第35話 幸子の怒り
「何だてめーわ。」
強く握った拳が震える。
「鈴音さん…、駄目よ…。私は…、大丈夫だから…」
委員長さんは眼鏡を拾い、私を見上げる。
頬が赤く腫れていた…
私の為に、必死になって言い返してくれた委員長さん…
「いっちょ前に、遣り合おうつーのか?構わないぜ?かかってこいよ!ほらっ!!!」
伊藤さんの平手打ちを、ウェービングで交わす。
!?
教室の中の空気が変わったのを感じた。
「ちょっと交わせたぐれーで、調子にのるなよ!」
「私の友達を傷付けたあなたを…」
「あぁん?」
「絶対に許さない!!」
「どう許さないってんだ?口を開けば出来もしないことをベラベラと言いやがって…。躾がなってねーな!どうせお前のかーちゃんもろくでも無いんだろ?」
お母さんのことまでバカにして…
自分の幸せを犠牲にしてまで守ってくれた、大好きなお母さんまで…
プチン…
私の中で何かが切れた。
完全に我を忘れて怒りに震える。
「おらっ!!!」
今度はグーで殴りかかってきた。
とっさに防御体制をとりながら、体が自然と動いていく。
流れるようにパンチを掻い潜り…
今まで対戦してきた誰よりも遅いパンチを余裕で交わし…
全員のダウンを奪った…
全力スマッシュを撃ち出していく―――
「さっちゃん!」
!!!
私の拳は…
腕をガッツリ抑え込まれて、ギリギリで止められていた…
「さっちゃん!!!」
大きな声で我に返る。
今…
私は一体何を…
何をしようとしていたの…?
こーちゃんは私の手首をガシッと掴んだ。
「この拳は!人を殴る拳じゃない!ボクシングをする拳なんだ!!!その意味がわからないなら、俺はトレーナーを降ろさせてもらう!!!」
えっ…?
嫌………
嫌だよ………
「ご…、ごめんなさい…、ごめんなさい…。もうしないから…」
涙が溢れて止まらない…
今こーちゃんが居なくなったら…
私はボクシングを続けられない…
皆の想いを私の拳に願ったはずなのに…
私は大馬鹿者だ………
「三森君。その辺にしてあげて。」
委員長さんが仲介に入ってくれた。
「だけどっ…」
「鈴音さんは張り倒された私を助けてくれたの。友達を傷付けられる事を許さないってね。私も嬉しかった。あんな風に言われたことなかったから。だから、許してあげて。」
「ごめんなさい…、こーちゃん…」
「ふぅ…。本当に二度とやっちゃ駄目だからね。」
「うん…」
「委員長さんも大丈夫?」
「私は平気よ。」
「良かった。それと、希。」
こーちゃんは伊藤さんを、いつも名字じゃなくて名前で呼ぶ。
「な、なんだよ…」
「さっちゃんは、今、凄く大切な時なんだ。何か気に入らない事があるなら俺が聞く。だから、もう少しだけ、そっとしておいてくれないかな。」
「意味わかんねーよ。それにそいつと離れろよ!」
私とこーちゃんを剥がそうとする伊藤さんの手を、こーちゃんはスッと手を伸ばし制した。
「さっきも言ったように、大切な時なんだ。だから、どんなことがあっても、さっちゃんは俺が守る。」
「幸一…。な、なんでだよ?そいつなんかより、私の方が…」
「俺は今、さっちゃんしか見えていない。」
「なっ………」
ここまでハッキリ言われると、私も恥ずかしい…
けど、それ以上に嬉しい…
言われた伊藤さんは、益々焦って納得がいってない感じだった。
「なんだよソレ…、なぁ、どういう意味だよ…。それにさっきボクシングとか…」
こーちゃんは伊藤さんの手を引いて、教室を出ていった。
「はぁ…、伊藤さんも頑張るわね。」
「頑張る?」
「彼女、三森君LOVEだから。」
「ラ…、ラブ…?」
鼓動が早まる…、なんだか焦ってきちゃった…
落ち着かなくて、オロオロしちゃう…
「大丈夫よ。さっき彼が言っていたでしょ。あなたしか見えていないって。一度で良いから、あんなセリフ言われてみたいわ。」
「………」
