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眉目清秀な劇団座長は、宿屋の平凡娘になぜか弱い。  作者: ゆずまめ鯉


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二.月影座のちらし

 七月に入ると七夕や中元節など行事が重なるため、帝都はさらに活気づく。


「姐姐!! 今、一番勢いのある月影座(げつえいざ)が明日、帝都に来るって知ってる!? 一緒に観に行こうよ!!」


 買い出しに出かけていた央央が帰宅するなり、一枚のちらしを手渡される。視線を落とすと、「月影座」という移動型の劇団が、明日から十四日間ほど帝都で公演するとある。大興奮している央央は、演劇愛好家でもある。美しい外見で嫌な思いをしてきた央央は、気分転換がてら舞台上で輝く役者を見ているうちに、すっかり魅了されたようだ。今では、易者で稼いだ金の半分は、観劇するための費用に使っているといっても過言ではないだろう。それほど熱中している。

 公演は一日二回行われ、昼は未の初刻の十三時、夜は戌の初刻の十九時開演だ。


「公演初日だと混むだろうし、遠慮しようかな。一人で行くのなら、昼公演にしてね。夜公演はダメよ。夜に行くなら一緒に行くから」

「わかった! さっき阿来(アーライ)と会って、明日の昼に観に行こうって話してたところだよ」


 阿来とは福来(フーライ)のことで、央央の同い年の友人だ。易者をしているときに知り合い、官僚の娘として生まれたことから自由がなく、親しい友が一人もできないと相談されたことがきっかけだった。背後の親を気にしてか、顔色を窺われるばかりだという。そんな福来に「私が友達になるわ!」と答え、仲良くなったと聞いている。


「お金は足りる? いくらか渡そうか?」

「ううん。これから易者でばんばん稼いでくるから平気!」


 ちらしを見ると、立ち見でも一回、五十文と記載されていた。福来と一緒ならば、立ち見ではなく席に座るため、最低でも百文はするだろう。毎月、何度も公演を観に行くので、小遣いだけでは当然足りない。だから、趣味でもある易術で日々稼ぐのだろう。


「阿央。暗くならないうちに帰るのよ?」

「わかってるよ。じゃあ、行ってきまーす!」


 先ほど、買い出しから戻ったばかりだというのに、央央はまた元気よく出発していった。

 手元に残されたのは一枚のちらし。裏にはなにも書かれておらずまっさらだ。


(……書いてもいいかしら?)


 普段、使っている竹紙よりも上質の皮紙(ひし)らしく、春鶯は居ても立ってもいられなくなった。

 つい先日、耳にしたばかりの保鏢を題材にしたくなったのだ。職業も聞いた話も特別珍しいものではない。仮面の公子は、帝都に到着する前、匪賊に狙われたといっていた。

 十四歳の少女を含む旅の行商人一族が、保鏢をしながら母親を養う少年に助けられ、親しくなるといった内容が頭にふと浮かんだ。

 たまたま居合わせた匪賊を容易く撃退した少年は、まだあどけなさ残る十二歳だった。それゆえに、少女の父親は報奨金を出し渋り、駄賃程度しか渡さなかった。そんな大人に対し、少女は、正当な対価だと何倍もの金額を支払う。もしも襲われていれば、どうなっていたかわからないからだ。乱暴されていたり、身売りさせられていたり、最悪の場合もあった。だから、精一杯お礼がしたかった。

 そのことがきっかけで何度も助けてもらい、保鏢として頭角を現した六年後に結婚する。春鶯も、そんな素敵で運命的な出会いをしたいな、と空想に花を咲かせた。


 夕方になり、そろそろ父親と交代する時刻が近づく。柜台の上を片付けていると、老婆の格好をしている央央が、勢いよく楓流軒へ飛び込み、帰宅した。


「ただいま! 今日は太客が来てね、二人しか占ってないのに五百文ももらえたから、夕飯は奮発するよ!」


 頭巾と外套を取っ払って、背筋を伸ばしている。易者をする際は腰を曲げて老婆らしく歩くため、あまり長時間はできないのだといつも嘆いている。


「あら。明日の観劇のために、とっておくんじゃないの? 無駄遣いしたらダメよ」

「いいの。たまには良いもの食べてほしいもん!」

「阿央ったら……」


 外に食べに行こうと誘われるとは思ってもみなかったため、春鶯の胸はじんわりと温かくなる。せっかく央央が気遣ってくれるのならば、今日だけはお言葉に甘えようと重い腰を上げた。


