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眉目清秀な劇団座長は、宿屋の平凡娘になぜか弱い。  作者: ゆずまめ鯉


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八.偽りの結納

 月影座の追加公演も連日盛況の上、楓流軒の客入りも九割以上と、春鶯は忙しいながらも充実した夏を過ごしていた。易者として働く央央の売り上げも、帝都に押し寄せる人々が増えていることから、上々のようだ。


「春鶯? ちょっとこっちに来て、これを見て頂戴」


 楓流軒の石畳を掃き清めていた春鶯を、珍しく趙嬌が呼んだ。嫌な予感がする。できることなら聞こえないふりをしてやり過ごしたい。しかし、身近で暮らしている以上、避けて通ることはできないと諦め、大人しく趙嬌のもとへ向かった。


「なにか御用ですか? 趙夫人」


 春鶯は、できる限り平静を装って尋ねた。


「この三枚の中から選ぶなら、どれがいいかしら?」


 趙嬌は、手に持った三枚の紙を春鶯に見せた。


「……これは、一体……」


 継母が手にしているものがなんなのか。すぐに理解できた。けれど、認めたくはなかった。


「見てわからないの? 庚帖(こうじょう)に決まってるじゃない」


 趙嬌が手にしていたのは、庚帖──釣書(つりがき)だった。結婚相手を探している男の氏名、生年月日、干支、本拠地、祖先三代までの情報が記されている書状だ。どうして趙嬌がこれを持っているのか。嫌な予感が的中してしまった。


「知り合いに適齢の殿方がいないか、私が聞き回ってあげたのよ? あなたも、もう十九だし、すぐにでも結婚するべきよ!」


 本来、釣書は一方的に受け取るものではなく、相手と交換するものだ。つまり趙嬌は、春鶯の釣書も勝手に作成し、三人の男に渡していることになる。


 春鶯が趙嬌の手元をよく見ると、差し出された釣書の男たちは、いずれも家庭環境や性格に問題を抱え、周囲から敬遠されている人物ばかりだった。そんな相手と結婚するなんて、絶対に嫌だ。


「そんな……どうして勝手に決めるんですか!?」

「勝手じゃないわ。十九にもなって家にいるあなたの方が異常なのよ。恥ずかしいったらないわ」


 趙嬌は、春鶯の気持ちなどお構いなしに言い放った。


「で、ですが、私は楓流軒を継ぐつもりで……!」


 春鶯は必死に訴えた。曾祖父の代から続く楓流軒を守るためには、自分が継ぐしかない。そのつもりで生きてきた。幼い頃から、外で遊びたいのを我慢して、何年も何年も手伝ってきた。ひとえに、様々な地域から訪れる人々と、交流できる楓流軒が好きで、ここまで頑張ってこられたのだ。


「はあ? あなた、なに言っているの? 宿屋を継ぐのは、長男の阿眠(アーミン)に決まってるじゃない!」


 趙嬌は、春鶯の言葉を鼻で笑った。春鶯は、趙嬌が友人に吹聴していた、「この宿屋は私のものになるのよ♪」という妄言を、本気にしていなかった。それは、肝心の趙眠が、宿屋の仕事を馬鹿にしていたからだ。いくら母親の趙嬌が息子に継がせようとしても、本人は嫌がるだろうと思っていたのだ。

 春鶯たちの父親とはいずれ離縁をして、金持ちの相手を捕まえるための踏み台にしていると疑っていた。好条件の相手が現れたら、乗り換えると踏んでいた。


「で、でも趙公子は継がないって言ってましたよね?」


 わずかな希望を託して尋ねた。確かに言っていた。こんな宿屋を継ぐつもりはない。俺はもっと偉大な男になるんだ──と。


「そんなもの、いくらでも丸め込めるわ。あの子は私の言うことには逆らわないもの」


 趙眠の意思などまったく考慮していないと、平然と言い放った。父親は、押しに弱く頼りにならないため当てにできない。どうすれば楓流軒を守れるのか。

 趙眠を説得しようにも、おだてられれば簡単に乗せられてしまう性格だ。趙嬌が上手く懐柔してしまうかもしれない。


「ともかく、一週間以内にどの家に嫁ぐか決めておきなさいよ? まぁ、向こうから断られる可能性もありそうだけどね。結婚するなら十九の姉より、十四の妹がいいってごねていたから」


