第45話 幸子が欲しいもの
私…
倒れちゃった…
観客の声が唸り声のように響き、視界がボヤケている。
眩しいスポットライトも、曇りガラスの先にある太陽のよう…
「………ちゃん。」
誰かが呼んでいる。
「………ちゃん。」
人影が太陽を隠した。
「さっちゃん!」
!!!
その影がこーちゃんだと分かった瞬間、視界が一気にクリアになっていき、観客の歓声や罵声が耳の奥へと飛び込んできた。
「こー…、ちゃん…?」
背中には彼の腕の感触が伝わってくる。
こーちゃんが支えてくれたから、私は倒れずに済んでいた。
そう理解したと同時に、嬉しさと感謝の気持ちがこみ上げてきた。
背中の商店街の名前と、こんな私を育ててくれたひまわり荘の名前を踏みにじらなくて済んだから。
涙を溜め込んだ瞳から、一筋こぼれ落ちる。
彼が気づくと、その表情は怒りに満ちていた。
もしかして…
私が悲しんでいると勘違いしたのかも…
こーちゃん…、駄目だよ―――
怒りからは憎しみしか生まれないよ―――
「大里さん!今、ゴング聞こえていましたよね?」
「さぁ?聞こえなかったな。」
「嘘だ!同じ場所にいたさっちゃんには聞こえて、ちゃんとパンチを止めたんだぞ!」
「知らねーよ。わざとじゃねーっつーの。」
「それに!ラウンド中盤では足も踏んでいた!」
こーちゃんの言葉にレフェリーがコーナーに戻るよう指示する。
ニヤリと笑う大里さんに対し、レフェリーが一言告げた。
「警告!」
その言葉と共に会場からは歓声が上がり、同時に大里さんに対して激しく罵り始めた。
2階席の一角、クラスメイト達からも罵声が飛んでいるのが聞こえてきた。
私は、クラスメイトに向かって手を振ってから、両手でバツ印を作った。
その直後、委員長の大きな声が聞こえてくる。
「お前ら!ちょっと静かにしろ!」
あまりの語気に、周囲の観客ごと静まり返った。
「今日は何しに来たんだ?大里選手を罵りに来たの?そうじゃないでしょ!鈴音さんを応援しに来たんだろ!」
そうだよ、委員長さん。
雪ちゃんと大里さんの試合で私も言ったこと。
彼女はそれを覚えていてくれていた。
「そうだな!卑怯な手を使う奴なんかに負けて欲しくないぞ!だから鈴音を精一杯応援しようぜ!」
柔道部キャプテン、沢木君の大きな声が響くと、それこそ会場を巻き込んで私への声援へと変わっていった。
私はコーナーで片手を上げて声援に答えたよ。
「ごめん、さっちゃん。」
こーちゃんが、珍しくしょげていた。
怒りに任せて、セコンドがレフリーにクレーム入れたら、それこそ試合がおかしくなっちゃう。
「んーん。これはボクシングの試合だから。足を踏もうが踏まれようが、勝てばいいんだよね?」
こーちゃんがハッとした顔をし、そしていつもの真剣な表情を取り戻してくれた。
「そうだね。よし、おさらいしよう。まずはシャドウアサルト、これは効果的に使えていると思う。警戒度が高いことからも相手が嫌がっているはず。どんどん使って撹乱していこう。」
「ハイッ!」
「それと、気が付いたんだど、相手は近寄らせないことに、異常なほど細心の注意を払っている。それはつまり、接近戦では打つ手がないってことかも知れない。近づけたなら、一気に仕掛けていこう。それこそシューティングスターも、いけるなら迷わず撃つんだ。」
「ハイッ!」
「最後に、警告に懲りず、反則まがいの行動をしてくるかも知れない。惑わされずに冷静にね。」
「ハイッ!!!」
「よしっ!いってこい!!」
カーンッ
第3ラウンドが始まった。
元気よく返事したのよ良いけれど、かなり足が重く感じてる。
長期戦はヤバイかも…
チャンスは少ない、ひとつずつモノにしていくんだ。
大里さんは、今までと同じ戦法を使ってくる。
超アウトレンジからのスネークアローを軸に、近寄らせないようにしてきた。
シャドウアサルトを巧く活用しなくちゃ…
そうだ!
1ラウンド目と同じ距離でシャドウアサルトを使う。
後数歩足りない距離まで近づく。
大里さんの緊張感が高まり、直ぐに右の追撃が襲ってくる。
ここだ!
そのまま再びシャドウアサルトを使って飛び込んだ。
!!!
シャドウアサルトの二段活用!!!
顔と顔が一気に近づいた。
驚く彼女の顔が間近に見える距離。
私の距離!
ズバンッ!!!
左ボディが深々と刺さる。
大里さんの体が、大きく「く」の字に曲がる。
今度は右フックを…
!?
バッティングする気だ!!
咄嗟にショートスマッシュを撃ち込もうとパンチを切り替えた。
!?!?
パンチがヒットすると同時に、私も強烈な右フックを喰らっていた。
『カ…、カウンターだぁぁぁ!!!バッティングしそうになったかのように見えましたが、そこからショートスマッシュを撃とうとした鈴音選手に対し、大里選手が右フックを叩き込んできた!両者ダメージを負いましたが、より大きなダメージを受けたのは鈴音選手かも知れません!』
アナウンサーさんの言葉が耳に届く…
なんて人なの…
反則まがいの行為を平気でしてくるという自分の行動すらフェイントとして使ったというの?
…
……
………
両者が一定の距離で再び対峙した時、私の集中力が極限にまで高まっていた。
勝利への執念という一点だけ見れば、私よりも大里さんの方が上かも知れない。
そう考えたら、今までのアンフェアーな行為なんかどうでも良くなっちゃった。
大里さんは大里さんのボクシングをしてくる。
私は…、私のボクシングをするんだ!