「あれ? さっき渡したちらしの裏になにか書いたの? 読んでもいい?」

「いいわよ」

「やったー。あとで読もうっと」


 月影座のちらしの裏を文字で埋めても怒ることはなく、央央は笑みを浮かべて眺めている。

 客から受け取った宿泊費や食事代、馬の世話代など、一階の奥で管理しているのでお金をすべて納めてから出かけようとしたところ、夕餉を食べに訪れた趙一家と遭遇してしまった。


「今日の夕餉も貧乏臭いわね」


 継母は、大鍋を覗いて文句を言っている。客に提供するものと同じものを食べているので、質素というわけではない。野菜だけでなく、骨付き肉も入っている。三品ほど用意しているのに、それでも足りないというので春鶯は、朝に多めに準備した饅頭を夜にも出していた。

 父親がいる前では言わず、春鶯や央央がいると必ず貶してくる。文句を言うなら食べなければいいのに、嫌味を言わなければ気が済まないようだ。


「上質な肉が買えないのなら、宿泊費を値上げしなさい。下房は百文、中房は三百文、上房は千二百文よ」


 そう言われた春鶯は目を丸くした。元の宿泊代から二十文、五十文、二百文も値上げしろというのだ。

 その割に、趙嬌や趙眠、趙美の服装や宝飾品はどれも上物で派手だ。それに対して春鶯はというと、紺と灰色で地味な襖裙の上、刺繍すらない安物だし、央央が着用しているものは、橙色の生地に刺繍が適度に散りばめられているとはいえ、銀二、三両ほどで買える。もちろん春鶯が小遣いを貯めて贈ったものだ。

 けれど継母たちは、その数倍もする服や宝飾品で着飾っているのだ。そんな経済力があるというのに、宿泊費を急にあげてしまえば反感を買うだろう。


「本当に値上げが必要かどうか、父と相談するので帳簿を渡してください」

「はあ? そんなの、嫌よ」

「なら、値上げはできません」

「もう、頭が固いのね!」


 帳簿の受け渡しを要求すれば、あっさり引き下がることはわかっていた。悔しそうだったが、趙嬌はそれ以上なにも言わなかった。

 大鍋の中の汁物と、青菜の煮浸しと、甘辛く炒めた鶏肉と人参と玉ねぎを器に盛り、饅頭や包子とともに口にしている趙眠は、央央が手にしていた月影座のちらしを一瞥した。


「またそんな低俗なものを見ているのか」


 趙眠は、芝居にはまったく興味がないらしく、央央が夢中になっていることを小バカにしている節がある。演劇など、見ているだけで馬鹿になるから、観に行くのをやめろというのだ。もちろん、央央がいうことを聞くはずもなく。ふんと鼻を鳴らして無視した。

 自分の好きなものを貶してくる人間に好意を抱くわけがないのに、趙眠にはそれがわからないのか、はたまた自己肯定感が高すぎるせいなのか、央央に嫌われていることに気づいていない。

 趙眠の妹の趙美は央央と同い年だが、なにかと比べられてしまうため、央央のことは端から嫌っている。お互い、いないものとして触れないようにしている。


「おい、小央(シャオヤン)。外に食いに行くのなら、なにか土産を買ってこい」

「はあ? どうして私が買わなきゃならないの。もらったこともないのに」

「なんだと? 俺はお前の兄貴だぞ! ケチケチするな!」

「央央、馬鹿だから、わかんな~い! ねえ、お腹空いたし、もう行こう?」

「うん」


 家族用の鍋や器には、もうほとんど料理が残っておらず、結局、自分で調理するか外で食べるしかなかった。こういった嫌がらせは日常茶飯事だ。慣れてしまっている。

 春鶯は妹を連れて勝手口から外へ出ると、町中へ向かって歩き出した。有言実行とばかりに央央がご馳走してくれたので、春鶯は味わって食べた。


***


 辰の初刻、朝七時。普段通りに早起きした春鶯は、粥や漬物、汁物などの簡単な朝餉を提供し、柜台の前で食事代や宿泊費を受け取り、客を見送る。七月は繁忙期ゆえにほぼ満室で、央央と手分けして客室を清掃しているうちに正午近くなり、月影座の初日公演まで半時辰。化粧を施し、淡い色の襖裙に身を包んだ福来が迎えに来る。福来は、小柄で可愛いらしい風貌をしているため、央央と二人だけで出かけるのは少し心配になるけれど、福来は官僚の娘ゆえに、武術に長けた侍従が密かに待機しているので、今のところ襲われたことはない。


