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おせちもいいけど… 〜ぼくらは前期高齢少年団〜

  一


「えらいこっちゃ」

 吉造のあわてた声が、隣の座席にいた八郎をうたた寝の小舟から引き戻した。

 車窓を通して入ってくる春の日ざしが心地いい。ついうつらうつらとし始めたところだった。

「どうしたんや」

 体中なにかを捜しまくっている六十過ぎの男の姿は、あちこちをノミにかまれた老犬のようでいささかこっけいだった。

「回数券落としたらしい」

「何やて」

 たまには文化的空気も吸わないと前頭葉が白斑状態になってしまうと、二人は公会堂のワンコイン・コンサートに出かけた。

 勝も誘ったのだが、なぜか待ち合わせ場所に姿を見せず、この日は珍しく二人だけの行動となった。 

 少ない年金生活の中をやりくりし、ぎりぎりの小遣いを持っての音楽鑑賞だっただけに、帰りのポケットに残っていたのは銅とアルミの小銭だけ。

 吉造の財布に入っていた路面電車の回数券のおかげで徒歩による帰宅だけはまぬかれたと安心していた。

 それを紛失したというのだから、二人は焦った。

「ほんまか。困ったなぁ」

 八郎も眉間にしわを寄せた。

「運転士にわけを話して、この次払うよってにって堪忍してもらおか」

「うーん」

 生返事をした八郎は、数ヵ月前にも同じように電車賃を持たずに乗ってしまい、水飲み鳥のように頭を下げまくって降りたときのことを思い浮かべていた。

 まさかあのときと同じ運転士ではないだろうと思うが、偶然ということもある。タダ乗り常習犯と見られたらけったくそ悪い。

 乗客の反応もうっとうしい。八割がたがウソだと考えるだろう。

 スーツを着込んで書類ケースでも持っていればともかく、街で空き缶を集めている人たちのほうが彼らよりいい身なりをしている。

 そうこう考えているうち降りなければならない停留所へ近づいた。

「おい、お前先に行け」

「ええっ、ワシがか?そやかて回数券が」

「かまへん、かまへん。まあ任せとけ」

 吉造を無理やり前に立たせると、八郎はあとに従いた。

 警報機がカンカンと甲高い音の鳴る踏切を過ぎると、電車は小さなプラットホームに止まった。

 渋る吉造を前方料金箱の方へ押して行った八郎は、何を思ったか突然彼を引っぱり戻し、運転席へ首を突っ込んだ。

「ばあさんが踏切のところでひっくり返ってるけど、ひょっとしてはねたんちゃうか」

 驚愕の言葉に、まじめそうな若い運転士の顔は一瞬こわばった。

 あわててドアから体を乗り出させた彼に、

「ほら、あの八百屋の軽トラがとまってる陰に買いもんカゴが転がってるやろ」

 と、八郎は指差した。

「ハイハイ」

 運転士の声は上ずっていた。買いもんカゴが転がっているかどうか確かめる余裕なぞ、もちろんない。

「あの向こう側にばあさんが……」

 続く言葉をさえぎり、電車を飛び降りた運転手は線路敷を踏切へ駆けて行った。

「はよ行け」

「え、なんで?」

「はよ降りぃ」

「あ、そうか。ばあさん助けるの手伝うたらなあかんな。ほな」

「どこ行くねん」

「いや、ばあさんけがしてたら救急車を呼んだらんと」

「お前はアホか」

「そやかてばあさんかわいそうやないか。運転手一人では、えっ、あ、そうか」

「アイツが戻ってきたらややこしい。はよ降りて逃げてしまおぅ」

「うふっ、いこいこ。はよ逃げよ」

 電車の後方を伸び上がって見ている乗客らを尻目に、彼らは足早にホームへ下りると、わきの路地へと駆け込んだ。


   二


 停留所から駆けてきた八郎らは、団地の近くで一息ついた。

「久しぶりに走ったら、心臓が踊ってるワ。こんなん不整脈で救急病院に運ばれたとき以来や」

「あかんな。もうトシや」

「そやけど、当分電車に乗られへん」

「なんでや?」

「そらあ、電車賃踏み倒したからやんか」

「どこに証拠あるねん」

「ええっ、そやかて」

「だれかワシらが乗り逃げするのを目撃したか。みんな事故やいうので、後ろばかり見てたやんか」

「そやな」

「料金箱は電車賃や回数券を取り込むためにベルトが動いてるから、もし払うとったとしても、運転手が戻ってきたときには、すでに底へ落ちててわからへん。金を入れてても入れてなくても同じこっちゃ」

 だから、乗り逃げの〝汚名〟を着せられることはないというのだ。

「あ、そうか。八っちゃんやっぱり頭エエ」

 くだらぬ悪知恵に吉造は感心しながら、喫茶ヴェルサイユのドアを押した。

「えらいこっちゃ、えらいこっちゃで」

 体が半分店に入るか入らないうちに、色あせた黄色い声が響いた。

「今日はまた、えらいこっちゃのはやる日やなあ」

 どっちみち大した話でもないだろうに大げさなと、いつものカウンターコーナーに座ると八郎は茶化した。

「何言うてるねん。仲間の大災難が起こってるっちゅうのに、そんな落ち着いててエエんか。勝さんが警察に逮捕されたんやで」

「何やて!」

 一度下ろした彼らの腰が再び浮いた。

 あまりの驚きに体が硬直したまま動かない。スクワット状態のまま、二人はママを凝視した。

 普段だと昼間からあまり見つめたくない顔である。

「タ、逮捕やて。な、何をしよったんや、とうとう人生最後のはしご段を踏み外しよったんか」

「いや、あいつデキは悪いけど、犯罪を犯すような大した根性はないはずや。落ちてた財布をネコババしたのを警察で絞られたのが大げさに伝わったんやろ」

 気を取り直した八郎らは、口々に仲間擁護とも思える言葉をまくしたてた。

「いいやぁな、正真正銘掛け値なしの逮捕。いま住成署の留置場に入れられてるんや、痴漢容疑で」

「ええーっ、チカン!いまはやりの?」

 「流行はやり」は不謹慎だが、必ずしもハイレベルな人間とは言えない彼ら男たちの言葉と思って許してやってもらいたい。

 しかし、考えてみるとあながち誤り表現とも言いがたい。

 新聞、テレビをにぎわす痴漢、わいせつ行為におよぶ輩の記事を目にしない日はないと言っても過言でない。

 婦女暴行、のぞき、盗撮、強制わいせつ、職種も教師、聖職者はいうにおよばず、警官、裁判官に至るまで取り締まり、犯罪側入り乱れての大乱闘。まさに変態列島ここにきわまれりといった体たらくである。

