初恋、5年目。
恋に落ちる、とはよく言ったものだと思う。はっきりとしたきっかけがあろうと無かろうと、恋は落ちるものだ。落とし穴に落ちるような恋もあれば緩やかに下りていくような恋もあるかもしれない。
私の場合は前者である。
◇
「なぁなぁ、ゆーみん」
「ゆーみん言うな!」
などと慣れ慣れしく声をかけてきたのはクラスメイトで幼馴染の矢野悟だ。同じ病院で数日違いで生まれて以来17年間保育園から小学校から中学高校とずっと同じ学校に通っている。
ちなみにゆーみんというのは私だ。私、弓長愛が恋に落ちたのはもう5年近く前になる。そしてその相手が・・・。
「へへっ」
こんな風に17になっても小学生のような無邪気な笑顔で笑うこいつなわけで。
「そんな風にぷりぷりしてっから背が伸びないんだよっ」
そんなことを言いながら私の頭に手を置いてわしわし撫でる。
「子ども扱いするなっ!」
ぺしっ、と手を払いのける。こうすると私が嫌がることもわかっているのだ。
「ちょっと背が高いからって生意気!」
行儀が悪いのは承知で悟の顔を指差して抗議する。小学生のときは私よりチビだったのに、中学に入ってからぐんぐん伸びたこいつはすでに180センチを越えたらしい。
「ゆーみんはいつまでたっても小さいなっ!」
「だからゆーみん言うな!」
本当に生意気だ。小さいころはあいちゃんあいちゃんって後ろをついてきていたのに。
「で?人の名前呼んでおいて何の用もないの?」
おお、忘れてた、なんて悟が言う。忘れてどうするのだこの馬鹿は。
「うちさ、今日親いないんだよ。そんでゆーみんの家でご飯食べさせてもらうことになってるじゃん?」
え、なにそれ。
「何も聞いてないの?」
悟は私に話が通っていると思っていたのか、目を丸くしている。
「お母さん私に何も言ってない!」
あのお母さんのことだから忘れてるんだろうか。もしかしたら言わなくてもいいと思っているのかもしれないが。
「まぁいいや。そんで帰りにスーパー寄ってきてって頼まれてんだよ。ゆーみんも行く?」
「行かない!」
はっきり断ると、悟はまるで気にもしない様子で、
「そか、んじゃ俺寄ってからそっち行くわー」
とひらひら手を振りながら去っていく。
「あっ・・・」
私は無意識に手を伸ばしていた。悟の背中が小さくなっていく。言われたとおりにスーパーに寄って頼まれたものを買いに行くのだろう。私のことなんて気にも留めないで。
悟は何も気付いていない。
頭を撫でられたら、その手のひらの大きさとあたたかさにドキドキすること。
ゆーみんって呼ばないでって言っているのは悟にだけだってこと。
弓長愛が矢野悟に恋をしていること。
◇
「お母さん!悟がうちに来るなんて聞いてないんだけど!」
「そりゃあんた言ってないもん」
お母さんは何言ってるの当たり前でしょ、とでも言わんばかりの様子だ。
「なんで言わないの!」
さらに問い詰めると、お母さんは口元をいたずらっぽくゆがめて言った。
「言わないほうが面白いじゃない?」
面白いってなんだ!と思った私だが、言葉にする前にさらにお母さんが続ける。
「あんた悟くんのこと好きなんでしょ?チャンスじゃない」
「!?!?!?!?」
瞬間、顔が真っ赤になる。一体いつからバレていたというのだろうか。
「なによ今更。バレバレだって」
当然でしょと言わんばかりに頭を振るお母さん。
「な、なんで・・・」
「だってあんた、悟君の前でだけでしょ、あんな態度とるの」
そんなにバレバレな態度だったのかと思う。そもそも最近悟と私が一緒にいるところをお母さんは見てないはずなのだが。
「それに悟君の話してるときのあんた見てるとね、わかるのよ。恋してるんだなってね」
そんなものだろうか。疑問に思っているとお母さんはそのまま続けた。
「私もね、幼馴染がいたのよ。大好きだったわ」
「え・・・?」
お母さんも幼馴染に恋をしていたなんて初耳だ。じっと見つめるとお母さんは苦笑してそのまま続けた。
「でもね、素直になれなかったの。」
「・・・」
「そうしてるうちに相手に彼女が出来て、たくさん後悔して、たくさん泣いて、でもどうにもならなくて諦めたわ」
「諦められたの・・・?」
ううん、とお母さんは首を振った。
「諦めるしかなかったのよ。最後まで素直になれなかった私が悪かったんだから」
素直になれなかった。諦めるしかなかった。お母さんの言葉が突き刺さる。
「ねぇ愛。素直になるってすごく簡単なことよ」
簡単?5年もずっと言い出せないままでいるのに?