「阿央、準備できてる?」

「ごめん。すぐに着替えてくるから、ちょっとだけ待っててくれる?」

「いいよ」


 動きやすい恰好をしていた央央は、慌てて厨房奥の小さな板の間で着替えるために引っ込んだ。


「待たせてごめんね、阿来」

「いいえ。いつも姉妹で楽しく働いていて、羨ましいです。私には、姉も妹もいませんから」

「そう? 央央も喜ぶから、いつでも泊まりにきてね」

「わあ、ありがとうございます!」


 春鶯が、央央のためにと金を貯めて買った、金糸を使った花の刺繍が見事な桃色の上着の襖と、同じく淡い桃色の裙姿で戻ってくる。華やかな央央には桃色がよく似合う。春鶯は、奮発して買ってあげてよかったなと大きく頷く。


「二人とも、ばっちり可愛いわ。気をつけて行ってらっしゃい」

「行ってきます!」


 笑顔で出かける妹たちを見送ると、少しだけ暇になった。昨日、創作していた物語の続きでも書こうとしたところ、月影座のちらしが見当たらなかった。


(あ。そういえば、あのちらしは央央に渡したままだったわ)


 あとで読むと言った後、二人で出かけ、屋台で包子や羊肉の串焼き、甘いものが食べたいと山査子飴も頬張っていた。たらふく食べて家に戻り、湯を沸かして小さな桶で湯浴みをしてから就寝した。その間、読んでいる様子はなかった。今日も返却されないだろう。

 続きはまた考えるとして、竹紙には、先ほど宿泊客から耳にした「象箸玉杯(ぞうちょぎょくはい)」について記した。象箸玉杯とは、高価な象牙の箸を使っているうちに、それに見合った器や玉杯が欲しくなり、どんどん贅沢になって、最終的には国が滅ぶことを憂慮した故事を指す。近くの露店で、そこそこ値の張る象牙の箸を買わされそうになり、逸話を思い出して断ったと教えてくれた。いくらだったか尋ねると、楓流軒の上房一泊の料金と同じだと言っていた。創作に活用したかったので、忘れないようにすぐ乾かし、小さく折りたたんで袖にしまった。


***


 月影座の昼公演まであと少し。運よく、立ち見ではなく後方の席を確保できたので、央央は一安心する。福来を走らせてしまったので心配していたが、隣の様子を窺えば、目を輝かせて劇場内を眺めていた。誘って正解だった。本当は、姉も連れて来たかったのだが、断られてしまったのだから仕方ない。


「あ、そうだ。後で姐姐にお土産買わなくちゃ!」


 こうしている今も、楓流軒で真面目に働く姉の姿が脳裏に浮かぶ。もしかしたら、そろそろ手が空いて、大好きな創作をして楽しんでいる最中かもしれないが、それでもなにかしら買って帰りたい。


「ねえ、阿央。不思議だったんだけど、どうしてそこまで春鶯さんのことを好いているの? 他にも似た境遇の姉妹はいるけど、そこまでじゃなかったから気になって」


 福来とは親しくなって二年経つ。ところが、込み入った話はあまりしたことがなかった。


「そういえば、阿来にはまだ話したことがなかったね」


 七年前。央央が七歳の頃、帝都では麻疹が大流行した。高熱が出て咳や鼻水が止まらず、目も赤く腫れた。そして顔から発疹が広がり、全身を覆っていった。変わり果てた姿になってしまったのだ。しかし、五つ年上の春鶯は、臆することなく看病を続けた。


「私の顔を見た趙夫人や、趙眠、趙美、使用人たちはみんな『これは間違いなく天花(天然痘)だ!』って騒ぎながら逃げ出したのよ。まだ診断してもらってなかったのにね。でも、姉さんだけは、何度も着替えさせてくれたし、栄養満点の粥を食べさせてくれたわ」