 昔のように、職場でちょっとお尻にタッチ。

「エッチ、すけべ!」

 と怒鳴られるだけですんだ時代はもはや歴史的かなたに消え去ってしまった。

 セクハラは、いまや極悪非道、天下の大悪人である。


    三


 ママの聞いた話では、勝がチンチン電車の車内で隣に座っていた熟年女史の体にさわったというのである。

 大きく胸のあいたブラウスにきりっとしまった黒のタイトスカートが似合う、大人のいい女だったらしい。

 しかし、女史、こんな言葉も聞かれなくなりましたナァ。女子会などでよく聞く女子ではおまへん。

 女性だけに使われる言葉は避けるべきだとも言われますが、女史とは社会的地位や名声のある女の人のことでした。

 本来は中国で後宮に仕え、記録をつかさどった女官のこと。

 後宮と聞いただけで胸ときめくのは小生だけではありますまい。

 皇后をはじめ、夫人、九嬪 、二十七世婦 、八十一御妻と、ランクづけられた皇帝の正妻やおめかけさんらが住むところですな。

 後宮三千人などと言います。三千人もいたら、坂本の赤まむしが何本要るかわかりませんが、三千とは多いという意味で、実際はそんなにいたわけでもありません。

 白髪三千丈というたぐいです。一丈3メートルとして、計3キロ、これが本当だとすれば、一回の洗髪にシャンプーが何本要るのでしょう。

 とはいえ、たくさんいたのに間違いありません。そうなると、皇帝も全員おぼえられるわけはない。

 そこで、いろんなエピソードが生まれます。

 夜とぎのお相手を決めるため、乗った牛車が止まったところで夜を過ごすというルールを考えた皇帝がいました。

 ある賢い女が自分の前に牛の好きな塩を盛り、毎晩天子をとりこにしたという故事から、料亭などの前に置く盛り塩が生まれたとも言います。要は客の足を店に止めさせようというわけです。

 女性を選ぶのに似顔絵をつくらせていた皇帝もいました。

 あるとき、隣国から君主の妻として女性を一人もらい受けたいと言ってきたんだそうです。

 よろしおまんな。ちょっと女が欲しかったら、ひとりちょうだい、と頼んだらエエ。

 われわれが隣の亭主にちょっとヨメはん貸してんか、と頼んだりしたら血を見るのは、火を見るより明らかです。

 外交政策上、昔の王さんもいろんな対応をしなければならなかったのでしょう。

 ようけおるんやさかい一人くらいエエかぁと、似顔絵帳から一番ブサイクな女を指名して送ることにしました。

 ところが、いざ召してみると、これが絶世の美女。絵師にまいない、つまり袖の下を贈らなかったため、いやがらせに醜く描かれたらしい。

 綸言汗の如し。天子がいったん口にした以上撤回は許されません。泣く泣く、と思われますが、彼女を送り出したそうです。

 閑話休題。

 いずれにしても、仲間が犯罪者として捕まったのをほうってはおくわけにはいかない。

「よしっ、とにかくオレあいつに面会してくるワ。対策はそれからや」

 言い終えるやいなや、前期高齢少年団のリーダー、八郎の体は店を飛び出していた。


   四


 次の日の朝、少年団たまり場のヴェルサイユに現れた八郎は、黙りこくったまましきりに首をかしげていた。

 口が開くのを待ちくたびれた吉造は、のぞき込むようにしてたずねた。

「どうやった、ほんまにやりよったんか」

「いつ出てこられるのん? 掛け金の締めが来週の月曜なんやけど」

 後の問いは、もちろんママである。

 ヴェルサイユではコーヒー代の売り掛け精算日が月末みそかの前日ということになっている。

 亭主の商売不振でちょっとややこしいところから金を借りていて、月の最終日までに払い込まないとひと月分の利息が複利で加算されるのである。

 それだけに取り立てはきびしい。もちろん店側のである。

 冤罪かどうかは別にして、勝が出てきてくれなくては代金が焦げ付く。いかにママさんでも留置場にまで出かけてツケを回収するわけにいかない。

「できたら、代わりに払ってくれてもいいのヨ」 

 鼻声に変わったのが気持ちわるい。

 二人の首筋を、グラスウールでこすられたような悪寒が走った。

 しばらくして気を取り直した八郎は、おもむろに口を開いた。

「それが……」

 取調べ中なので弁護士以外は面会できず、まわりからいろいろ聞きまくったところ、次のようなことがわかった。

 勝はチン電に乗り込むやいなやシートで居眠りを始めた。

 うつらとろりと夢見心地に誘われたと思ったのもつかの間、

「何するんや、このオッサン。うちのおしりさわって」

 と、手を引っ張られた。

 驚いて目を見開くと、隣に座っていたのは熟年の女性。

 いやあエエ言い方でんな。昔なら初老といったところを老熟、いや人生の爛熟期をを迎えた年代というのがよろしい。ただ、腐りかけの一歩手前といったニュアンスが感じられなくもないのが、いささか気にかかるところです。