不思議に思っているとお母さんは優しく微笑みながら私の頭を撫でる。普段なら払いのけるのに、今日はなぜか素直に受け入れられた。
「でもね、その簡単なことにみんな気付かないのよ。気付くのは終わってから、あぁしておけばよかったって思うの」
私がそうだったわ、とお母さんは続けた。
「もちろん、素直になればうまくいくなんて確証はないわ。でも、何もしないまま終わったらずっと後悔する」
まっすぐお母さんは私の目を見て言った。
「後悔しないようにがんばりなさい」
◇
悟がご飯をうちで食べるからといって私の部屋に来るかなどわからないのだが、それでも掃除したいのが乙女心である。
念入りに念入りに片付ける。悟の写真とか飾って無くてよかったな、と思う。携帯のフォルダの中にはこっそり悟の写真が入っていたりするのだが、さすがにそこまでは見られないだろう。
そうだ、服はどうしよう。普段だったら家に帰ったら楽な服装だけど、今日は悟がいるし少しは気合を入れたほうがいいかな、とクローゼットを漁る。
どんな服が好みかな。キュート系?セクシー系?
セクシーなのが好みだったらどうしよう。私の身長は145センチしかない。キュート系で攻めようかな、と上着を脱いだ瞬間、
「飯だぜゆーみん!!」
ガチャリという音とともに悟が部屋に入ってきて叫んだ。
満面の笑顔の悟と目が合う。
空気が凍る音がした、とは後に悟の語るところである。
「あ、あのさ」
「・・・なに?」
「結構ゆーみんっておっぱい大きぐはっ!?」
私の正義の一撃が悟に決まった。
「痛ってぇ!」
悟が私に殴られた頬を押さえてこちらに抗議の視線を送る。
「なにすんだ・・・ひぃ!?」
悟が後ずさる。
「何か言い残すことは?」
私にだって慈悲はある。辞世の句ぐらい詠ませてやろうではないか。
「あ」
「あ?」
なんだろうか?
「ありがとうございます!!」
その瞬間、私の中で何かが切れる音がした気がした。
「ばかばかばか!信じらんない!しんじゃえこのばかぁー!!」
その勢いのまま手の届くものを片っ端から投げつける。
「わっちょ!?待てってゆーみん!」
「うるさいばかぁ!!出てけー!!」
悟がたまらず逃げ出したあと、ふと机の上を見ると携帯の画面が悟の写真のままになっていた。
思わず画面を別の画面に切り替えてドアのほうを見るが、さすがにもう誰もいない。
「見られてない・・・よね」
さすがにあの馬鹿でも携帯の画面が自分の画像になっていたら気付くかもしれない。なかなか想いを伝える勇気も出ないくせに自分自身で伝えたいのだ。
「って私上はブラだけ!?」
突然現れた馬鹿を撃退するのに夢中で着替えの途中だったことをすっかり忘れていた。でももう疲れたから何でもいいかと思う。結局普段通りのTシャツにショートパンツという格好に着替えてリビングに降りることにした。
◇
食卓は重い空気に包まれていた。聞こえるのは食器とお箸がぶつかる音だけ。お母さんもお父さんも私も大好物のカレーであるが、この空気をどうにかするだけの力は無いようだ。
「・・・」
「・・・」
視線を感じて悟のほうを見ると時折私の様子を伺っているようだ。だが、向けられている視線が顔だけでなくそのまま下に降りている。
大方さっき見た光景を思い出しているのだろう。本人的にはちらっと見ているつもりだろうが見られている側からすればたまったものではない。男子のチラ見は女子からすればガン見なのだ。
「・・・(ぎろり)」
睨むと、悟は慌てて目を逸らす。普段だったら私の胸に興味あるのかな?ぐらいの乙女な考えも出るかもしれないが、とてもそんな気分じゃない。
そのまま気まずい空気が流れる。お父さんはいるのかいないのかわからないし、お母さんはなぜかにこにこしている。悟は露骨に目を逸らしてカレーを食べている。
何分経っただろうか。食事が終わるまで続くかと思ったこの状況をぶち壊したのはお母さんだった。
「ところで悟くん」
お母さんが悟の名前を呼ぶ。
「はい?」
なんだろうか。また余計なことを言わなければいいのだけど。
「愛の体どうだった?」
「ブフッ!?」
豪快に悟がむせた。というかお母さんは今なんと言った?私の体がどうだったかって、まさか!
「お、おおおお母さん!?」
もしかして私が着替えているタイミングで悟が私の部屋に入ってきたのって・・・。
「うふふ」
お母さんが私に向けてウインクする。そうか、この人私が着替えているタイミングを見計らって悟を私の部屋によこしたのか。
ちらりと横目で悟を見るとこちらを・・・厳密に言えば私の胸元をちらちらと見ていた。そうか、お前の見るところはそこなのか。
「あ、あの!」
悟が手を上げて立ち上がった。
「すっげぇ綺麗でした!」
「何言ってんの!?」
即座に突っ込みを入れる。噴出した後ちらちらこちらを見て黙っていたのは思い出していたのかこの変態め。
「ほほう、詳しく聞かせてもらおうではないか悟くん」
お父さんが喋った!