「耳まで真っ赤よ。まっ、そんな関係なんだろうなぐらいは、鈴音さんと伊藤さん以外全員知っているけどね。」
「えっ…?」
「もう、本当に天然なんだから。」
「う~~~」
「フフフッ…、でも、ボクシングの技を素人に出しちゃ駄目よ。」
委員長さんにも注意されちゃった。
「うん。」
「傷害事件になったら、それこそボクシングも出来なくなっちゃうしね。」
「しょしょしょ、障害事件?」
「あなたは気が付いてないかも知れないけれど、ボクサーの拳で殴られれば、伊藤さんじゃなくったってイチコロよ。特に鈴音さんは一撃必殺のパンチを持っているのだから、尚更気を付けないと。」
「うん…」
そ、そうなんだ…
気を付けなくっちゃ。
こーちゃんと伊藤さんが戻ってきた。
「ほら、先生もう来ているよ。」
いつの間にか担任の先生である、塩入々谷 愛 先生、通称愛ちゃん先生が教壇にいた。
愛ちゃん先生なんて言い方、最初は流石にまずいのでは?と思っていたけれど、名字が長くてちょっと言いづらくて…
本人もわかっているのか気にしていないみたい。
そもそも愛嬌もあって親しみやすい性格の先生だし、色んな事を親身になって聞いてくれていて、男子からも女子からも人気があるの。
私にも凄く気を使ってくれているのがわかる。
見た目も童顔で、私なんかよりずっと背が低くて、男子達は合法ロリ?とか意味不明な事言ってるのをよく聞く。
自分の席に戻りながら伊藤さんをチラ見する。
机に肘を立てて、その手に顎を乗せて窓の外を眺めていた。
なんだか納得がいかない、みたいな感じだった。
不満そうな顔をしている。
夕方―
今日はディフェンスの練習をしている。
どこからか、いらなくなった古いテニスボールを沢山持ってきた会長さん。
「数は足りるかな?」
「まぁ、やってみるよ。ボール散らかると片付けも大変だし、踏んで怪我でもしたら大変だから、ちょっと部屋借りる。」
「はいよ。」
私は会長室へと連れていかれる。
こーちゃんはダンボールに沢山入っているテニスボールを持ってきた。
「じゃぁ、これを投げるからファイティングポーズをとりながら避けてみて。」
「う、うん。」
ヒョイヒョイヒョイッと3個連続で投げられる。
2個目までは交わせたけれど、3個目がおでこに当たる。
「あぅ…」
「………」
「も、もう一回!」
頑張らなくっちゃ。
今度は5個投げられて、4個目と5個目を交わせなかった。
「兎に角今は数をこなしてみようか。」
「はいっ!」
けれどなかなか上手くいかない…
ハァ…、ハァ…
ほとんど進歩がないまま箱の中のボールがなくなってしまった。
「この練習は毎日やってみよう。今度はリングでウェービングの練習だよ!」
「は、はい!」
こーちゃんは私が悩むより先に、次の道を示してくれている。
そうだよね、足を止めて考える時期じゃないよね。
今度の相手は相田さんクラスなんだから。
リングには一本の太めの紐をロープから反対側のロープへ結ばれていた。
ファイティングポーズを取りながら、ロープの下を右へ左へ連続で潜っていく。
素早く、前へ!
少し先のロープの脇に立っているこーちゃんは、ロープを動かして変化を付けてくる。
上下左右に動かされる紐を瞬時に見極めて体を動かす。
ハッ、ハッ、ハッ…
「ほらほら!足が止まってきてるよ!」
「防御姿勢崩さないように!」
「もっと素早く交わして!」
厳しい激が飛ぶ。
汗が滝のように流れ落ちるなか、集中力がどんどんと研ぎ澄まされていく。
こーちゃんの持っているミットが、不意に飛んでくる。
練習メニューにはない、突然の動きだった。
それをスェーで交わしながら、1本のロープと2つのミットに注意する。
「さぁ、こい!左!」
ディフェンスの練習中でありながら、パンチの指示も出た。
集中していたおかげか、スムーズに左が撃ち出される。
ズバンッ!