 言葉だけ変えてそれでよし、本質までよくなっているように思い込んでいる現代に何やら危うさも感じますが。

 とはいえ、小生もまっことそのなかに生存中なのであります。

 片手をつかまれた勝は、当初何のことか理解できず目をパチクリ。だが、痴漢扱いされているのに気づき、気の弱い彼は真っ赤になった。

「な、なにいうねん。ぼ、ぼく何もしてへん」

 慌てふためき必死になって否定したが、しかし、女から痴漢だと言われて、やっていないという証拠など出せるわけでもなく、形勢はどんどん不利になっていく一方だった。

 まわりの人間は、百人いたら百人が、ああやりよったかと思うのに違いない。まさか女が公衆の面前で、変なことをされたとウソをつくはずはないというのが世間一般の受け止め方である。

 無実潔白を信じてもらえるのは、事故で両手を失くした人くらいのものだろう。

 このテの犯罪は、親兄弟、親友、夫婦でさえ、もしかしたらと考えるのがかなしい。

 女は彼の手をつかんで離さず、二人はやったやらないの押し問答。らちの開かないトラブルに車内の乗客はいらつきを見せ始めた。

 とそのとき、女の向かい側に腰掛けていた男が声をかけてきた。

 電車は停留所に止まっていて、これ以上みなに迷惑をかけるよりは降りて話し合えばいいのではないかという。

 周囲の視線や、男から無理やり押し出されるようにして二人は小さなホームに降り立った。

 なぜか、男までついてきたのが奇妙だったが、パニック状態の彼に疑問を感じている余裕はなかった。

 乗り降りが少ない停留所は、真っ昼間というのに向かいのホームも含め他にだれもいない。


   五


 そこで再び言い争いを始めた男女二人に、男が割って入った。

 勝をホームの端に連れてきた彼は名刺を差し出し、実は自分は弁護士でトラブルを見かね解決すべく二人を誘ったのだという。

 こういった場合、どうしても男の分が悪い。たとえ冤罪であっても、それをそそぐのは至難の業である。

 マスコミでよく無罪を勝ち取った被告の話が話題になるが、それまでの苦労や並大抵ではない。

 長い拘置生活、弁護士費用、世間の冷たい目、家族にさえも信用されていないのではないかという疑心、そういったものを耐えしのばなければならない。

 血のにじむような苦労にもかかわらず無実とわかるのはごくわずかで、悲憤のうちに服役生活を余儀なくされるのが大半だとか。

 だから、そういった行為があったかなかったかは別にして、一応謝罪し示談にした方が賢い。わずかな金で自由になれる。

 法的責任が問われることもない。

 これが弁護士を自称する男のアドバイスだった。

 車内のトラブル程度に弁護士が割り込んでくるのもおかしな話だが、弁護士といえど、最近は年間所得百万円以下が二割もいるというローヤー業界。ポケーッと事務所で客待ちしている時代でもないのだろう。

 当初反発した勝も、彼の話を聞いているうち段々その気になっていった。

 もともと彼は争いを好まない性質である。楽なほうへ楽なほうへと身を寄せる性格だ。

 本人は虚弱体質だったため気も弱くなったというが、もともとの虚弱性格がさらに進化したといった方がよさそうだ。

 今回も、どうにかしてトラブルから逃げたいという焦りが男の説得で増幅され、金で済むのならと安易な方向へと誘われていったに過ぎない。

 弁護士はともかく、慰謝料という言葉が出たとたん女の態度が変わったことをいぶかしくは思わぬでもなかったが、とにかくこの窮地から抜け出せるのならと十万円を支払うことで話がついた。