 ずっと傍にいてくれた姉を支えようと思った。春鶯は、幼い頃に麻疹にかかったことがあったらしく、免疫力があった。その後、央央は二週間後に完治した。完治するや否や、真っ先に逃げ出した継母や、趙眠、趙美と使用人は何食わぬ顔で戻ってきた。

 それまでの央央は、姉は自分の手柄を他人に奪われる、要領の悪い人間だと認識していた。率先して掃除をしていたのに、趙美が全部一人でやったと主張しても、一切怒ることはなかったのだ。趙眠に対しても同じで、客の忘れ物を見つけて届けたのは春鶯だったのに、義弟に横取りされて褒美を奪われても反論しなかった。それについて央央が憤っても「いつか必ず報いがくるからいいのよ」と笑っていた。

 そんな体験をした央央は、外見だけで自分に好意を寄せる人間は、見る目がないと確信している。


「阿央には私もいるよ?」

「ふふ、ありがとう! 阿来のことも大好きよ!」


 福来に正体を明かして友達になり、そこから唯一無二の親友となるまでに時間はかからなかった。二年間、ほぼ毎日顔を合わせていても飽きることはない。恋愛についての相談をされるし、親が決めた許嫁との付き合い方も央央が指南している。


「あ、あれを見て阿央。役者さんが出てきたよ!」

「うん!」


 央央と福来は、月影座の初日昼公演を時間いっぱい楽しんだ。


***


 もうすぐ日が沈む。妹の央央が公演を観に行ってからは二時辰──四時間近くが過ぎようとしていた。正午に軽く昼を済ませたとはいえ、さすがに小腹が空いてくる時間帯でもある。


「包子でも食べようかしら」


 宿屋で提供しているのは朝夕の二食だけだが、時折、なにか食べ物はないかと聞かれることがあるので、饅頭や包子など片手で摘まめるものは用意してある。

 春鶯が空腹を満たすために、奥にある厨房へ足を進めると、換気のために勝手口を開けていたからか、人の話し声がした。


「……姉君を……してほしい」

「はあ? 嫌です」

「そうか。明日の演目は、どうするか……。誰かの好きなものに変更してもいい気分だ」

「む、無理なものは無理よッ!」


 嫌悪感を含んだ央央の声音に、春鶯は慌てた。仲裁しなければ──。


「明日の最前列特等席無料」

「……仕方ないわねッ! 折れてやるわよッ!」


 急いで駆けつけると、そこにいたのは春鶯も知っている人物だった。数日前から、楓流軒に宿泊している仮面の公子──謝楚月と、その保鏢をしている琳晋高だ。この前とは、別の色の長袍に身を包んでいる。背後を伺っても、福来の姿は見当たらない。


「あの、謝公子。妹がなにか粗相でもしましたか?」

「姐姐!」

「やはりきみだったのか!」


 恐る恐る声をかけると、三人は一斉に振り向いた。

 仮面の公子、楚月はなにかを手にしており、春鶯に差し出す。そこへ視線を落とすと、月影座のちらしだった。昨日、央央に渡されたものと同じだ。七月二日から十四日間、昼夜公演と場所、料金が記されている。代わった様子は見当たらない。


「ちらしがどうかしたんですか?」

「裏だよ」

「あ!」


 ちらしを裏返すと、そこはびっしりと文字で埋め尽くされていた。春鶯の文字だ。十四歳の少女と、十二歳の保鏢をしている少年の物語が赤裸々に綴られている。


「公演後に、後方の席で揉めているのを見かけて晋高が助けに入ると、妹君がこのちらしを落としたんだ」

「それはそれは……妹がお世話になりました」

「きみの妹を助けたのは俺ではないし、それについては大した問題はない。一方的に絡んできた、酔っ払い客が悪かったんでね」

「……はあ」

「それでね、裏になにか書いてあることに気づいて尋ねると、『姉が書いたのよ。面白いから読んでみる?』っていうから、遠慮せずに読ませていただいた」

「阿央!」


 まさか、劇団所属の芸人に創作を読まれるとは想像しておらず、春鶯の頬は瞬時に真っ赤に染まった。趣味で書いているだけのまったくの素人だ。誰かから学んだり、私塾に通ったり、そうした経験は一切ない。見るに堪えなかったに違いない。恥ずかしくなってくる。