 趙嬌は、意地の悪い笑みを浮かべながら言い放った。


「阿央を結婚させるなら、趙美小姐(お嬢さん)もいるじゃないですか!」


 春鶯は思わず口走った。妹を問題のある家へ嫁がせるわけにはいかない。


「そうよ。でも、行き遅れのあなたを先に嫁がせないと、世間体が気になるからさっさと結婚して、家から出て行きなさい」


 冷たく突き放された。近頃、趙嬌が大人しかったのはこのためだったのかと、春鶯は落胆する。


「……少し、考えさせてください」

「ふん。生意気ね!」


 釣書を押しつけられたので仕方なく受け取る。たとえ三人全員から断られたとしても、趙嬌は諦めないだろう。あの手この手で新たに結婚相手を探し出し、春鶯がこの家から嫁いで出ていくまで、追い出そうとするに違いない。


(……一体どうしたらいいの……?)


 普段は冷静沈着な春鶯も、今回ばかりは解決策がまったく浮かばなかった。まるで、巨大な壁が目の前にそびえ立っているかのように、八方塞がりの状況だ。

 押しつけられた釣書は、一先ず柜台の上に放置し、掃き掃除をしながら必死に思考を巡らせる。


(……婚礼を回避するには、家出するしかないわ……。でも、そうすると、今度は残された阿央が、酷い目に遭うかもしれない……)


 様々な可能性を考慮した結果、春鶯は逃げたくても逃げられないことを悟ってしまった。この家に自分がいなければ、母親の忘れ形見である、大切な妹を守ってあげられない。妹が、他でもない義理の家族から苦しめられるなど、姉として耐えられるはずがない。箒を持つ手に力を込め、自らを奮い立たせた。


(……何度釣書を持参されたって、向こうから断るように仕向ければいいのよ)


 自分の評判はどうでもいい。福来に頼み込み、嫁げば不幸が訪れる、などの悪い噂を流してもらう。有名な易者に金を積み、生まれた日時が不吉だと偽証してもらえば、縁起を気にする家が大半を占めるので遠ざけようとするだろう。そのうち男側の親族から門前払いされるようになる。

 楓流軒と妹を守るためならば、できることならなんだってやるつもりだ。

 そして趙嬌が央央を嫁がせようと企む前に、なんとしてでも春鶯の手で良縁を結ばせたい。

 何度も何度も同じ場所を掃いているので、もう石畳にごみは落ちていない。上の空すぎて、央央が帰宅していることにも気づかなかった。


「ねえ、そんなに暗い顔をしてどうしたの?」


 妹の心配そうな声に、春鶯はハッとして顔をあげた。


「……なんでもないわ!」


 心配かけさせまいと、精一杯明るい笑顔を向けたつもりだったが、ぎこちなくなってしまったらしく、眉根を寄せた央央は悲しそうな表情を浮かべた。


「なんでもないわけないじゃん!」

「阿央……」

「原因はなに? それ?」


 無意識のうちに、店先にある柜台に視線を向けてしまったのか、央央は無造作に置かれていた釣書に気がついた。春鶯が静止する間もなく、中身を開いた央央は、みるみるうちに顔色を曇らせ、怒りをあらわにした。


「これ、誰が持ってきたの? というか、ここにあるってことは、この三人の家にも、姉さんのものがあるってことだよね?」

「……」


 央央の鋭い視線に射抜かれ、春鶯はなにも言い返すことができなかった。肯定とも否定とも取れない春鶯の曖昧な態度を見て、央央は小さな溜め息を吐く。


「趙夫人め……!」


 聡い央央は、誰がこんなことを仕組んだのか瞬時に見抜いてしまった。央央は釣書を三枚まとめて柜台に叩き、力強く宣言する。


「ここで待ってて。私がなんとかするから!」

「えっ!? ちょっと待って阿央、なにをする気なの!?」

「行ってくる!」


 一度決めたら誰にも止められない央央は、帰宅したばかりだというのに、脱兎のごとく家を飛び出してしまった。妹が一体なにを考えているのか。央央の背中を見送りながら、これからなにが起こるのだろうかと、不安と期待が入り混じった複雑な感情を抱いていた。

