5話
サヴィーナ第一王女ルクレティア=クィンティリウス=レアンディと、リュデュキオ公爵ルーナルティア=ディオクレス=レアンディはかつて正式な許婚であった。今から十年近く昔の話である。ともにふたりの父親が健在であった、思えば平穏な時間のことだった。
二人はいとこの関係にあった。というのも、ルーナルティア=ディオクレスの父親はリュデュキオ王弟公爵、つまり王の弟であったからだ。王弟公爵は、ふたりの王子とひとりの王女の次に高い、王位継承権を持っていた。
リュデュキオ王弟公には娘があり、これは第二王子と婚約していた。つまりリュデュキオ公爵家は、王家と二重の縁戚関係を結んでいたのだ。
これらの関係が壊れたのは、リュデュキオ王弟公に謀反の『疑い』が掛かったその瞬間であった。
どこの国でも事情は同じだ。謀反は大罪であり、たとえ王族といえども、恩赦はない。リュデュキオ王弟公にかけられたのは、あくまで“疑い”であった。が、王弟公は処刑された。かろうじてリュデュキオ公爵家は存続を許され、当時十歳にもならなかったルーナルティア=ディオクレスが公爵位をついだ。
このことで、リュデュキオ公爵家と王家との間に結ばれた二重の婚約は白紙に戻された。第二王子と公爵令嬢は、黙ってそれを受け入れた―――心中どのような感情を抱いていたにせよ。だが、王女とルーナルティア=ディオクレスの場合は、事情が違った。当事者のひとりである王女が、それをよしとしなかったのである。
王女ルクレティアは心の底からルーナルティア=ディオクレスを愛していた。ゆえに、彼女は未だに婚約の有効性を主張し、父王も兄王もそれを認めていた。このため宮廷内には、わずかな緊張がもたらされている。
「ルーン!」
部屋に入るなり、ルクレティアは自身の婚約者に抱き付いた。あまりにその勢いが強かったため、ルーナルティア=ディオクレスはたたらを踏んだ。しかし、彼はきちんとルクレティアを抱きとめた。
ルーナルティア=ディオクレスは、ルクレティアよりゆうに頭一つは高い位置から、彼女に微笑する。その疑いなき美貌に、ルクレティアは疲労の影を見つけた。ハッと表情を変えて、抱き付いた腕の力を緩める。
「ごめんなさい、ルーン」
彼は疲れているはずだ。未だに兄たちは戻らなかったが、彼だけが先に城へ帰ってきた。兄たちに何が起きているのか、ルクレティアはいまだに真相を知らなかった。けれど、彼女はそのことを、婚約者に訊こうとは思わなかった。
ただ、時間が惜しい。離れていただけの時間は、どうあっても取り戻せない。
「―――ルクレティア。すまないが、私は、まだすべてのことが終わっていない。あまり長く話もできない」
彼にしては長い言葉だった。ルーナルティア=ディオクレスの声は耳によい。それはいつもルクレティアが思っていることだったし、彼に好意的ではない城の人間でも、認めざるを得ない事実だった。
「無理を言ったのはわたしの方よ。でも、会えただけで嬉しい…」
言葉は中途で打ち切られた。強く抱き締められたルクレティアは、驚き目をまるくした。
「悪かった」
彼は言った。何が、とはルクレティアは訊けなかった。
ただ、彼女は黙って、その肌の熱を感じていた。