「だって、面白いのは本当じゃない。同志を増やしたかったのよ!」


 そう弁明されても恥ずかしいものは恥ずかしい。


「続きはないのか聞くついでに、送ってきたところ、楓流軒だったから、きっときみだろうと。続編があるなら、ぜひ読ませてほしい」

「ありません!」


 央央の腕を引っ張り、勝手口から宿屋に戻るなり扉をばたんと閉めた。さすがに、後を追って裏口から侵入することはないだろう。どっちにしろ宿泊客なので、夜の公演が終われば戻ってくるはずだ。翌朝、必ず顔を合わせることになる。それでも、今は穴があったら入りたい心境だったので、逃げることしか頭になかった。


「同志は増やしたいけど、さすがに知り合った初日に紹介したくなかったんだよね。早すぎるでしょ。でも、うちのお客さんだったんだね」

「……三日前から泊まっているのよ」

「知らなかった。仮面の人が月影座の座長だよ。二十歳なんだって」

「謝公子が座長……」


 央央から異性の話題が出ることはあっても、ほとんどが嫌悪感からくる愚痴だった。それなのに、月影座の座長で仮面の公子──謝楚月とは初対面だというのに気軽に会話をしていた。打ち解けていた。もしかすると、央央にとってこれが初恋という可能性も考えられる。男性嫌悪がまったく出ていなかったのだ。姉としては胸中複雑だったが、央央の初恋ならばと、姉であり、母代わりでもある自分が応援することにした。


***


 翌朝。卯の正刻を少し過ぎた六時半。あんな形で逃げてしまったのに、仮面の公子らとさっそく食堂で顔を合わせてしまった。気まずい。家族経営で他に雇人がおらず、代わりがいないのだから仕方がない。


「朝、早いんだね」


 普段と変わらぬ爽やかな美声から、気分を害さなかったことが窺える。座長ともあれば寛大なのだろう。山菜を盛りつけた器を並べていた春鶯は、その手を止めて挨拶した。


「謝公子、琳公子。おはようございます」

「おはよう。きみに一つ、聞きたいことがあるんだけどいいかな?」

「なんでしょうか?」


 央央のことだろうかと背筋を伸ばすと、春鶯の予想通り……とはならなかった。


「妹君の名前は聞いたけど、きみの名前は教えてくれなかったんだ。聞いてもいいかな?」

「あ、はい、いいですよ。私の名前は李耀(りよう)です。字は春鶯といいます」


 春に生まれたからと亡き母がつけてくれた名前だ。とても気に入っている。


「春鶯か、いい名だね」

「あ、ありがとうございます」

「春鶯」


 楚月に名前を呼ばれただけだというのに、どこか緊張してしまった。こんな経験は、十九年間生きてきた中で初めてだ。


「はい、なんですか? 謝公子」

「私の名は謝霜(しゃそう)。字は客簿にある通り、楚月だ。好きに呼んでくれてかまわない。こっちは保鏢をしている、琳晋高。年齢は俺の二つ上で、二十二だよ」


 晋高は小さく頭を下げた。


「改めて、よろしくお願いしますね。謝公子、琳公子」

「ところで春鶯。きみの書いた物語で、少年が保鏢だったのは、晋高を参考にしたからか?」

「え? ああ、そうです。一人で大勢倒されたなんて、あまり聞かないので」

「ふうん、そうか……。今度書くときは、男前すぎて仮面をしている劇団の座長が、宿屋で働く健気な娘と、恋に落ちる恋愛ものを書いてほしい」

「えっ!?」


 朝っぱらからなにを言っているのだろうか。春鶯は激しく動揺してしまった。異性に絡まれるのは、いつも妹の央央だったので、十九歳という年齢だが、異性に対する免疫力は皆無だ。


「冗談だよ。また書けたら読ませてほしい」

「あの……どうして私なんですか? 劇団には脚本担当の方もいらっしゃいますよね?」


 詳細は知らないが、央央が以前、言っていたことがある。創作が好きならば、劇団の脚本を書いてみたらどうか、と。春鶯は本気にしておらず、今の今まですっかり失念していた。物語が読みたければ、素人の作品ではなく脚本家がいる。