 そして、それほど経たずして、央央は夜公演の稽古をしているはずの楚月を伴って帰って来てしまった。春鶯は予想外の展開に、目を丸くして驚いた。


「春鶯。妹君から話は聞いたよ」

「……そ、そうですか」


 楚月を連れてきて、一体どうするつもりなのか。劇団の脚本家として、月影座に所属するよう打診されるのか。それとも、誰か心当たりを紹介してくれるのだろうか。そのくらいしか考えられない。春鶯は身構える。


「返事をするのは来週なんだよね?」

「そう……ですけど、それがなにか……?」


 答えると、なぜか楚月は顔につけていた白い仮面を外した。美しい素顔が現れる。


「それなら、明日、結納品を持って楓流軒を尋ねるから、御父君に会わせてほしい」

「ゆ……結納品……? え? ど、どういうことですか?」

「俺がきみと結納を交わせば、釣書を無効にできるだろ? 先方に断りの連絡ついでに、一緒に釣書を返却しに行けばいい」

「ええええええっ!?」


 楚月は片目を閉じ、いたずらっぽい笑みを浮かべながら提案してきた。春鶯の頭の中は真っ白だ。まさか、楚月からそのような提案をされるだなんて、まったく想像していなかったので、驚きすぎて理解できない。追いつかない。夢でも見ているのだろうか。頬を抓って確認すると、痛みがあるので夢ではない。


(ど……どういうことなの!?)


 楚月と結納を交わす──ということは結婚するということだ。確かに、釣書を無効にできる方法ではある。まだお互いに交換しただけで、正式に結納を済ませていないのだから、それよりも先に結婚を決めてしまえば嫁がされることはなくなる。

 けれど、その偽装結婚する相手が、まさか楚月になるとは春鶯は動揺を隠せない。


「よかったね。そいつらと結婚しなくて済むよ」

「あ、阿央!」

「妹君が楽屋まで呼びに来てくれて、本当助かったよ」

「でしょ? 姐姐を守るには、謝公子に頼るのが一番だってわかっているからね。悔しいけど!」


 二人は、なんでもないように会話を続けている。春鶯は、まだ言われていることが信じられないというのに、だ。

 楚月との結婚は、春鶯にとっては願ってもない幸運だ。性格は温和で素行よし、見た目もよし、金払いもよし、なにより大事なのは、妹を大切に扱ってくれる点だ。

 でも、楚月にとっての自分はどうだろう。宿屋の平凡娘で学力も財もなく、外見も父親似だ。利点が一つだけあるとすれば、お喋り好きという面だけだろう。春鶯は自分に自信が持てない。


「あ、あの、謝公子には、許嫁がいらっしゃるのでは?」


 実家がどこにあるのかは聞いていないが、劇団の座長をしているからといって、相手がいないとは限らない。この見た目なら、一人や二人いても不思議ではない。


「いや、いないよ? 俺は次男だし、実家からは勘当されているから問題ない。それより、春鶯は俺でもいい?」

「私には勿体ないですよ!」


 不安そうに問いかけられ、春鶯はすぐさま声をあげて反論した。楚月を嫌だという人間は、この世のどこを探してもいない気がする。柔和な雰囲気と、優しさと、収入も絶大にある美男子を振る人間がいるのなら、どこにいるのか教えてほしい。