 もちろん現金での持ち合わせがあるわけでもない。

 近くにある喫茶店に入り、念書を書くことになった。

 弁護士がバッグから出したペーパーに、言われるとおり勝が書き込み、署名、拇印した。

 これに女が目を通したとたん、事態は急変した。


   六


「いや、やっぱりあかん。チカンは卑劣な犯罪や。こんな男は警察へ突き出さんと社会が良うならへん」

 響き渡った女の甲高い叫び声に、居合わせた客たちは振り返った。

「あんた、警察いこ」

 いきなり立ち上がった女は勝の手を引っ張った。

 あわてたのは、彼より弁護士の男だった。

「な、なんでや。カ、カネもらわんと」

 と、立ち上がりかけた二人を引きとめにかかった。

「いいや、思い直したんや。痴漢は女のテキや。ちゃんと裁判して刑務所でヤキ入れてもらわんと、こいつら性根入れ替えよらん」

「そない言うても。あ、そや。この男にも将来がある。ま、ここはお互い話し合いでまるう収めて、な、な」

 前期高齢者の将来うんぬんには説得力がなかったのだろうか。

「いやや。ウチは決めたんや。こいつを、こいつを」

 女の憤りは収まらず、興奮してそのひとみには涙まで光っているように見えた。

 勝は何が起こったのかわからず、二人を交互に見比べていた。


 八郎の話に皆も首をひねった。

「警察と聞いて勝も否認に転じたらしい。やってもないことで懲役に行きたくないからな」

 ママも吉造もうなずいたが、

「そやけどなんで女も急に警察やなんて言い出したんやろ」

 と口をそろえた。

「そうや、それがどうしてもわからん。念書を読んでいた女が急に勝の顔をじっと見つめたかと思うと、態度が変わったというんや」

 そう言うとリーダーはみけんにしわを寄せた。

「弁護士と女はグルなのは明らかなんやけど、せっかく話がつきかけていたのに、もうけをフイにしてまで告訴に踏み切ったのは合点がいかん」

「その女の名前とか、どこに住んでるとかはわからんの?」

 ママの問いに、八郎は黙って首を横に振ると再び口をつぐんだ。

 あとは何を聞いても、両手を組んで目をつむっているだけだ。

 比較的冗舌な彼がこのような状態になるときは、ただひとつ。

 事態打開に向けての作戦を考え込んでいるのである。

 ママと吉造はリーダーを頼もしげに見つめた。


   七


 次の日の夕、八郎は吉造のアパートで作戦会議を開いた。

 とらわれの身となった勝をどうすれば救出できるか。

 官憲の手に落ちた以上、これまでの事件と違い救い出すのは容易でない。唯一の方法は、彼の無実を証明することである。

 それには女たちを捜し出すのが先決だ。

 勝がワナにはめられたのは間違いない。

 ボーッとした気の弱そうなオヤジを物色していて、白羽の矢が立ったのだろう。

 居眠りしている男を狙うだけでなく、もっと積極的に誘惑するときもあるに違いない。

 そんなハニートラップをこのあたりで繰り返しているのではないか。

 そう目星をつけて、彼らは捜索に入ることにした。

 今回は吉造にがんばってもらわなければならない。彼らは夜遅くまで作戦のチェックとトレーニングに取り組んだ。


 前期高齢少年団のリーダー八郎とその団員吉造は、翌日からチン電通いを始めた。

 女たちを見つけ出すと、カモのふりをして相手のミスを誘い、逆ハニーを仕掛けようという計画である。それをネタにしてゆさぶりをかけようというわけだ。

 相手の動きを証拠として残すため、マイクロカメラを用意した。

 司令塔はもちろんリーダーの八郎、おとり役を務めるのは吉造である。

 装備を整えると、二人は勝が事件に遭遇した時間帯を見計らいチン電に乗り込んだ。

 もちろん、心ならずも乗り逃げをした先日の運転士でないのは確かめた。

 車内は比較的すいている。通勤時間帯でないから、若者は少ない。

 カモが騒ぎ出し、屈強な青年が変に正義感をもって乱闘を演じるとか、勝手に警察に通報されると、詐欺師らにとってはやりにくい。

 気力・体力のないジジババアワーを選んだように思われた。

 一、二回、路線の端から端まで往復して、その日は終わりにした。

 先は長い。とりあえずウォーミングアップである。

 次の日から本格的な捜索に入った。それらしい中年男女が乗ってこないか、一日中目を光らせた。

 日に何往復もするとなると電車賃もばかにならない。プールしてあるメンバーの月例会費を取り崩しての作戦である。

 それらしい女が乗車口横でつり革をつかんでいた吉造のわきに立ったのは、捜索に入って四日目だった。。

 そのあとを追うように乗り込んできたスーツ姿の男が斜め向かいに席をとった。

 二人の目の動きで、奥の座席にスタンバイしていた八郎は、よしっ、こいつらだと確信した。


   八


 吉造は本来きりっとしたいい男で、勝のようにあけっぱなしのノーテンキ人ではない。

 たぶんそのままでは、詐欺師グループも手を出しにくいだろう。

 そう思って出てくる前にちょっとメーキャップをほどこし、いっこく堂キャラのカルロス・セニョール・田吾作ふうに化粧した。

 口も半開きで、水揚げ三日目のイワシみたいな目をするよう彼には伝えておいてある。

 左手のスマホを口元にもっていき、八郎は小声で指示を出した。

「横に来た女が犯人や。用心せぇ」

 メッセージは吉造の耳にはさんだイヤホンに伝わった。

 命令を受けた彼は、キャップをかぶり直すかのように装い、つばに取り付けた超小型ビデオカメラのスイッチをオンにした。

 モニターはスマホである。これだと、わきから女が見てもメールを読んででもいるかのように思い、注意を引くことはない。

 通話と兼用でき、切り替えるだけでカメラの映り具合を確認できる。

 のちのち痴漢の濡れ衣を着せられても、指一本女のからだに触れていないという証拠を残すためである。

 詐欺の一部始終をカメラに残し、勝の冤罪をそそぐ証拠にしようというのだ。

 電車のゆれを利用して女は徐々に吉造の方へ体を寄せてくる。

 だが、ここで手違いが生じた。

 前期高齢者シリーズをお読みの方はよくご存じだろうが、吉造は大の女嫌いである。

 脂粉のにおいを漂わせ近づく女体に、彼は恐怖にも似た重圧を感じた。

 このため、女が一センチ近づくと、二センチ離れ、二センチ寄ると四センチ逃げるという有様。

 これを見たリーダーは焦った。

「離れすぎや。そんなに間を開けたら相手も行動に移りにくい。勝を助けるためや、がまんせえ」

 彼は団員を激励した。

「もう少し左へ。左、左……。いいやそっちは右や。ひだり、ひだり、いいやぃな、茶碗を持つ方、なに?オレは左利きやて。古いギャグ使うな。違う、そこで止まって。離れたらカメラが写らん。なに?アプリが消えた?ほな、画面をスワイプして、次のページにあるレンズ型のアイコンにタッチするんや。エー?スワッピング中にタッチしたらシリコンが入ってたって。どうしたらそんなうまいこと聞き違いができるんや。えーい、違うがな。わからんやっちゃな、もう」