「ああ、いや、その」
さすがの悟もお父さんの前ではうろたえているが、肝心のお父さんも口の端が歪んでいる。この夫婦グルだ。
「愛は見てのとおり背丈は小さいし顔は子供っぽいが胸は育っていると思うんだ」
「ほんと馬鹿しかいないのこの家!?」
娘の同級生に向かって何を言っているんだこのお父さんは。
「何を言うか。娘の成長を喜ぶのは親として当然だ」
無駄に胸を張って言うお父さん。
「娘の胸を見ながら言うな!」
視点が完全に胸元だ。ダメだこの父親・・・。
一縷の望みをかけてお母さんを見る。
「愛、それは武器なのよ」
とてつもなく真剣な顔だ。この人もだめだ。
「・・・」
黙って席を立ち、リビングの戸に手をかける。
「愛、待ちなさい」
いたって真面目な口調でお父さんが声をかけてきた。何かまだ言うことでもあるのか。
立ち止まって振り返った私にお父さんは言った。
「悟くんがどう思っているか気にならないのか?」
「ならない!!」
バタン、とドアを後ろ手に閉めて自分の部屋へと向かう。あそこにいたらどうなるかわかったものではない。
「ホント馬鹿ばっかり!」
部屋に入ると、そのままベッドにダイブする。
お母さんもお父さんも応援してくれているのはわかる。わかるのだが、もうちょっと他にやり様はないのだろうか。
「悟も悟だよ。胸ばっかり見て」
胸は私にとってコンプレックスの一つだ。身長は低くて顔は童顔、なのに胸ばかり大きくて不釣合いだと思う。可愛い下着も可愛い服もなかなか合うものが無く、あっても割高で高校生の財布事情からは少々厳しかったりするのだ。
じろじろと見られるのが嫌で、隠すようにしているうちに少し猫背気味になってしまった。それがさらに背を低く見せているという悪循環だ。
「悟のばぁか・・・」
枕を叩くとぽすんという気の抜けた音が鳴った。
「だーれが馬鹿だって?」
声のしたほうに振り向くと悟がいた。勝手に入ってきて怒られたのにまだ懲りてないようだ。
「・・・なに勝手に入ってきてるのよ」
言いつつそっぽを向く。
「おばさんが部屋に行ってみろってさ」
またお母さんの差し金か。後悔しないように、とは言うもののお母さんは少し急ぎすぎじゃないかと思う。
私と悟は恋愛話などしたことは一度も無い。突然二人きりにされても意識するのは私ばかりで悟はどうということはないのではないか。
「悟はさ」
「ん?」
「好きな子とかいる?」
悟からそういった話は聞いたことが無い。でももしかしたら好きな子がいるんじゃないかとずっと思っていた。
「いるよ」
「えっ・・・」
意外な答えだった。本当に普段悟は恋愛に興味があるようなそぶりは見せない。そうか、好きな子がいるのか・・・。
「ふ、ふぅん・・・」
「なんだよ。俺に好きな子がいたら変か?」
「そういうわけじゃないけどさ・・・」
ただ、そういったそぶりを一度も見たことが無かったから。そう言うと悟は頭を掻きながら言った。
「そう言うゆーみんはどうなんだよ?」
「あ、あたし!?」
どうしよう。素直にいると言ってしまった方がいいのか、それともいないと答えた方がいいのだろうか。
「あ、あたしはさ、まだそういうのわかんないかなーって」
結局ごまかすことにした。なんと臆病なのだろう。
すると悟はいつになく真剣な顔で私の方を向き直った。
「俺は」
ドキッとする。
「ゆーみんのこと、好きだよ」
ナンテイッタ?
「え!?」
「俺はずっと前からゆーみんのことが好きだ」
好き?誰が?悟が?誰を?私を?
頭の整理が追いつかない。
「ど、どうして!?」
私が聞くと、悟は頭を掻きながらゆっくりと話し始めた。
「4、5年ぐらい前かなぁ。ゆーみんがさ、中学の体育館のとこで泣いてたことがあったじゃん」
4、5年前、体育館?