「そんなことはないよ。君は誰よりも魅力的だ。料理が上手いし、頑張り屋だし、家族を大事にしているし、それから──」

「え、ええと……、あの」

「あのさー、そういうのは二人のときにやってくれない? 話が進まないから!」


 どさくさに紛れて口説かれてしまい、戸惑っていると、すかさず央央から突っ込みが入った。楚月は噴き出しながら話題を変えた。


「御父君は何時頃、時間が取れる?」

「お父さんは夜勤中心だから、夕方に起床するよ」

「わかった。では明日、夜公演の前に、結納品を持って顔を出す。それでいいね?」

「え……、うう……あの」

「姐姐。ここで頷かないと、ろくでもない男と結婚させられちゃうよ? それでもいいの?」

「死んでも嫌よ!!」

「でしょ? それなら、謝公子にしときなって。色んな意味で将来安泰でしょ?」

「もう、阿央ったら、なんてことをいうの……」


 妹の言葉に呆れていると、そんなやり取りを穏やかに聞いていた楚月が口を開く。


「春鶯の支度は妹君に任せる」

「うん。姉さんを、うんとおめかしさせて待ってるからね!」


 央央が張り切って答えると、今度はまた春鶯に向かって話しかけた。


「今夜は遅くなるから、俺を待たずに先に寝ていてほしい」

「……わかりました」


 小さく頷き返事をした春鶯に、すぐ隣にいる央央は、これ見よがしに揶揄してくる。


「あれー? なんか、さっそく夫婦っぽい会話に聞こえなーい? まだ結納も交わしてないのに、おかしいなー?」

「阿央!」

「ハハ。それでは、行ってくる」

「……気をつけて」


 また口元に笑みを浮かべている央央に肘で突っつかれたので、春鶯は知らんぷりした。成り行きとはいえ、まさか楚月と結納を交わすことになるなんて、絶望から一変するのが早すぎて未だに信じられない。

 立ち去る背中を見送ってから、春鶯は申し訳なさそうに口を開く。


「……阿央が好いている相手なのに、私と偽装結婚することになっちゃって、ごめんね」


 央央としては面白くないはずだ。楚月と言い争えるほど仲がいいのに、そんな相手と偽りとはいえ結納を交わすのが、他でもない姉ともなると胸中複雑に違いない。罪悪感に苛まれそうになっていると、央央は、不思議そうに大きな目をぱちぱちと瞬かせた。


「へ? 誰が、誰を好いてるって?」

「阿央の意中の相手は、謝公子よね?」


 とうとう本人に聞いてしまった。まだ言うつもりはなかったのに、今回ばかりはやむを得ない。

 ところが、央央の反応は想像とはまったく異なっていた。


「はあああああ? なんで? ねえ、なんでそうなってるの!?」


 央央は心底嫌そうに叫んでいる。一体どういうことなのか。


「あら、違うの?」

「私が気になっているのは琳哥哥だけど?」

「えっ!? そうなの!?」


 今度は春鶯が驚く番だった。晋高のことを、兄のように慕って甘えていることには薄々気づいていたが、まさかそれが恋心だったとは、姉だというのに妹の想いを見抜けなかった。


「ねえ……本気で言ってる? さすがに鈍すぎない? 私、結構態度に出していたと思うよ? 手相を見たり、食べさせてもらったり、色々してたじゃない。わざと寝たふりをして、家まで運んでもらってたでしょ」

「え、あのとき、起きてたの?」

「抱き上げられたら起きちゃうよ、さすがに」


 十日以上も前に初めて観覧した、月影座の夜公演後。楽屋へお邪魔するなり春鶯が夢中になって筆を滑らせている最中、央央はうっかり寝てしまったことがあった。春鶯は、妹を起こして帰ろうとしたが、弟妹の扱いに慣れているという晋高は、起こさなくていいと抱き上げてくれたのだ。まさか起きていたとは──。


「琳公子のどこに惚れたの?」

「私たち姉妹を前にしても、一切態度を変えないところよ」


 晋高の場合は、感情を表に出すことを苦手としていると、楚月から事前に聞いていた。幼い頃から色々な人々を観察し、人相占いを得意とする央央にとっては、あまり感情を出さない、晋高のさり気ない優しさを感じ取っていたのかもしれない。


