(4)そして先輩がやってきた
「おい、おまえ」
小野寺君の背中を見送ってから、玄関の鍵をあけたところで、忘れもしない人の声がして、それはもう、腰が抜けるほどびっくりした。
「先輩!」
咄嗟につかまえようとして腕を伸ばし、でもあっさりと避けられて、わたしの腕は空をきった。
「おい、おまえ。今まで、どっかの男に送ってもらってたんだろう」
「会っていきなりそれですか。先輩には一切、関係ないですよね?」
「まあ、そうといえばそうかもしれない。だがしかし、おまえ世間知らずだし、いろいろ忠告してあげよう」
「先輩、自分は世間知らずじゃないと思ってたんですか」
「まあ聞け。この世の男はすべからく全員、下劣な生き物だ」
おまえもな。
「家まで送るの、何か買ってやるの、飯をおごるのといったって、考えることはただ一つだ」
いっそ先輩がそうだったら、どれだけわたしは救われたことか。
「だいたいおまえは何だよ、ふらふらふらふらして、もっとしっかり毎日を生きろ」
「そのことば、そっくりそのままお返しします。結局何が言いたいんですか」
「いや結局ってそんな・・・つまり」
「つまり、何なんですか」
「つまり、愛というのは、執着なんだよ」
「・・・黙ってください」
わたしは思わず、手に持っていた鍵を投げつけた。
そしてその日から先輩は、この古いアパートにしばらくの間、いつくことになる。
次の日。天気は晴れ。
バイトが終わってアパートにたどりつくと、わたしは自分に言い聞かせた。
さすがにもう、先輩はいないだろう。いなくて当然なんだから、いなくてもがっかりする必要なんてない。だいたい昨日だって、言いたいことだけ言って後は知らんぷり、一体あの人はなんなのだ。
玄関の鍵をあけて中に入ると、先輩はその日も、いた。
「おまえ遅いぞ。いったいどれだけバイトすれば気が済むんだ」
「だから一切、先輩には関係ないことですよね」
「学生の本分は勉学。そう誰かが教えてくれなかったのか」
「わたし、お金がないんです。知ってますよね、成績的にも家計的にも、無理してこの大学入ったこと」
「や、それはそうかもしれないけど・・・」
「で、先輩いったい何しに来たんですか」
「だからそれは、世間知らずなおまえに、男や愛と言うものの実体を教えてあげようかと。ついでに学生の本分についての講義も追加しよう」
次の日も、その次の日も。夜バイトから帰ってきて、恐る恐るドアを開けると、先輩がいた。おかえり、なんて言ってくれるようにもなった。
あのどどめ色の日々はなんだったのか。
しかしだからといって、関係が進展するようなことは一切まったくなかった。あくまで先輩と後輩。説教する人と、される人。まあ後者の関係は逆転することもままあるが。
部屋にまで押しかけてくるくせに、手も握れないのだ、この人は。
それでも、出ていけと言えるかというと、言えない。でもずっとこのままでいられるわけがない。さすがにこのことは、美奈にも相談できなかった。
「はいはい、よく聞け。つまり好きだ、惚れたと言ったって、そんなの何の意味もない」
言ってみてから、ほざきなさい。
「愛は惜しみなく奪う、と有島武郎もいっている」
「愛は惜しみなく与う、というトルストイのことばがあっての有島です」
文学部なめんな。成績は多分ギリギリだけど。
「いいから聞いとけ。愛は目に見えないから皆、幻想を抱く。しかし結局、愛とは醜いものなんだ」
「愛は行動を伴うもの、というのもありますよね。マザー・テレサですけど。先輩は行動したこと、ありますか? ありませんよね。わたし、勘違いしてますか? してませんよね。何か言うこと、ありますか」
「・・・ない」
これは先輩の「愛とは攻撃」に備え、バイトの前に調べておいたもの。
どどめ色の日々より以前は、とうとうとしゃべる先輩のことばをただ聞いていることも多かったのに、反論ばかりがうまくなって、どんどん可愛くない女になっていく。
責任とってくださいよ、ほんとに。