・・・もしかして。
◇
中学生になったばかりの私は、友達に誘われるままにバレー部に入部していた。最初は運動すれば背が伸びるからという友達の言葉に釣られた私だったが、ひと月も経つころにはすっかりバレーにのめりこむようになっていた。
バレーを始めて数ヶ月、3年生の先輩たちが引退し私たちはレギュラーとベンチ入りを目指して毎日練習していた。
中学から始めたといってももともと運動神経に自信のあった私はそれなりにやれていたと思う。しかしレギュラー発表の日、私はベンチにすら入れなかった。原因は身長だ。
バレーというスポーツは基本的に身長が高いほうが有利なスポーツだ。先輩や同級生たちもみんな身長が160センチを超えていて、143センチの私にとっては厳しい状況だったのは確かだった。
しかし女性としての平均身長を下回る選手でも日本代表になれた選手もいる。そう思って毎日バレーに明け暮れていた。
そんなある日、バレー部の顧問の先生がキャプテンと話をしているのを偶然聞いてしまったのだ。
「弓長は身長が足りない。あれではベンチに入れるわけにはいかない」
それからのことはよく覚えていない。気がついたら体育館の裏の階段に座っていて、涙が止まらないことにも気付かないままぼんやりとしていたのだ。
そんなときだ。悟が声をかけてきたのは。
「愛ちゃん、どうしたの?」
そういえばまだ愛ちゃんって呼ばれていたんだっけ。入学したときは私と同じぐらいだったのに、いつの間にか私よりずっと大きくなっていた悟がこちらを見下ろしていた。
「・・・ほっといて」
放っておいて欲しい。そう言ったのに悟は私の隣に腰掛けてきた。
「無理だよ。愛ちゃんつらそうだもん」
心配そうに言う悟のほうを向けないまま私はひざを抱えた。二人とも何も言わないままどれだけの時間がたっただろうか。
何も言わないで隣に座ったままの悟にいい加減いらいらしていた私は顔を上げた。それと同時に悟が立ち上がり言ったのだ。
「愛ちゃんはすごくがんばってるよ」
がんばってる。でも私はレギュラーにはなれなかった。ベンチにすら入れなかった。
「わかったようなこと言わないで!」
思わず大きな声を出していた。悟は一瞬驚いたような顔をしたがすぐ落ち着いて続けた。
「わかるよ。いつも一生懸命だった。僕はずっと愛ちゃんのこと見てきたつもりだったけどあんなに真剣にがんばってる愛ちゃんは見たことがなかったんだ」
だからわかるんだ。
そう言って微笑んだ悟の顔は私も見たことがないぐらい優しい笑顔だった。
「だから、泣かないで。愛ちゃんはがんばってる。絶対レギュラーになれるから」
そう言って私の頭を撫でてくれた。その手のひらが私の知ってる悟のものより大きくて、私の知ってる悟のままのぬくもりで。
それからだ。気がつけば悟のことを目で追うようになっていった。
悟はどんどん背が伸びて、いつの間にか自分のことを俺って言うようになって、私のことをゆーみんって呼ぶようになって。
どんどん生意気になって、太陽みたいな顔で笑うようになって。
すごく魅力的な男の子になった。
◇
「あの時、泣いてるゆーみん見て思ったんだ。守ってあげたいって。」
悟が照れくさそうに笑う。
そっか、あの日初めて恋をしたのは私だけじゃなかったんだ。
「気付いたらさ、ずっと目で追いかけてたんだ。すぐに好きだって気付いたよ」
首筋を触るのは、悟が照れているときのクセだ。
「でもそう思ったらうまいこと接することができなくてさ、怒らせてばかりでごめんな」
「ううん」
首を振って悟の言葉を否定する。
「ずっと意地悪してきてごめんな。俺、ゆーみんのこと好きだ。だから」
悟が言い切る前に悟るに抱きつく。
「・・・も」
「も?」
悟るの胸に顔をうずめたまま続ける。こんな顔見せられない。
「ゆ、ゆーみん」
この後に及んでゆーみんか。悟の胸板をトン、と叩く。
「二人きりのときは愛って呼んで」
もう一度トン、と叩く。
「頭を撫でるときはもっと優しくして」
トン。
「・・・私だけ好きでいて」
「・・・うん、わかった、愛」
悟が私の肩を掴んでわずかに離す。顔を見上げると真っ赤な悟の顔が今までで一番近いところにある。
私は、目を瞑った。
◇
「うまくいったかなぁ・・・」
「落ち着きなさいな。なるようになるわよ」
落ち着かない様子の夫をなだめる。自分でけしかけておいてこの調子とは情けない限りだ。
「でも、君が昔のことを愛に話すなんてね」
「そりゃあ可愛い娘のためだもの」
愛しい愛しいわが娘だ。やれるだけのことをやってあげたいのは親心というものだろう。
「ま、顛末まで全部言わないのは君らしいけどね」
「うふふ」
パチリ、と夫に向けてウインクする。
願わくば、娘の初恋がうまくいきますように。これからどうなるかはわからないけれど、どんな結果になっても暖かく見守ろう。
あの子は私と、今は夫となったこの幼馴染との娘なのだから。