「でも、それなら謝公子も一緒でしょ?」


 しかし、態度を変えないという点ならば、楚月も該当している。外見や生業で判断することはない。秀でた才能と外見を持っていようとも、決して奢り高ぶることもない。


「そうだけど、でも、私とあの人は、いわば同志なんだよ」

「同志……?」


 聞き慣れない言葉が、十四歳の口から飛び出した。


「うん。仮面をしているのは、私と同じで外見で嫌な思いをしたことがあるからだろうし、姐姐を好いている面も一緒だから、好きとか嫌いじゃなくて、同志なんだよ。まあ、私の方がいっぱい好きだけどね?」

「す、好いてるって……一体誰が?」

「…………さすがに鈍すぎて心配になるよ」


 苦笑しながら言われてしまい、自分はそんなに鈍いのかと衝撃を受けた。

 柜台の手前に腰かけながら振り返る。央央の初恋相手だと思い込んでいた楚月とは、ただ意気投合していただけで、恋愛感情もなにもなく、本当に好いていたのは保鏢をしている八つ年上の晋高だった。春鶯が気になっていた楚月ではなかったのだ。


(……阿央の好きな人だと、遠慮しなくてもいいのね……!)


 そう考えると、高揚感が増してくる。もうすぐ夕方だというのに、今から買い物でも、町中を全力疾走でも、なんでもできるような気さえしてくる。甘く疼く心の奥に秘めていたものを、無理やり押し込めなくてもいいのだ。かかっていた雲のようなもやもやが一斉に晴れ、清々しい気持ちになった。


「今から出かけて、明日着る服を買いに行かない?」

「え、今から?」

「うん。だって結納だよ? きっと謝公子は一張羅で挨拶するはずだし、少しでも見栄えする姿で待機したくない?」


 妹からそう指摘され、春鶯は自分の所持する数少ない襖裙を思い浮かべる。宿屋で働いていることから、動きやすさ重視で買い揃えていたため、無地だし地味な色のものしかない。正月用にと少し華やかな刺繍の入ったものもあるとはいえ、冬用なので明日着用するには相応しくないだろう。


「でも、どんなものを選んだらいいか……」


 央央に買うことはあっても、数着の仕事着以外は持ってないので自信がなかった。


「私に任せてよ! 似合うのを選ぶから」

「う、うん」

「よし。お父さんにお小遣いをちょっとおねだりして、買いに行こうか!」


 逞しすぎる妹は、父親が起きるや否や厨房に駆け込み、一体何を告げたのか銀三両も受け取り、誇らしげな顔をしていた。どんな会話が繰り広げられていたのか、春鶯は知らない。使っても大丈夫なのか心配すると、問題ないというので、央央を信じて出かけることにした。




 あれよあれよという間に迎えた翌日の夕方、酉の初刻十七時。媒人役(なこうどやく)は劇団員に任せたのか、四人引き連れて楓流軒に足を踏み入れる。楚月の格好は、黒地金糸の長袍で立派に正装している。事前に説明していなかったので、春鶯の父親は驚愕していたが、婚約書と結納品を持参した相手を追い返すようなことはせず、客間に通す。

 そこで納徴(のうちょう)の儀式──結納品を並べてお互いに礼をする。父親と楚月の二人きりだ。春鶯はというと、昨夜、買いに行った淡い桃色の襦裙(じゅくん)姿で屏風の向こうで待機している。髪は一つにまとめあげ、央央は庭で摘んだばかりの一輪の夏椿を差した。母が好きだった淡い色の花が生き生きとしている。


「春鶯。来なさい」

「はい」

「本当にいいんだな?」

「……はい」


 父親に名前を呼ばれたので、春鶯は顔を出す。楚月と視線が合うなり、片目を閉じて微笑まれ、瞬間的に頬が真っ赤に染まった。苦笑した父親に、また屏風の向こうに戻るよう手で合図されたので、屏風の裏で待機する。


