(9)あれから一年
もうすぐわたしの誕生日がやってくる。わたしの誕生日ということは、・・・まあ、そういうことだ。
去年の今ぐらいまでの約三年間、わたしは意気地無しで弱虫で卑怯なある人が大好きだった。ことばにするのも照れくさいが、いわゆる初恋というやつだった。初恋というやつ特有の不器用さは全開であったが、同じく特有の甘酸っぱさの方面は皆無だった。
それというのも、自分の感情に気付いたのと失恋したと思ったのがほぼ同時、それに自分の後ろ向きの性格やらその人のぬらりひょん的性格やらがひっ絡まって、胸の中はつつけばマイナスの感情が飛び出してくる、という状態だったから。
結論としては、意気地無しで弱虫で卑怯だったのはわたしでした、というパターンに収まって、その人、例の先輩は、ヘンな人ではあったけど、とても優しい人だった。
先輩は、今でもこんな風にときどき顔を出す。もちろん物理的(あの現象を物理的といったら科学者に怒られそうだが)な意味ではなく、ふと思い出す、ということで、わたしは無理にそれをやめようとは思っていない。逆に思い出さなくなったとしても、それはそれでいいと思っている。
こういう心境になれたのは、最後に押しかけてきてくれた先輩本人と、現在みどりのぶどう像の前でブスっとした顔をしてしゃがみこんでいるこの人のおかげだ。
そういうわけで、現在わたしは、明るく楽しい恋愛を模索中である。
「たいへん申し訳ありませんでした」
模索中であるのに、なぜわたしが謝っているかというと、バイトのシフトを勘違いしていて、待ち合わせに一時間も遅刻したからである。
「ううん。どうやって償ってくれるのか考えてたら、楽しくなってきたよ」
「つぐなう、じゃなくて、正しい日本語は、うめあわせる、とかだよね。今日の食事代はもちろんわたしが出しましょう」
それには答えず、しゃがんだままで片手を突き出す。しようがないから、両手で引っ張って立たせた。
小野寺君は立ちあがるとわたしの顔を覗きこみ、「ふふん」みたいに頷いて言う。
「手を引っ張るとき、一瞬ためらった顔がかわいかったから許す」
「はあ、そうですか」
「かわいい」に類する褒め言葉を、誰かれ構わず湯水のように垂れ流す人、それが小野寺君だ。
もしも、例の先輩が「かわいい」なんて言ったりしたら、それは宝くじの一等賞、までいかなくても、前後賞くらいの価値はあったはずだが、この人のは十枚買えば必ず一枚含まれている当たり、程度にしか価値はない。
しかしこの人は現在、わたしにとって、この世で一番親しい異性であり、わたしの好きな人でもある。
そう、好きなのだ。他の人を好きになるなんて、考えられなかった時期もあったけど。
あの頃は、好きな相手がほかの人のことを見ていると思うと、まっ黒な気持ちになった。
今は相手が同じようにわたしを好きではなくても、まあそれはそれ、と思う。わたしも成長したものである。
これを美奈に言ったら、そーいうのは好きって言わないんじゃないの、と言われてしまったが、いや違う。断言する。わたしはこの人が好きだ。
そこから先のことばかり考えていると、わたしは人並み以上にまっ黒になれる素質がある、ということをしっかり学ばせてもらった結果、こうなった。まあ、我ながら、こういう極端なところは変わってないと認めよう。
「ボケっとした顔して何かんがえてるの?」
横を歩く小野寺君が聞く。ただ隣りを歩いているだけのことが、ひそかに嬉しい。
「わたしこの人好きだな、と思ってた」
見上げて答えると、ぷいっと顔をそらされた。
梅雨のおわりが近づいた、中途半端なくもり空。その空を見上げるように、そらされたままの小野寺君の顔が戻って来ない。さすがにちょっと不安になってきたところに、後頭部をぺしっとたたかれた。
さてこの小野寺君、出会った当初の印象とは、若干異なる人だった。それが嫌かと問われれば、嫌ではなくて、むしろ逆。好きだから嫌じゃないのか、嫌じゃないから好きなのか、そこのところは謎である。
まあ、基本的には人当たりがよく、誰にでも優しい人だ。でもその反動なのか、慣れてくると、それ以外の印象も強くなってくる。
出会った当初は、例の先輩と比較して、欠点のない人みたいに思ってた。たとえば、今日みたいに、待ち合わせの相手が一時間も遅れたような場合。微笑んで「ゼンゼンマッテナカッタヨ」的な対応をするか、現実的なところで、文句は言わずにその旨メールしてスマートに帰る、そういう態度をとる人かと思っていた。
実際のところは、メールを入れたりして帰るのもめんどくさい、だからそのまま待っている、という人だった。
多分、人から嫌われたりするのもめんどくさいのだろう。
欠点がない人だなんて、勝手に決めつけてた頃は何とも思ってなかったのに、いつの間にこんな気持ちになったのか、とまた隣りの人の顔を見上げた。
「また心があの世に飛んでた?」
「そうでもない。考えてたのは、ほとんどこの世のことだよ」
「ふうん。それにしては随分、あっさりついてきたんだね」
うだうだ考えながら歩いているうちに着いたのは、どうやら小野寺君の部屋の前らしい。
「一時間も待たされた僕がわざわざコーヒー入れてあげるから。いやもう、ほんと疲れた」
そういえばこの人も、嫌味を言ったりするときなんかは、非常に口達者だ。わたしはそういう人に魅かれるたちなのか。
「それはありがとう。でも食事どうするの?」
そもそも今日は、ちょっと散歩でもしてから早目の夕食を一緒にとろうと約束していたのだ。
「・・・」
こういうところに住んでいるんだと思いながら、ドアの前でキョロキョロしていたら、小野寺君があきれた顔で紙袋を掲げて見せた。
そうだった。新しくできたサンドイッチ専門店で、食べるものを買ったんだった。グラハムブレッドにこれでもかというくらい、野菜だのチキンだのを挟み込んだ、かなり大口を開けてかぶりついても、きれいに食べるのは難しい類の。
そうか、これを小野寺君の前で食べるのか。ボロボロこぼしながら。ちょっと恥ずかしいと思ったわたしは恋するオトメ?・・・うはははは、自分で考えといて気持ち悪いわ。
ニヤニヤしていたところで、小野寺君と目があった。
「ほんと、あの人に同情せずにいられないよ」
あの人というのは、例の先輩のことだろう。わたしは自分で思い出すのは平気だが、人からこんな形で言われると、ちょっとやだ、というか、ちくっとする感じがしてしまう。
でもこういう感情は、自分でも勝手だと分かってはいる。