「はいっ交わして!交わして!」
その時だった。
どこからか視線を感じる―
そう意識が向いた瞬間―
バンッ
ミットに頭を叩かれる。
「ほらぁ、集中力欠いてるよ!」
「はいっ!もう一回!」
私は視線を気にせず、再びリング内に注意を集中する。
その視線の持ち主は―
(ま…、マジだったのか…)
一人の女子高生が窓の下に隠れながら、目線だけリング上で練習をする私に向けていた。
「あらあら、凄い迫力ねぇ~」
「げっ!?愛ちゃん先生なんでここに?」
「希さんと幸一君の会話、聞こえちゃったから。私も気になって見に来たの。」
「先生も知らなかったのかよ…」
「女子ボクシングはテレビでもニュースでやらないからねぇ。それで調べてみたのぉ。」
「あいつのことか?」
「そうよ。彼女凄く頑張っているし、期待もされているのよぉ。」
「マジか…」
「今年からプロとして試合し始めて、3勝1敗3KO。全部の試合の動画がこのジムのHPにあったから見たけれどぉ…」
「見たら…、どうだったんだよ…」
「感動して泣いちゃったぁ。」
「はぁ?」
「学校で見る彼女とは360度違う人だった。」
「ちょ…、360度じゃ同じ場所に戻ってきちゃうだろ。」
「んーん。一周回ったら、もうそれは別人って言いたかったのぉ。」
「そ、そんなに…?嘘だろ…?」
「希さんも自分の目で確かめてみるといいわぁ。」
「ふん…。相手が弱かったんだろ。」
「信じられないのもわかるけれどぉ…。それなら直に見てみないとねぇ~」
「おい!ちょ、おま…」
突然ドアが開くと、そこには担任の先生である愛ちゃん先生と、右手を掴まれたままの伊藤さんがいた。
委員長さんが怪訝そうな表情をしてる。
「何しに来たのよ!」
「あぁ!?」
二人は直ぐにいがみ合う。
そこへこーちゃんが割って入った。
「待って。希を呼んだのは俺なんだ。」
「三森君が?」
「そう。実際に見て欲しいって。まさか愛ちゃん先生まで来るとは思わなかったけれど…」
「あらあら、ごめんなさいねぇ。小耳に挟んだから是非拝見したいなぁってぇ。」
そんな話をしていると、なにやら後ろの男性陣が騒がしかった。
「可愛い…」
「彼氏いるのかな…」
「童顔で巨乳…」
どうやらお目当ては愛ちゃん先生みたい。
騒ぎが大きくなる前に、こーちゃんが説明しに行った。
「静粛に!」
ザワザワが止まらない。
「聞き逃しても、もう説明しないよ!」
ピタリと静かになる。
「二人は、制服の子がさっちゃんのクラスメイトの伊藤 希、もう一人が俺たちの担任の塩入々谷 愛 先生。28歳!独身!彼氏なし!」
「おぉ~!!!」
「好みのタイプは…」
男性陣が固唾を呑んで言葉を待っている…
「誠実で寡黙で、いざという時に頼りになって、コツコツと努力し続ける人。逆に嫌いなタイプはチャラくてガサツで馴れ馴れしい奴。いいですか!皆さんの行動次第で、今度また来てくれるかも知れないよ!さぁ、練習再開!」
こーちゃんの言葉に男性陣は、一目散に練習に励んでいく…
彼が戻ってきたので聞いてみた。
「愛ちゃん先生の好みのタイプとか知っていたの?」
「まさか。彼氏がいるかどうかも知らないよ。」
「どうしてあんなこと言ったの?」
「ああ言っておけば、誰も絡んでこないでしょ。」
「…………」
先生は「あらあら~」とか言いながら笑っていた。