「では三か月後の吉日はいかがかな?」

「さすがに遠すぎます」

「それなら二か月後で」

「わかりました」


 こうして、納徴の儀式は滞りなく無事に終わった。


「姐姐、よかったね。おめでとう!」

「うん。ありがとう」


 終わったはずなのに、ドタバタと豪快な足音がだんだん近づいてくる。春鶯が音のする方に視線を向けると、髪を振り乱して大慌てといった様子で、継母である趙嬌が客間に駆け込んできた。


「ちょ、ちょっと待ったああ!」

「え、なに? なんできたの?」


 誰にも邪魔されぬよう趙嬌には打ち明けていないし、準備も秘密裏に行った。春鶯が着替えたり、髪形を整えたり、化粧を施したのはついさっき、一炷香前だ。父親にすら打ち明けなかったのは、なにかと勘のいい趙嬌に探らせないためでもある。それなのに、間に合わなかったとはいえ、結納の場に突如として現れたので、執念深さに驚きを隠せない。央央は不快そうに舌打ちをした。


「あなた、それから公子。春鶯は、庚帖を交わした殿方が複数人いる上に、とんでもない阿婆擦れで──」

「趙夫人。儀式は済んでいるので、撤回はできませんよ?」


 楚月は、満面に笑みを浮かべて趙嬌を威圧する。舞台慣れしている楚月の厳かな雰囲気に、圧倒されている。

 こんなこともあろうかと、押しつけられた釣書は、午前中のうちに返却しており、春鶯のものも回収済みだ。竈で燃やしてある。交わしたと趙嬌が主張しても、どこにも現物はないため証拠はない。


「うむ。娘子(おまえ)は、下がりなさい」

「で、でも……!」

「解散だ」


 春鶯の父親がそう告げると、趙嬌は悔しそうに地団駄を踏んだ。宿屋の仕事があるため、父親はそそくさと客間を出た、その直後。思い通りにならなかったことに対し、癇癪を起こした趙嬌は、近くにあった屏風を蹴り倒そうとしたのか距離を詰めた。


「晋高!」


 楚月が瞬時に叫ぶと、春鶯たちの背後で待機していた晋高が、春鶯と央央の腕を後ろに引っ張り、自分の背中に隠す。ここで暴れても、無意味だと思い知らせるためだ。百九十もある晋高と、そこまで背の高くない趙嬌では敵うはずもなく。


「覚えてなさい!!」


 分が悪いことを悟った趙嬌は、八つ当たりのために屏風を蹴ってから退散した。

 成り行きとはいえ、また守ってもらった央央は「ありがとね、琳哥哥♡」と可愛くお礼を告げた。晋高は無表情のまま佇んでいる。

 とんだ邪魔者が入ってしまったが、なんとか意にそぐわない相手との婚姻を回避することに成功した。ふう、と春鶯の口からは安堵の溜め息が漏れた。


阿耀(アーヤオ)


 親しみの篭った声で、初めて楚月に名前を呼ばれた。春鶯は、ゆっくりとした足取りで彼の元へ向かう。李耀という本名を、家族以外に呼ばれたのは初めてだ。小さい頃、母親がよく口にしていた。それ以来だ。懐かしさが込み上げてくる。そう言えば、以前にも、誰かに呼ばれた気がするが、春鶯はそれがどのような人物だったのか思い出せない。


「怪我はない?」

「平気です」


 見慣れない、黒地に金糸の刺繍が施された、値の張りそうな長袍を身に纏い、髪形も普段とは違って結わずに下ろしているのでドキドキする。もちろん、仮面はしておらず素顔だ。これほどまでに容姿の整った人物に、たとえ偽りだろうとも結婚しようと言ってもらえたのだから、春鶯は幸運だ。


「よかった。これを、きみに渡したくて」

「……この前の、玉佩ですか?」


 趙眠が盗み、央央か春鶯に罪を着せようとした、あの玉佩だ。


「うん。幼少の頃から、ずっと身に着けていたものなんだ」


 薄緑色をしたとても綺麗な翡翠で、春鶯の手のひらにそっと乗せてくれた。家族から与えられたものなのだろう。楚月は三年前に勘当されていると言っていた。今も、家族と会うことが許されていないのならば、この玉佩を大切にしていても不思議ではない。宿屋に忘れて慌てて取りに戻るくらいだからだ。


