第18話 幸一が見たいもの
「おーい、菅原!ちょっと来てくれ!」
「なんでしょう?」
会長が男の練習生を呼んだ。
「スマンが、さっちゃんのスパー相手になってくれないかな。」
プロライセンスを持っている女子ボクサーはレオさんとさっちゃんしかいない。
他にも女子はいるのだけれど、ダイエット目的がほとんど。
中には健康のためとか、ストレス発散とか、楽しいけれど対外試合まではしたくないなど、通っている理由は様々だ。
うちのジムは設立して新しい方だし、最初からそういったライト層の取り入れを検討していたらしく、女子用には広くて化粧台付きの更衣室もある。
お陰様で女子会員は増えたけれど、プロでやっていこうって人は少なかったみたい。
流血とかも普通にあるしね。
ちょっと腰が引けるのもわかる。
そんな訳で、男子が女子の相手をすることはあるよ。
レオさんもそうだしね。
特にさっちゃんが来る前は、女子の相手すらいなかったんだから。
ということで、レオさんが別メニューの時は男子にお願いすることになるのだけれど、さっちゃん自身が男性を怖がる傾向があったから躊躇していた。
でも最近は時々会話することもあるぐらい馴染んできた。
そう言えば学校でも、俺以外の同級生と話をすることも増えたかも。
一言二言だけどね。
それでも凄い進歩だよ。
「いいですよ。」
呼ばれた菅原さんは、階級はライト・フライ級。
勿論次回対戦相手の山崎選手の仮想として選んだ。
ボクシングスタイルが似ているからだ。
「すまないねぇ。さっちゃんの次の相手が菅原のボクシングと、とても似ているんだ。」
「なるほど。」
彼はとても真面目でコツコツ頑張るタイプの人だ。
基本に忠実で、セオリー通りを好む。
突拍子もないことを仕掛けることはしないけれど、相手がしてきた時の対策に余念がない。そんな選手。
派手さはないけれど、堅実なボクシングは好みが別れるところかな。
映像で見る限り、山崎選手もそんな感じだった。
アマの時も、プロになってからも。
しっかりガードして、チャンスがあれば手数で勝負してくる感じ。
左ジャブを基本に攻めてくる。
ジャブと言っても沢山の種類があるんだ。
次の攻撃につなげるものや、相手の突撃を止めるもの、その他の意味あるジャブも考えたら10種類を超えるんじゃないかな。
それらを使いこなすことが出来るならば、良く言われている「左を制する者は世界を制する」という言葉につながっていく。
そのぐらい重要な要素だ。
父ちゃんも勿論理解していて、レオさんやさっちゃんにも男子ボクサー同様に、左の重要性を叩き込んでいる。
ただ、さっちゃんはちょっと特別なんだよなぁ。
特別だという意味が、このスパーでわかると思う。
父ちゃんも分かっていると思うのだけれど…
お互いヘッドギアを付けてリングに上がる。
「菅原、頼むから力加減はしてやってね。」
「勿論ですよ。俺だって鈴音さんを応援していますから。」
そう答えた彼は、まさしく優等生を地で行く人だ。
キレたりムキになったりするタイプではない。
カーンッ
スパーリング開始と同時に拳をタッチすると、菅原さんが一気に前に出る。
さっそく教科書通りの左ジャブ…
!?
ズドンッ!!!
強烈な右ボディが、深々と突き刺さる。
くらったのは菅原さんの方だ。
さっちゃんに様子見だとか牽制だとかいうパンチは意味がない。
逆に、彼女にチャンスを増やしてしまうのだ。
そう、さっちゃんの長所として、セオリーとかのそんなものは通用しない。
最初の一撃から本気モード。
多分一発目から躊躇なくスマッシュ撃てるはず。
集中力というか、雰囲気というか、空気を読むのがうまい。
きっと、感情がないという状況が、周囲の反応を過剰に確かめてしまう癖を作ってしまったのだと思う。
彼女が9年以上もの間、自分を守る為に必死に守ってきたものが開花してきている。
途中で投げ出すことだって出来たはずなんだ。
例えば学校。
病気を理由に不登校になっても、きっと誰も何も言えなかったと思う。
いや、お母さんは必死に口説いたかもしれないけれど、だけどやれたと思う。
でもしなかった―
それどころか、受験して高校にも通っている。
いつも見ているからわかる。
彼女には努力の才能がある。
いや、その言い方は傲慢かな。
努力すら普通になっちゃったんだ。
つまり、努力を努力だと認識していない。
他の人から見れば…、例えば俺から見れば努力しているとしても、本人にとっては普通なんだ。
学校に行く努力、自分を変えようとした努力、筋トレの努力、コミュニケーションを取ろうとした努力…
きっと俺の知らない努力もあったと思う。
その努力に報いたいと思っていたのは、お母さんだ。
勿論、俺だってそう思っている。
一見するとボクシングに必要のなさそうな努力達だけれど、無駄ではなかったんだ。
雪ちゃんが言っていた。
さっちゃんは、ボクシングをやるために生まれてきたと。
だけれど、その準備は過酷で長期だった。
俺はその片鱗を知っている…
正直凄いと思った…
努力し続ける彼女が、俺には眩しく映っていた…
だから…、俺は…、さっちゃんの為に…
リング上では一見激しい攻防が繰り広げられている。
でも…
残念ながら、雪ちゃんとの試合のような緊張感はない。
苦戦しているのは、菅原さんの方だからだ。
普通ならば、左の応酬から試合が動いていく。
だけど彼女は違う。
甘いパンチは逃さず前に出てくるし、変則気味なスマッシュに代表されるように、通常のパンチ類も突然、躊躇なく繰り出してくる。
さっちゃんにセオリーはない。
その場で本人が最善だと思う攻撃と防御を使ってくるからだ。
カーン
1ラウンド目が終了して、両者コーナーに戻ってきた。
「どうだい?」
「うんと…」
「どうかした?」
「あの…、雪ちゃんやレオさんと全然違う…」
「ボクサーが100人いれば、100通りのボクシングがあるよ。」
「うん…」
なんだろう?