 年のわりに八郎はPCや携帯に暗いほうでない。だが、ご他聞に漏れず吉造はさっぱりである。

 作戦実行にあたって昨夜特訓を受け、なんとか基本的な操作法は覚えたが、アプリがなにやら、アイコンがどれやらさっぱりわからない。

 そこへリーダーの叱責が加わったものだからウロがきた。

 目はスマホの画面を漂い、指は空中で幾何学模様を描くのみ。おまけに足元までおろそかになり、停留所で開いていた乗車口のステップを踏み外した。

 あっと思うまもなく、体はもんどりうって安全地帯に転がり落ちた。

「あいたた、痛-ッ」

 だが、運転手は乗客が落ちたのに気づかず、電車のドアを閉めると、八郎らを乗せたまま発車させてしまった。

「あ、八っちゃん、八っちゃん、助けてんかいな。トホホホホ」

 吉造の泣き声に気づいたのは、たまたま線路を渡っていた子犬だけ。不思議そうに首を傾け、渋面をつくる男の顔をじっとながめていた。


   九


「ひどいやないか、八っちゃん。ひとが電車から落ちて腰をいやというほど打ちつけてるのに、そのまま行ってしまうやなんて」

 翌朝、八郎が喫茶ヴェルサイユのドアを押し開けるやいなや、吉造のうらめしげな声が飛んできた。

「すまん、すまん。あそこであいつらを見逃したら、手がかりが失われてしまうもんやさかい」

 店内に入ると、メンバーの肩に手をやり猫なで声で弁解した。

「いや、窓から見たらすぐ立ち上がりよったし、もしけがでもしてそうやったら、次の停留所で降りて走って戻るつもりやったんや」

「ほんまか」

 うらめしそうな目つきをしながら吉造は、しかし気を直したようすで尋ねた。

「で、何かわかったか」

「うん、それやねん」

 八郎は隣のいすに座り、コーヒーを頼んだ。


 あのあと、チン電を降りた男女二人は別々の方向へ向かった。

 当然女のあとをつけた。

 路面電車といえどターミナルとなると人通りも多い。いったん地下街へ下りると、彼女は私鉄、JRの乗降客がごったがえす流れに乗った。

 行き着いた先の階段を上るとそこは繁華街のはずれだった。

 戦前からの木造家屋が軒を連ね、バックにそびえる西日本一やらという建築中の高層ビルの方が場違いに感じるほどレトロな雰囲気を残す街並みが残っていた。

 商店街のアーケードをくぐり、わきに折れると、細い路地が続いていた。その突き当たりにある文化住宅の階段を上り、彼女は一番奥のドアを開けて入った。

 八郎は手前の部屋に用があるようなそぶりを見せながら彼女の部屋を探った。

 もちろん表札などは出ていない。ビニールの新聞受けやゴミ箱、乳母車などといった他の部屋に見られる生活用品がないところを見ると、長期間の居住を前提にしていないようだ。

 近くのドアが開きかけたので彼は急いで階段を下りた。

 そして、路地に立って、建物を観察してみた。

 いまどきはやらない賃貸住宅だが、ターミナルに近い立地条件からか空き部屋はなさそうだ。洗濯機は外置きで、ガスや水道の配管がむき出しになっている。

 隣の空き地で遊ぶ子どもたちの声が心地よい。

 八郎は小さいころを思い出した。

 あの時分は、こんな空き地を広っぱといった。三角ベースで日が暮れるまで草野球をやった。

 あたりが暗くなってきたので、とりあえず昨日は引き返してきたと言う。

「それで、吉ちゃんに頼みがあるねん」

 きょう八郎は勝の弁護士に会う約束がある。

 裁判になった場合のことやスケジュールなどについて教えてもらいに行くのだ。

 その間、吉造に女の文化住宅付近で聞き込みをしてほしいという。

 直接訪ねていっても、当然のこと身元などを明かすはずがない。

 階段下の集合郵便受けをのぞいてはみたが、あて名つきのものは見当たらなかった。よしんばあったとしても、本名は使っていないだろう。

 そこで、出来うる限り近所の人間から彼女の情報を集めてきてほしいという。

「どうやろ。出来るか」

 八郎は尋ねた。

「勝の無実を晴らすためや。なんでもやったる」

 吉造は胸をたたいた。

「そうか、たのむで」

 リーダーは目を細めた。


   十


 翌朝、二人はヴェルサイユで落ち合った。

「どうやった?」

 吉造の問いに、八郎はまゆを曇らせた。

「このままでは、やっぱりあかんらしい」

「あかんか」

「うん。まあ有罪間違いないやろって弁護士の先生が言うてはったワ。否認してるから刑務所行きは免れんのんとちゃうかていう話や」

「えーっ!刑務所」

 吉造は息をのんだ。

 三人はこれまでいろんな悪さをしたが、監獄送りはともかく、警察のお世話になることさえなかった。

 冬の監房は冷えるという。寒がり屋の勝を思いやると、彼らはいたたまれぬ思いになった。

「ところで、吉ちゃんの方はどうやった」

 気を取り直した八郎は聞いた。

「いや、近所を聞き込みに回ったけど、あんまりパッとした結果は得られなんだ」

 下町――大阪に山の手があるのかどうか疑問だが――、とにかく下町の商店街だけに、しゃべりのオバハンは多かったが、女についての情報はほとんど聞かれなかった。

 家にいても外へは出てこない。姿を見せるのは玄関を出るのと、外出から帰ってきたときくらい。

 あいさつひとつ交わさず、近所づきあいはまったくといっていいくらいない。 

 ドアをたたくと、顔出しはするが、簡単な返事をしてすぐ閉めてしまう。

 ただ、子どもだけは好きなようで、たまに家に上げてお菓子を食べさせたりするらしい。

 それでも、ほとんど口は利かず、聞き方いっぽうで、ただにこにこやさしそうな目を向けているだけだという。

 部屋の中にあまり家具はなく、座り机にわずかな化粧道具が乗っているばかり。シノギの割には質素な生活をしているようだ。

 あるとき、絵を描くのに子どもが鉛筆と定規を貸してもらったのが、あまり古ぼけたものだったので尋ねたら、小学校時代から使っているという。

 身のこなしなどから見て、そう悪い育ちではないように思われるのだが、ときどき見せるするどいまなざしに来し方のまともでなかったことがうかがわれるというのが、近所の評判だった。