「そんなに大事なものなのに、私が受け取ってもいいんですか?」


 宿屋の娘が身に着けるには、分不相応ではないかと不安になる。春鶯が所持しているのは安物の簪くらいだ。玉佩は持っていない。


「大事だから、きみに持っていてほしい」


 真剣な眼差しをしている楚月に見つめられる。大事だから、きみに持っていてほしい──。春鶯の心の中に、楚月の言葉が染みわたる。


「……わかりました。お預かりします」

「ありがとう」

「お礼を言うのは私の方ですよ? 偽装とはいえ、謝公子には助けていただいたので……」

「阿耀。もうそろそろ、呼び方を変えてもいい頃合いだと思わないか? 俺たちは、仮にも結納を交わした仲だ」


 謝公子という呼び方が引っかかるのか、指摘されてしまった。春鶯は小首を傾げつつ、なんと呼べば満足してもらえるのか考える。まだ謝霜と呼ぶわけにはいかないし、謝哥哥と呼ぶ勇気も持ち合わせていない。


「それなら、ええと……楚月さん、はどうですか?」

「あー、うん。今はそれでもいいや。それでね、阿耀。今晩、公演が終わってからになるからちょっと遅くなるけど、一緒に夕餉を食べに行かないか?」

「え? ええ、かまいませんけど」

「よかった。きみのおかげで夜公演も頑張れそうだ」

「ふふ、頑張ってください?」


 くすくす笑いながらも応援すると、笑顔を引っ込めた楚月は突然、真顔になった。


「……阿耀が可愛すぎて、仕事に行きたくなくなった……」

「えっ!?」


 そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。初めて過ぎて聞き間違いではないかと、もう一度聞き返そうとすると、楚月はあっさり答えてくれた。


「だって今日の阿耀は、普段も可愛いのに、俺のためだけにお洒落していて、うんと可愛いから、このままもう少し堪能させてほしい」

「公子……!」


 林檎のごとくポッと頬を赤らめ、少し視線が上にある楚月と見つめ合う。楚月も心なしかほんのり頬を赤らめていた。舞台慣れしている彼が、照れている姿は珍しい。思わず下からじーっと眺めていると、後ろにいた央央が「ゴホンゴホン」とわざとらしく咳払いをした。


「はいはい、謝公子。たんまり稼いできてくださいねー? 姉と結婚するんでしょ?」

「さすが、妹君は容赦ないな」

「お金はいくらあってもいいのよ!」

「阿央!」


 妹を窘めつつ、夜公演のために楓流軒を立ち去る楚月の背中を見送った。

 このままの格好では、仕事がやりづらいので普段着に戻ろうとしたところ、央央に引き留められ、「今日は私が面紗をつけて手伝うから、先に休んで!」と定位置の柜台前から追い出されてしまった。

 楓流軒は、連日の大盛況で客足が絶えないので、さすがに自分だけ休む気にはなれない。厨房に立つ父親の補佐をすることにした。今日は普段とは違い明るい色の服を着たり、化粧をしたり、髪形も違っていたりと着飾っているせいか、食堂で夕餉を提供している最中は、やたらと宿泊客からの視線を感じていた。

 終始落ち着かず、央央の生きづらさを少しだけ知れた気がした。




 亥の正刻──二十二時という、遅い時間帯にもかかわらず、営業している酒楼があったのでそこを訪れ、料理に舌鼓を打つ。さすがに遅いので、十四歳の央央は留守番だ。楚月と二人で山菜魚や、蒸し鶏、甘辛く味つけされた豚肉など、普段あまり口にしない濃い味付けのものを食べていた。