何か不安そうな雰囲気を感じる。
今のうちに払拭してもらわないと…
「感じたことを教えて欲しい。不安要素があるなら対策を練っておきたいんだ。」
「違うの…」
「ん?」
「あの…、倒しても…いいの…?」
俺はきっと変顔でポカーンと口を開けていたと思う。
ハッと我に返る。
「いいんだよ!これは練習なんだから。今のうちに試しておくんだ。次の試合に勝つためにね。」
そこで菅原さんと父ちゃんの方を見た。
彼は苦しそうだった。
やり辛い相手と戦うという状況は、精神的にも苦痛だろう。
そう考えると…
雪ちゃんとの戦いにおいては、さっちゃんがその辛い状態だったはず。
だけど戦い抜いた。
弱音なんか一言も吐かないで。
そうか…
彼女にも苦痛という、感情というか気持ちは持っていると思う。
多分だけど、そのラインが他の人より異常に高いんだ。
だからボクシングにおいて、普通のボクサーが苦痛と感じることは、彼女にとっては苦痛じゃないんだ。
だからキツイ練習にも、苦しいはずの状況にも動揺したり迷ったりしないんだ…
なんて精神力なんだ…
それならば…
「さっちゃん。俺にも試してみたいことがあるけどいいかい?」
「うん。」
「…………」
俺は作戦を小声で伝える。
「わかった。やってみる。」
そう答えた彼女の目は真剣だった。
カーン
2ラウンド目が開始された。
菅原さんはアウトレンジから、なんとかして自分のボクシングを組み立てようと必死なのがわかる。
さっちゃんはガードをがっちり固めつつ、ウェービングも多用しながら防御に徹していた。
このままでは拉致があかないと菅原さんが感じた瞬間―――
ハァ…、ハァ…
さっちゃんの荒い息だけが聞こえるリング上。
菅原さんは尻もちを付いた状態で、ただただ驚いていた。
ニヤリッ
俺は思わず作戦通り!みたいな顔をしてしまう。
こんな芸当は、さっちゃんだからこそ出来る作戦でもある。
そして、さっちゃん自信も驚いた表情をしながら、菅原さんを見て、続いて俺の顔を見た。
今度の試合では、俺も雪ちゃんと同じように、さっちゃんがボクシングを続けるために、大切なことを伝えたいと強く思った。
「さっちゃん!」
「は、はい!」
「今の感触、忘れないように!」
「はいっ!」
「俺も!」
「?」
「俺も次の試合で、ボクシングにおいて大切なことをさっちゃんに伝えるよ!」
「うん!」
もしも彼女が表情豊かだったら、きっと爽やかに笑ったと思う。
今は無表情でもいい。
これが今のさっちゃんの精一杯の表現なんだ。
俺は…
必ず彼女の笑顔を取り戻させてやる。
俺が!
絶対に!!!
それからのスパーは、主に菅原さんが担当してくれた。
彼にとっても、さっちゃんとのスパーは勉強になるらしい。
最初は突拍子もない攻撃だと思っていたらしいのだけれど、彼女の攻撃は死《KO》への最短距離だと言う。
その一撃は重く、たった一発のパンチが命取りという、非常にデンジャラスなもの。
相手は常に緊張感を押し付けられている状況で、そこが菅原さんにとって今まで足りなかったものだと気が付いたようだ。
理論的にも左が重要で、誰もが極めたいと日々努力している現状で、そんなことお構いなしに全てを無に帰すパンチを撃ってくる相手。
プレッシャーは相当なものになる。
さっちゃんはちょっと異色だけれど、そういったプレッシャーを与えられるならば、何もしないでも試合を有利に運べてしまう。
菅原さんはセオリーだけじゃ駄目だと思い始めたようだった。
ここからは俺の予想でしかないのだけれど、多分さっちゃんは今までやりたいことがあっても出来なかったと思う。
それこそスポーツや、遊びや、女の子なら興味を引きそうなものまで、全てを我慢してきたと思う。
将来のことだってそうだ。
仕事だって、子供なら誰もが夢見る職業に憧れたり、何かで見たり感じたりした職業に興味を惹かれたはず。
だけれど語ることさえ出来なかった。
それら全ての我慢を吹き飛ばす事が出来たのが、ボクシングなんだ。
尋常じゃないほど鍛えられ続けた体もプラスになっている。
きっと本来のさっちゃんは、アグレッシブでポジティブな性格なんじゃないかな。
好きなことにはとことんのめり込むタイプ。
そういった全部の事柄が、今ボクシングに注ぎ込まれている。
だから、とんでもない集中力なのもうなずける。
生まれて初めて夢中になれるものを手にしたんだ―
生まれて初めて全力で取り組めるものを見つけたんだ―
生まれて初めて宝物の地図を目にしたんだ―
俺以外の全員に笑われたっていい―
俺だけが信じていたっていい―
さっちゃんがクリスマスバトルで優勝したいと言うのなら―
俺は神にだって喧嘩を売ってやる―
彼女の夢を叶えてあげられるなら―
その先には―
きっと―
彼女がどこかに落としてしまった―
笑顔を見つけられるはずだから―
俺は見たいんだ―
大好きな人の最高の笑顔を―――