「あんまり役に立たんやろ」

 自分にも言い聞かせるように吉造は言った。

「うーん」

 八郎は、うなずいたまま考え込んでしまった。


   十一


 ガス会社風の制服を着込み女の部屋の前に立ったのは、八郎ら二人だった。

 ヴェルサイユの客にコスプレ業者がいて、貸してもらったものだ。

 彼らは早速作戦に取りかかった。

 メーターつきの検査機器らしきものを手にガス管の周囲を点検する役は吉造だ。

 一方は、わきに立ちバインダーにはさんだ書類に何かを書き込んでいたが、しばらくしてドアをたたいた。

「すんまへん、ガス会社でっけど」

 部屋の持ち主が帰宅したのは張り込みで確認してある。

 女が顔を出した。間があったのは、わきにある小窓のすき間から外を確認していたのだろう。

「お忙しいところをすんまへん。アパートの人から外の配管にガス漏れがあるんやないかと通報がありまして、おたくも調べさせてもらいましてん」

 ガス漏れと聞いては、セールスのようにバタンと戸を閉めるわけにもいかない。

「あ、そう。ごくろうさん」

 女は一応ねぎらいの言葉をかけた。

「異常おまへん。すんまへんけど、チェック済みのサインいただけまへんか」

 と、八郎は用意した書類を差し出した。

 彼女がペーパーを手に取り読んでいる間、彼は横目で玄関先を観察した。

 履物やカサなど女物しか見当たらない。ドアがわずかしか開いていないので奥は見えないが、全体として男臭は感じられない

 ゲタ箱の上に郵便物があった。あて名を盗み見、名前を頭に刻み込んだ。

 男の名前だった。

 住宅や電気、ガスなどの契約者は、他の人物がなっているのだろう。

「ありがとうございます」

 八郎は受け取った書類の名前を確認した。郵便物と同じ名字になっている。

 だが、本名とは考えられない。

「あ、それからすんまへんけど、ちょっと物差し貸してもらえまへんか。配管のジョイントが古うなってて、このつぎ来たときに取り換えたいんでっけど、サイズを測るメジャー忘れてきたんですワ。すぐ返しますさかい」