「口に合うかな?」

「美味しいです」

「それならよかった。ほとんどの店はもう閉店する頃合いだから、店を探すのに連れまわしちゃったね」


 帝都にある酒楼など飲食店は、亥の初刻である二十一時に閉まる店舗が多く、今開いている酒楼は珍しい。酔っ払い客ばかりで店内は賑わっている。


「公演の後で疲れているのに、ありがとうございます」

「いいんだ。どうしても今日、話しておきたいことがあったから」

「なんですか?」

「うん。きっかけは、きみが他の誰かと結婚させられると妹君に聞いたからだったけど、俺がきみと結婚したいのは本心だ」

「え?」


 唐突に告げられ、春鶯は目をまん丸くさせた。どうしてそこまで想われているのか、心当たりがないからだ。なにも言えずにいると、楚月はぽつりぽつりと好きになったきっかけを打ち明けてくれた。


「気になるようになった端緒は、月影座のちらしだった。ああいう使われ方は珍しくないけど、びっしり書かれている話に興味が沸いて、どんな子が紡いだ物語なのか知りたくなった」


 そして央央を送り届けたついでに、たまたま宿泊している楓流軒と関係があることが判明した。


「きみは、俺の羽振りのよさを知っても、公演で素顔を見ても、態度がちっとも変わらなかったし、いつも眩しいくらいの笑顔で迎えてくれた。昔から、利用しようと企む人間ばかりが近づいてくるから、妹君のように、人間不信に陥っていた面があったんだ」


 そんな楚月に対し、春鶯はあからさまに態度を変えることなく、真摯に対応してくれたという。けれど、そんなつもりはなかった。決してそうではなかった。


「私は、そんないい子じゃないんです。楚月さんに対して態度が変わらなかったのは、ただ緊張していただけなんです」


 自分の本心を吐露するかどうか迷いながらも、こうなった以上、知って欲しかったので春鶯はゆっくり伝えた。

 自分に自信がないこと。妹と比べられてきたこと。でも、妹は大好きだということ。央央の想い人が楚月だと勘違いしながらも、本当は密かに気になっていたこと。追加公演で滞在期間が延び、密かに喜んでいたこと。結納を交わしてまで助けてくれて、しかも、央央の想い人は楚月ではなかったと知り、心の底から嬉しかったこと。秘めていた想いを打ち明けた。

 でも、楚月に対して態度が変わらなかったのは、妹の存在があったからだ。苦労している妹を間近で見ていたから、楚月もそうではないかと気遣うことができた。央央のおかげで気づけただけで、違う出会い方をしていれば、春鶯も、楚月の外見で態度を変えるような、そんな人間になっていたかも、と打ち明ける。

 秘めたる本心を洗いざらい知られてしまうと、がっかりされるかもしれない。幻滅される可能性もある。けれど、本当の自分を知ってほしかった。包み隠さない部分を見てほしかった。


「俺は、劇団に入ってまだ三年目だけど、様々な地域で色んな人を見てきた。普通の人、貧しい人、裕福な人、執着心がすごい人、妬む人、明るいだけの人、色々だ。楽しい思いも、怖い思いも、そして嫌な目にもあってきた。だから、人を見る力だけは自信がある。そうやって目を養えば、素晴らしい演技に繋がると伯父である師匠が教えてくれたんだ」

「楚月さんの目には、私はどう映りましたか?」

「打算なんて知らない、妹思いの優しい子だよ。だから好きになった。阿耀が分け隔てない笑顔を向けてくれたから、そこに惚れたんだ」


 楚月の言葉は、春鶯の心に一直線に届き、心をぽかぽかと温めてくれる。それはこの前も、今も変わらない。


「楚月さん……ありがとう」

「こちらこそありがとう。さて、あまり遅くなると怒られそうだから、夜景を眺めてから楓流軒に帰ろうか」

「……はい」


 食事を終えると、当然のように楚月が支払った。串焼きという、央央への土産も購入してくれた。半分出そうとしたが、それはまた次に、と言われ財嚢に戻された。

 二人で帝都の夜景を堪能してから、楓流軒まで歩いた。心が満たされた、とても幸せな帰路だった。

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