大里さんの殺意が高まっている。
何か仕掛けてくる!
スネークアローをしつこく繰り出しつつ、何かのチャンスを伺っていると感じた。
でも私は…
彼女の攻撃の一挙手一投足がハッキリと見えていた。
!!!!!
1発…、2発…、3発…
どの攻撃も寸前で交わしつつ、一歩一歩確実に前に出ていく。
スッ―
右の追撃も交わすと、シャドウアサルトを使わずとも私の距離へと近づいていた。
驚く彼女の顔が、目の前にあった。
ズドンッ!
迷わず右ストレートを叩き込む。
仰け反る彼女に追い打ちの左フック!
ズバンッ!!
その時だった。
大里さんは右フックを叩き込もうとしつつ、高まった殺意と共に腕を振り回してきた。
間違いなくエルボーを狙っている!
咄嗟に頭を左に振って、自分からエルボーに当たりにいく。
ガンッ!!!
打点をずらされたエルボーは、骨の硬さを感じた程度でダメージは少ない。
目を点にし、驚き呆気に取られた表情の大里さん。
彼女は慌てて左フックを撃ってきた。
そのパンチに意思はなく弱々しい。
彼女の瞳は恐怖に怯えていた。
難なくパンチを掻い潜ると同時に、体を極限にまで捻り上げていく。
軋む体を解き放て!!!
ズドンッッッ!!!!!
全力スマッシュを撃ち抜いた時―
彼女は大の字になって、真後ろに、そして無抵抗なまま―
マットに倒れ込んだ―――
バタンッ…
………ァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!!
大歓声で我に返った。
「ニュートラルコーナーへ!」
レフリーの声で、ダウンをとったと確信出来た。
ハァ…、ハァ…、ハァ…
ワン…
頭がズキズキする…
ツー…
!?
スリー…
無意識に膝が笑い、思わず倒れそうになるところを、腕をロープに巻きつけて支える。
フォー…
『あからさまなエルボーでしたが、これを自ら当たりにいくことによってダメージを軽減させた鈴音選手!咄嗟の判断からの渾身のスマッシュは、大里選手の意識すら断ち切ったか?カウントがすすんでいます!』
ファイブ…
大里さんはピクリとも動かない…
シックス…
観客からもカウントの大合唱が聞こえてきた。
セブン…
エイト…
ナイン…
テンッ!!!
その言葉と共に、レフリーが両手を大きく交差させた―
ワァァァァァァァァアアアアアアアアアア!!!!!
レフリーに右手を高々と掲げられた―
突如、体の力が抜けて、ぺたんの女の子座りをしてしまった。
直ぐにこーちゃんが駆けつけて、そして思いっきりハグしてくれる。
「なんて無茶するんだ…。心配したじゃん…」
「ご、ごめんなさい…。でも…、いけると思った…。それとね…」
「ん?」
「これからもっと無茶するから…」
「さっちゃん…」
「もっともっと強い人達と戦うから…」
「わかった…」
スッと離れたこーちゃんは、凄く優しい笑顔で見つめてくれた。
私達の夢を宿した拳…
その拳で勝ち取る夢は、現状の私からは凄く背伸びをしたもの。
二人はそれを知っている。
『さぁ、勝利者インタビューです!』
またもや近づいてくる気配を感じさせないアナウンサーさん。
この人は忍者か何かなのかも。
『クリスマスバトル1回戦突破、おめでとうございます!』
「あ、ありがとうございます。」
いつも本当に嬉しそうに言ってくれる、お祝いの言葉。
『大里選手からの反則に近いプレーの数々がありましたが、乗り越えましたね。』
「ボクシングでは…、負けないって強く思っていました。」
『その強い意思で戦えたと?』
「その意思を支えてくれたのは…、応援してくださった人達です!」
ワァァァァァァァァアアアアアアアアアア!!!
手を振って歓声に答えた。
『次は常磐選手と池田選手の勝者となりますが、いかがでしょうか?』
「どちらも一度対戦していて、対策も万全にしてくると思います。どちらが勝っても強敵には違いありません。」
『わかりました。これより15分後に試合開始となります。では鈴音選手、来月またお会いしましょう!』
「はい!こちらこそ、よろしくお願いします!それと応援してくれた皆さん!本当にありがとうございました!!!お陰で自分を見失わずに戦えました!!!」
沢山の拍手に包まれて花道を歩いていった。
凄く充実した気分で控室に戻ってきたけれど…
バタン…
戻ってくるなりベンチに横たわってしまった。
「さっちゃん!?」
「大丈夫だよ…。何だか脱力感に襲われちゃって…」
会長がひょっこり顔を出す。
「緊張感のある試合だったからねぇ。それにしても反則行為すらフェイントに使うとは思わなかったね。」
「はい…。だけれど、それで吹っ切れたというか、そんな気分でした。」
「恐怖を乗り越えちゃったんだね。」
「前にも言いましたけど…。ナイフを持ち出されても怖くはないから。卑怯な手を使ってくるよりも、無視される方が怖いから…」
「でも、今日は沢山のクラスメイトが応援に来てくれたね。」
「うん!凄く嬉しかった!」
でも…
笑えなかった…
もしも笑えたなら…
きっと、最高の笑顔だったと思う。
私は…
最近…
笑いたいって強く思ってる。
笑うことによって、私は嬉しいんだと伝えたい。
だけれど笑えない…
私は笑いたい…
それだけが残念な試合だったと思う。
もしも私が笑えるとしたら…
それはきっと、世界で一番嬉しい瞬間なんだと思う。
そんなことを考えながら、
第2試合の常磐さんと雪ちゃんの試合を観戦し始めた。