 わずらわしそうなそぶりを見せながらも女は奥へ入って、小さな定規を持ってきた。 礼を言って、八郎は配管の取り付け部に定規を当てた。

 このとき目盛りを読む彼の口元にニヤリと笑みの浮かんだのを、女は気づかなかった。


   十二


 ヴェルサイユに戻った彼らは、クーラーの利いた涼しい風をからだいっぱい吸い込んだ。

「ああ、蒸し風呂や。作業服とはいえ、日ごろきっちりした衣類から縁遠い生活やから暑うて暑うて、もう」

 首筋から背中までおしぼりを使い、八郎はため息をついた。

「なんや最近、気候が変やで。つい一、二週間前までコタツに入ってたのに、もうクーラーが要るなんて」

 吉造が話を合わせた。

「こらあ地球温暖化のせいやで」

「やっぱり、そやろか」

「日本人てほんまにエエかげんな民族や」

「ええっ、なんで?」

 話が急に飛んだようで吉造は戸惑った。

「ついちょっと前まで、二酸化炭素25%カットやとか言うときながら、原発事故が起こったとたん、エコなんか吹っ飛んでしもうて、石油や石炭やと走り回っとる」

「そやけど、エネルギーがなかったら生きていかれへんやないか」

 吉造は反論した。

 だが、相手は聞こえなかったのか、われ勝手に話し続けた。

「快適な生活を維持するためにはこれだけのエネルギーが要る。だから使う。この考えが間違いや」

 八郎は興奮してきたのか、コップの水を飲み干した。

「自然のサイクル量はこれだけや。だからその範囲内で生活するというのがまっとうな考えとちゃうか。そしたら、他の生物やわれわれの孫子にも迷惑かけんですむ」

「ふうん」

「原発事故は、考えを根本的に改めるエエ機会やったはずやのに、時間がたったらまた元の木阿弥や」

 年のせいか彼はだんだん理屈っぽくなってきている。言ってることは正論だが、いつもくどい。

「ところで、何かわかったんか」

 これ以上環境論を続けられたのでは日が暮れる。相方は話を元に戻した。

「そやそや。大事なことを忘れてた」

「なんや」

「名前がわかったんや」

 思わぬ答えに吉造は目をまるくした。こんなにあっさりと判明するとは考えられなかった。

「どないしてわかったんや?」

 驚く吉造に、リーダーは少々鼻高々で説明した。

 書類のサインはあてにならない。だが、不動産屋や電気、ガス会社への問い合わせに役立たないこともないだろう。

 本人になりすまし、うまく問い合わせれば、情報を引き出すことができるかもしれない。

 そう思って、女にサインさせた。

 だが、八郎にはもうひとつのたくらみがあった。

 例の定規である。

 小さいころ、特に戦後間もないころは物不足で、物差しひとつ簡単に買えない家が多かった。

 ものを大切にするという良風もまだまだ根強く、その習慣は貧富による差がなかった。

 大人でも持ち物に名前を彫り込んだり、名札をつけたりした。

 ましていわんや、物を失くしやすい子どもたちは必ずといっていいくらい書かされた。

 その、小学校時代から使っているという定規を借りたのである。

 見込みどおり、ひらがなで名前が彫ってあった。

「なるほどー」

 いつもながらのリーダーの卓越した勘に吉造は舌を巻いた。

「で、名前は?」

「しのはら・ななこ」

「うーん? しのはら・ななこー?」

 名前を聞いたとたん、吉造は首をひねった。

「なんや、聞き覚えがあるんか」

 リーダーの問いに、彼は遠い記憶を呼び戻すかのように、

「八ちゃんはいっしょの高校やなかったから知らんやろけど、ワシらの学校にも篠原菜々子いう子がいたんや」

 と答えた。

「知ってるがな。あの篠原コンツェルンの総帥の娘やろ。そやそや、あの子も篠原菜々子やったなあ」

 仲間に言われて、彼もその子を思い出した。

 吉造と勝は上町高校へ進学したが、八郎だけは彼らと線路一本隔てて家があったため、別の学区の住成高校に通った。

 その上町地区には昔からの高級住宅街があり、そこに篠原コンツェルンの会長兼社長である篠原良蔵が居を構えていた。

 学校こそ違え、近くに住む大富豪だけに名前だけは聞いていた。

 通常ならお嬢さん学校へ通わせるところだが、将来の後継者である一人娘に一般社会を体験させ、高校卒業後は英国へ留学させようと考えていた。

 ところが、なぜか高校時代に家を飛び出し、行方不明になってしまった。

 以来、篠原家は傘下の製油所で大火災が発生したり、タックスヘイブンに移していた資金によるデリバティブに失敗したりと不運が続いた。

 揚げ句の果てには、米国ファンドに持ち株会社を乗っ取られ、良蔵は悲運のうち病を得てこの世を去った。

「そういうたら間違いない。昔の面影がある。あいつや。勝のガールフレンドやった、あの子に間違いない」

「ええーっ、勝の? あの大令嬢が?」

 はじめて聞く思いもかけぬ話に八郎は驚きの声を上げた。


   十三


「エエ男でもないし勉強ができるわけでもなかったけど、勝はどこか憎めんところがあって、女の子は安心感を持つんやなあ」

 それも、よりによって大富豪の御令嬢様の目にとまったというのである。

「世の中、間違いのタネはどこにでも転がってるもんや」 

 八郎は首を左右に振って自らを納得させた。

 ふたりは先を約していたとかいなかったとか。

 金もある、顔もきれい、勉強もできるとなれば、女子連中の嫉妬を買わぬはずがない。

 人の持ってるものが欲しくなるのは子どもの世界だけではないようで、ある女の子が二人の仲に割り込んできた。

 いっぺんに二人から言い寄られたのは初めてである。オレはモテる。ノーテンキ男は舞い上がってしまった。

 オンナというのは生まれつき手練手管を兼ね備えている生き物ですワ。

「ウチだれそれさんから付き合うてほしいて言われてるねん」

 とかなんとか言って、コムスメのくせに彼の気をひいてみよった。

 それほど魅力を感じている相手でのうても、だれかに持って行かれるとなれば、あ、ちょっと待って、てなもんです。

 とくに男の場合、オットセイに例を引くまでもなく、多ければ多いほど結構という輩が大半ですなぁ。

 高校生とはいえ、ついつい手を握って暗やみへという関係になってしまったらしい。

 これが令嬢にばれた。

 追及を受けた勝は、ああやこうやと言を左右にして逃げまくっていたが、結局白状してしまった。

 これだけで「スマン、魔がさしたんや」と、これまた最近はやりの土下座でもすればよかったのだが、何か面白い言い訳をという持って生まれた大阪人的サービス精神がわざわいした。

 なぜそんな関係になったかの詰問に上目づかいに、

「おせちもいいけどカレーもねっていうやろ」

 と、口走ってしまった。

 令嬢とはいえそこは女、カーッと血が上った。

「ウチはカレーに劣るんか」

 言うなり持っていたかばんで水平打ちをくらわせた。

「あいつの唇のわきに傷あとがあるやろ。あれがそのときのや。かばんの角にある金具でできたんや」

 と、吉造は話をしめくくった。

 当然二人の仲はそれで終わった。

「以来会うたことはないんやけど、偶然やなあ、あの二人がこんな事件で遭遇するなんて」

 吉造は感動にも似たドラマティックな出会いに驚きを隠せなかった。

「ほんまやなあ。女は勝の名前を見て、すぐ気づきよったんや。憎い、憎い、自分の人生が狂うきっかけをつくった男やからなぁ」

 なぜ相手が態度を急変させたかのかがわかり、二人は複雑な思いにかられた。

「そやそや、そういうたらワシあの家の執事をしとったオトコ知ってるねん」

 と、八郎は手を打った。

「えーっ、篠原家の」

「うん。たまたま駅前の飲み屋で、ほら、あの『一週間に十一日来い屋』や」

「けったいな名前やなあ。『十日来い』やないんか」

「いや十日でも足らんちゅうねん」

「勝手にせえ」

「あそこで知り合うたんや。いまはもう現役を退いて年金生活やけど、なぜか気が合うてな。しゃべるうち昔の話が出て、そこのバトラーやったとわかったんや」

 仕事が仕事だっただけに詳しいことは話さないが、同家に勤めていたことをポロッと漏らしたという。

「今晩ちょっとアイツに会うてくるワ。解決の手がかりがつかめるかわからん」

 そう言い置くと、八郎はグラスの底に残った冷コーの氷を口に放り込みドアから出て行った。


   十四


 その晩、八郎は例のバトラーと駅前の喫茶店で話しこんでいた。

 普段なら酒屋のほうが落ち着くのだが、少々込み入ったことを聞かなければならず酔客の耳に入らないようここを選んだ。

「そうですか。お嬢様が」

 そう言うと、彼は何かをのみ込むようにして口を結んだ。

「勝さんとのことは、私にも責任の一端があるんです」

 しばらくして執事だった男は口を開いた。

「旦那様はお二人の交際に反対でした」

 母子家庭で風采の上がらぬ、これといってとりえのないボーイフレンドを上流階級の父親が好むはずはない。

 しかし、頭ごなしに交際を反対するとなると、かえって逆効果になるのを彼は知っていた。

 良蔵は、執事に勝の情報を集めるよう命じた。

 そこへ起こったのが、かのカレー女子との問題である。この話をキャッチした彼は、主人の耳に入れた。

「私が黙っていればお嬢様があのようになられることはなかったかもしれません。旦那様はそのことをお嬢様にお話しになり、付き合いはやめるよう申し渡されたのです」

 口元まで持っていったカップの手を止め、彼はくちびるを震わせた。

「でも、お嬢様が家出をされたのは勝さんのことが本当の原因ではありません」

 八郎は顔を上げた。

「お母様が亡くなられて、すぐ旦那様が後添えの方を家に迎え入れられたのです。このため、お嬢様はお父様が信じられなくなっていました。男性不信に陥っていたところへ、勝さんのことがあったのです。

