条件が揃ったってこと。
そして、会長と会話するその表情からは、確実に勝てるぐらいの確信めいたものを感じ取ることが出来るよ。
対戦相手の山崎さんは…
「ん?」
私の疑問に雪ちゃんも気付いたみたい。
「山崎さん…、何か様子が変だね…」
彼女の言葉に同意する。
明らかに雰囲気がおかしい…
視線が泳いでいるようにも見える…
セコンドさんの話も耳に入ってないような感じもするよ…
次の瞬間―
怖いほどのドス黒いものが山崎さんから吹き出たように感じた―
思わず雪ちゃんに抱きつく―
「どうしたの?」
「怖い…」
「ん?」
「山崎さんから、『嫌な物』が吹き出ているの…」
「嫌なもの…?」
第2ラウンドが始まった。
私は気付かないうちに細かく震えていたみたい。
雪ちゃんは黙って強く抱いてくれた。
少し気分が落ち着くけれど…
画面に映る山崎さんからは、今も「嫌な物」が吹き出ていた。
30秒と経たないうちにレオさんが仕掛ける。
そうだ…
早く倒してしまった方がいい…
そう思えるほど、不気味な山崎さん…
画面には優勢に試合を運ぶレオさんが映っている。
いつフィニッシュでもおかしくない雰囲気となっていく―――
「ダメ…、レオさん…、ダメだよ…」
けれど…
嫌な雰囲気が益々強くなった瞬間―――
!!!!!
「……………」
会場中が静まり返る―――
有ろう事か、山崎さんがレオさんの足を蹴り飛ばしたから―――
レフリーが両手を交差し試合を止めた―――
そして暴れる山崎さんを取り押さえようとしたけれど―――
彼女はうずくまるレオさんを更に蹴り上げた―――
怒り狂ったレオさんのジャベリンが、無防備の山崎さんを捉え―――
まるでアニメの一コマのように吹っ飛んでいく―――
両陣営のセコンドもリングに飛び出し、二人を確保する―――
会場を怒号罵倒で埋め尽くされた―――
激しく何度も鳴り響くゴングで我に返ると―――
無意識に立ち上がり、レオさんの控室へ向かった―――
控室ではレオさんの足の診察が行われていた。
「レ…、レオさん…」
救護班の人が検査をする中、彼女は腕で目を覆っている。
痛みに耐えているように見えた。
「残念ながら…、折れていますね…」
その言葉を聞いたレオさんが救護班の胸元を掴む。
「骨折ならよ、2週間もあればくっつくよなぁ!?」
そして今度は会長を睨む。
「だったらよ!俺は試合に出るぞ!あの野郎をぶっ飛ばすのは俺様だ!」
会長は静かに首を振った。
「駄目だ。」
「な、なんでだよ!」
「その状態では相田には勝てない。」
「やってみなくちゃ分からねーだろ!」
「駄目だ。下手をすればボクシング人生も終わってしまう。」
バンッ!!
激しく壁を殴ったレオさん…
「あいつを倒す為なら…、ボクシング人生が終わったってかまやしねーよ!!!」
「それでは相田と同じになってしまう!!」
会長が語気を荒げた…
初めて見たかも…
そこへ救護班の人が二人の会話を遮った。
「今すぐCTスキャンを撮った方が良いです。靭帯を損傷している場合、下手をすると手術となりますし、そこで無理をすれば歩くのに支障が出るほど悪化することもあります。例え靭帯が無傷でも、ギブスで固定して…、3~4週間は体重をかけて歩けません。」
その言葉の意味するところは…
レオさんの2戦目が絶望的な事を指していた…
「なぁ…、ちょっと待ってくれよ…。次の試合出来ねーっつーのかよ!なぁ!!」
「レオさん、落ち着いて…」
私は診察してくれている救護の人に危険が及ぶと判断して、二人の間に割り込んだ。
「どけ!幸子!!」
彼女の目は真剣だった。
それだけ相田さんとの試合を見据えていた証拠。
「ど、どきません!」
ガバッと私の胸元を掴んできた。
「俺は足が駄目になっても試合をするぞ!誰も邪魔をするな!!」
私はそのまま思いっきりレオさんに抱きついた。
「今回だけは駄目です!これ以上レオさんが負けるところを見たくないから!」
「俺様が負けるわけがねーだろ!!」
「今の状態なら負けてしまいます…。怪我さえなければ勝つと信じています…」
レオさんの力が抜けていく。
「なぁ…、どうしたら…、いいんだよ…。時間がねーんだよ…」
時間が…、ない…?
そう言えばタイトルマッチ後も、そんな事を言っていたかも…
「相田の一番の敵は…、年齢なんだよ…。俺はそれに気付いちまった…。切りの良いところであいつは引退するだろう…。だから時間がないんだ…」
その言葉に会長もこーちゃんも驚き顔を見合わせた。
確かに年齢的にはピークを過ぎてしまっているかも知れない。
それでも日本チャンピオンとして君臨し続けてきたのは…
もしかして…
「相田の野郎は、倒されるのを待っている…」
レオさんの言葉に誰もが納得してしまった。
完璧主義の相田さんが手を抜いた試合で負ける訳がない。
だから年齢的なハンデさえ克服し、私生活の全てをボクシングにつぎ込んでまで、万全な体制で試合を続けてきたんだ…
「俺はよ…、最悪幸子か池田のどちらかが相田を倒してもいいって思っていた。もしも不利な試合展開なら、1ラウンドでも長引かせて、少しでも決勝に影響が出るようにするつもりだった…」
そこまでしてでも…、相田さんを倒したかったんだ…
レオさんの決意は…、本物だ…
私は胸の奥から込み上げるものを感じた…
それは激しくて、熱くて、今まで感じたことがないようなもの…
「レオさん…」
「………」
「その決意、私に譲ってください。」
「………」
「私が雪ちゃんを倒して、相田さんにも勝ってみせます!!」
「幸子…」
「私が!レオさんの無念も晴らしてみせます!!!」
フフッ…
レオさんが笑う。
「俺様はまだ死んじゃいねーっつうの。」
「えっと…、えっと…」
「幸子!」
「ハ、ハイッ!」
「化け物退治はお前に任せた。」
その瞬間―――
私の心の中で、何かが大きく弾けた―――
「死に物狂いで頑張ります!!!」
力なくベッドに横たわるレオさん。
会長は救護班の人に救急車の手配をお願いした。
そこへ、山崎さんが所属するジムの会長が控室を訪ねてきた。
会長達は廊下に出て何かを話し合っていた。
後で聞いたところによると、山崎さんはプロライセンスを自主返納し完全引退することと、慰謝料と迷惑料の支払いを申し出てきたみたい。
その時だった。
『レオは俺の宝で夢そのものなんだぞ!!!』
そんな怒鳴り声が控室の中にまで聞こえてくる。
「あのバカ…」
そう言ったレオさんは、ちょっと照れていた。
「まっ、クリスマスバトルで相田を倒せても倒せなくても、その後にベルトは俺様がいただく。」
そう言ってニヤリと笑うレオさんは、やっぱり格好良かった。
私もこんな大人になりたい―――
救急車で運ばれていったレオさんを見送り、レオさんの助言を受けて、私とこーちゃんは今後の為にも相田さんの試合を観戦することにした。




