2話
暗い部屋、じっとりと湿った空気を吸い込み、セイデン公爵シャーロックは懐の火打ち石を取り出した。カチカチとそれをもてあそんだあと、手持ち燭台にみごと明かりをともす。だが、揺らぐ炎はひどく頼りなげで、頭を垂れているようだった。
シャーロックは、階段を降り、やがて現われた扉の一つを開けた。その部屋に入った途端、異様な熱気が彼を迎える。
「………」
燭台を床に置き、シャーロックは“それ”を見遣った。“それ”は、シャーロックと同じ生き物であった。彼はその人間―――もはやそれは、人間には見えなかったが―――の顔を眺めた。泥のように付着した血は黒ずみ、泥のように凝固し、こびりついている。傷という傷が全身にあり、口を開けている。とても、それが自分と同じ人間であるとは、思えなかった。
まだ、生きているのだろうか。シャーロックは思った。身じろぎもしないその人間を覗き込む。だが、表情はうかがえない。
よく見ると、その体はわずかにではあったが、上下している。生きている。まだ、死んでいない。
「―――シャーロック?」
声をかけられて、シャーロックは初めて先客の存在を知った。彼の今し方入ってきた扉のとなり、壁に寄り掛かった男がいた。
「お前か? シャーロック」
シャーロックは後ろを振り返った。
「ティエアル様」
「それ、生きているのか?」
ティエアル公爵デューカセリオ―――デュクスは小さくつぶやいて、シャーロックの隣りに並んだ。
「どうなんだ」
「生きていますよ」
シャーロックは答える。今は、とは言わずにおいた。それはデュクスとて分かっている。
「なかなかしぶといな」
「若いですから」
足元を見下ろし、シャーロックは言う。“それ”とほとんど同じ年頃のデュクスは、何も言わない。
「しかしこうなっては、王家の血も関係ない」
「確かにな。だが、これも一応は俺の親戚だ」
言って、デュクスは軽く“それ”を爪先でつつく。
「人間、こうもボロボロになるもんだな」
シャーロックは足元をもう一度見た。
これが、人間の姿だろうか。拷問の爪痕ばかりが目に付く。彼の元の姿は、どんなだっただろう。凄惨な今の印象が強くて、それは思い出せなかった。
肩に大罪人の証、左胸に、謀反人の証として王家の紋章の焼き印をおされたあとが生々しい。よくしなる若木の鞭でたたかれた上体のあちこちが出血し、短剣でえぐられ、火鏝を押し付けたために皮膚が破れちぎれている。それとは別に、背から腰にかけて皮膚を一部、剥がされている。左手の指はすべて折られている。右手の指は、爪が全部剥がされていた。
「――――デュクス!」
ふいに足音が騒音をもたらした。シャーロックは顔を上げたが、デュクスは意識を向けるそぶりを見せなかった。
「リュクレクス様」
「セイデンか」
暗闇にも明らかな銀の髪が―――それを持つのは彼だけではなかったが―――頭をめぐらせた拍子にきらきらと輝く。声は不機嫌そうで、地下牢に低く響いた。リュクレクス公爵エルクレオンは、床の“それ”を見つけ、吐き捨てるように言った。
「……まだ生きていたのか」
嫌悪感を隠そうともせず、堕ち王章の焼き印刻まれた肩を踏みにじる。途端、黒ずんだ赤に汚れた“それ”が、ばちっと目を開いた。
「っつ――――――、ぅ」
「やめろクレオン、堕ち王章とはいえ王家の印章だ。足蹴にするな」
「デュクス」
クレオンはしばしデュクスを見ていたが、やがて視線を自身の足元に戻し、ぼろ切れのような人体から足をどかした。
「ディオクレス」
デュクスが言った。呼ばれたリュデュキオ公爵ルーナルティア=ディオクレスは、彼を見上げる。
血やら何やらで汚れてはいたものの、ディオクレスの顔に傷はなかった。意図してその箇所だけ、拷問を避けたのだろう。デュクスには何やら考えがあるようだった。
「調子はどうだ?」
「……最…高、だ」
「貴様!!」
激昂したクレオンが、彼―――ディオクレスの腹を蹴る。皮膚のないそこは肉がそのまま覗いていたから、クレオンの靴にはべたりとした血が飽きるほど付着した。
「クレオン」
うんざりしたようにデュクスが言う。
「下手をしなくても死ぬぞ」
「ならば今殺してやる!」
剣に手を掛ける。それを、デュクスとシャーロックのどちらも、制止しようとはしなかった。
「殺すのはあっという間ですよ」
シャーロックはそう言った。そんな彼に、いらだたしげな瞳をクレオンは向ける。
「それがどうした」
「仮にも公爵家の当主、それも王位継承権保持者を殺して、それが露顕せぬとでも?」
「……」
クレオンは、黙った。認めたくは無いが、シャーロックの言ったことが正しいと、認めざるを得ないのだ。
「このリュデュキオ公爵を殺したことが、正当な理由によるものであることを証明するのなら」
シャーロックは続けた。この異国人の、蒼の瞳が暗がりにきらめく。
「陛下の死を隠し通すことは、まず不可能でしょう」
今から十と一日前のことである。この国の王が殺された。王の弟も重傷を負い、いまだ意識が戻らない。
事態が事態であるため、そのことは深く秘された。一部の者にしか知らされていない。まして、その犯人の正体を―――王殺しという大罪を犯したのは誰かを知っているのは―――いまこの狭い部屋にいる、四人のみであった。
「仕方ないな」
デュクスは言って、上着の裾が汚れるのも構わず、先ほど自身が呼んだ名を、もう一度口にした。
「ディオクレス、まだ死んでないな?」
「ああ……ざんねん、だったな」
「何か弁解があるなら聞くぞ。それ以外のことも」
ディオクレスと呼ばれた男は、何か言いたそうに少しデュクスを見詰めていたが―――やがて瞳を閉じた。
「ない」
「だそうだ、クレオン。分かったか?」
「不本意だが」
デュクスは背筋をのばし、片足を床に打ち付けた。
「もう戻ろう」