「学校へ行かず、お嬢様は夜の街をさまよわれるようになりました。それをとがめたお父様との大ゲンカのあと、お屋敷を飛び出されたのです。警察へ捜索願も出しましたが、行方は知れませんでした。

「旦那様も最後まで悔やんでおられました。もう少しやさしくしてやればよかったと。一人娘を失ったさびしさは、はたから見ていても胸をしめつけられる思いでした」

 大きくため息をついた彼は、ハンカチを取り出してまぶたをぬぐった。

「良蔵さまが亡くなられるときに、いささか預かったものもございます。住所をお知らせ願えないでしょうか。お嬢様にお会いしてお話しさせていただきとう存じますので」

 昔のことを思い出しているうち、言葉遣いもバトラーだったときのものに変わってしまっていた。

「もちろんよろしおます。それに、ひとつお願いがおまして。かくかくしかじかという状態で。それで、こういうことに」

 八郎は声を落とし、顔を話し相手のほうへ寄せた。

                         

  十五


「無罪放免になって、きょう出てくるんか」

「そう、よかったわねぇ」

 ママと吉造は大喜びだった。

 最近落ち込み気味だったヴェルサイユの空気がいっぺんに明るくなった。

「それでも、どないして、あの女、いや菜々子さんの気持ちを変えられたんや?」

「ほんまやねえ。女は思い込んだら強情やから」

 二人は難問をあざやかに解決した八郎のテクニックを褒め称えた。

「人間の心に怒りの火をつけるのが人の言葉だとしたら、その怒りを解くのも人の言葉や。執事さんにあることを伝えてもらうよう頼んだんや」

 たしかに、勝の行動は女の子の心を傷つけたのに間違いない。

 家出をするきっかけのひとつになったかもしれないが、それは男女間によくあるもつれ話に過ぎない。

 そこでちょっとだけ作り話をしてもらうように頼んだ。

 良蔵は、彼ら二人の交際を望んでいなかった。

 ある日、勝を自邸へ呼び、娘の将来のことを思うなら身をひいてくれと子どもの彼に頭を下げた。

 婿を取って財界屈指の篠原家を継ぐとなれば、門閥、閨閥、経済閥といったいろんなつながりを持った人物でなければならない。

 結婚は娘ひとりの行く末だけでなく、コンツェルン全体に働く何万という従業員の人生を左右する。

 別のガールフレンドができたということにして、勝から縁切りをさせた。

 ――というのが、八郎の描いたシナリオである。

 この話が、かたくなにさせていた菜々子の心をいっぺんに氷解させたという。

「しかし、これは勝に内証やで。万が一相手に会うて、ポロッともらしよったら、また話がこじれるから」

 リーダーは二人に念を押した。

「ウソも方便やなあ」

「それやったら、だれも傷つかんでまるく収まるわね」

 二人が納得の声を上げたとき、ドアがバタンと開いた。

「レディース、 アーンド、ジェントルマーン、アーンド、おとっつぁん、おっかさん、グッドモーニング」

 と、大声を出しながら勝が飛び込んできた。

「五十年以上も前のかび臭いギャグ使いよって。その分やったら、大丈夫、元気やな」

「おつかれさん、おめでとう」

 皆は大喜びで迎え入れた。

 空けてくれた八郎と吉造の座席の間にからだをすべり込ませ、

「レギュラーコーヒー一丁!」

 と、勝もうれしそうな声を出した。

「出所祝いに今日のコーヒーはタダよ」

 めずらしいママの大盤振る舞いに皆は快哉を叫んだ。

「ただし、これまでのツケは早く支払ってね」

 店の借金の支払い日前に勝が釈放されてきたのでママの機嫌もいい。

「ところで、どうやった、ムショ暮らしは? 食いもんまずかったやろ」

 吉造も顔いっぱいに笑みをほころばせていた。ほんとうに友の釈放がうれしそうだった。

「いやあ、そやけど思うたよりよかったで。昔はブタ箱とかくさい飯とかいうたけど、いまは人権がうるさいのかちゃんとした食事が出たワ」

「そら良かったやんか」

 ママが彼のためにコーヒーをたてながら笑顔で答えた。

「脂っこうもないし、塩分も少ない。健康的この上なしやな。たまには入るのもエエもんや」

 と勝は強がりを言ってみせた。そしてひとこと付け加えた。

「ま、おせちもええけどカレーもね、ってとこやな」

 この言葉にママは一変顔をこわばらせ大声で怒鳴った。

「あんたは女をバカにするんか!」

 とつぜん豹変したママの態度に、いきさつを知らない勝はなにが起こったのかわからず、きょとんとした。

「あーあ、またいらんこと言うて」

 吉造は苦笑いしながら八郎を見た。

 しかし、リーダーは表情をゆるめず、さびしそうな表情をみせていた。

 吉造はハッとした。

 話の八郎が捏造したという部分は、勝のプライドを守るためについたうそではないか。

 母親と二人暮らしだった勝には上の学校に進める余裕などなかったはずだ。

 しかし、大学へ行き無事卒業してそこそこの企業に就職した。

 奨学金をもらっていたにしても、彼らの生活では十分でなく、支援をしてくれるところがあるようだといううわさも聞いた。

 苦しい家計や菜々子らの将来を考え、そして進学を願う母親の夢をかなえるためにも、とるべき道を選んだのではないか。

 だとすれば、おせちもうんぬんというのは、菜々子の気持ちに区切りをつけさせるため、断腸の思いをもって伝えた愛のメッセージだったのかもしれない。

 いずれとも定かではなかったが、彼の目も熱くなっていくのがわかった。


                                         (おわり)




 

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