「もちろんいるよ。でも、きみの書く文章は、勢いがあって面白いんだよ。そうだ、春鶯にはこれを受け取って欲しいんだ」


 楚月が懐から取り出したのは、月影座の公演招待券だった。基本的には、演劇を観賞する際の座席は早い者勝ちだ。前の方がよければ、少し値は張るが見ることができる。

 ところが月影座では、最前列は身内や親しいもののために空けているらしい。他の劇団では聞いたことがない。そこの最前列に座るための招待券を、楚月が惜しげもなく差し出したのだ。


「頂けません!」


 心付けをもらっただけでなく、妹が世話になり、しまいには自分まで招待してもらうだなんて、素直に受け取るには気が引けてしまう。首を振って断った春鶯の考えを読んだのか、楚月はとあることを言い出した。


「──創作の役に立つかもしれないよ?」

「う……そ、それは……」

「それとも、俺の芝居を見ても、意欲を掻き立てられないと思ってる?」

「そんな、とんでもない!」


 それだけはないと、自信を持って否定することができる。演劇愛好家で目の肥えている央央が、月影座の初日公演を観てからというもの、今日も通うと興奮気味に言っていたので、よっぽど素晴らしい演技だったのだろう。


「まだ俺の演技を見ていない春鶯に、どうしても見に来てほしいんだ。だめかな?」


 首を小さく傾げて問いかけられてしまい、嫌だと言い出せない雰囲気を感じ取ってしまった。


「……わ、わかりました」

「ありがとう!」


 お礼を言うのはこちらでは、と突っ込みたくなったものの春鶯は口を閉ざした。招待券を受け取ろうとした瞬間、ドタドタと誰かの足音が響く。


「話し声がするなと覗いてみたら、また破ったの!? 私がいないときに、個人的な会話をしないでって約束したわよね!?」


 走ってきたのは央央だった。口元をへの字に曲げながら怒っている。


「きみの分の招待券もある」


 楚月の手元にあった招待券を、央央は瞬時に奪い取った。いくらなんでも行儀が悪すぎる。


「明日の演目は!?」

「西遊記」

「どこをやるの!?」

「それは明日のお楽しみで」


 目上の人に対する態度ではないのに、楚月は憤慨することもなく、穏やかに対応している。二人は親密そうだ。そんな央央は、今度は隣で突っ立っていた晋高に話しかけた。


「ところで琳哥哥(りんガガ)はなんの役をやるの?」


 昨日、会ったばかりだというのに「哥哥」と親しげに呼んでいるので、これまた驚いた。楚月に対する態度も珍しいが、晋高に対する態度はそれ以上だ。やたらと距離が近い気がする。


「……俺は楚月の雑用係だ」

「ふーん。琳哥哥もやればいいのに。大木の役とか!」

「……」

「冗談よ? ところで私、姉と親友以外には内緒にしてるんだけど、易者をしているから手相を見てあげる! もちろん、昨日守ってくれたお礼だから、お題は無料だよ」


 そう告げると央央は、勝手に晋高の手相を見るために手を取った。


「結構だ」

「遠慮しないで。ええと、琳哥哥の生命線は長いのね。この手相、女の子に人気だって出ているわ。身に覚え、あるでしょ? それから、琳哥哥の運命の人は……もう出会ってるみたい。私だったりしてね?」


 八歳も年齢が離れているというのに、央央は楽しそうに掌を見ている。老婆の変装をし、町中で易者として手相を鑑定しているときよりも笑みが溢れている。けれど、ここは姉として、母親の代わりとして、しっかり注意しなければならない。


「阿央。目上の方には礼儀正しくしなきゃダメよ。琳公子、妹が失礼しました」

「かまわない」

「哥哥って呼んでもいいって言うから、平気よ」

「阿央! 普段は聞き分けのいい子なのに、今日はどうしたのかしら……」


 注意しているのに聞こうとしないので、春鶯は困惑した様子で首を傾げた。


「故郷にいる弟妹と変わらないから、気にしなくていい」

「ちょっと、私は確かに妹だけど、琳哥哥の実妹じゃないんですけど?」


 なぜか故郷にいる実弟、実妹と変わらないと言われた瞬間、央央は不満そうに頬を膨らませた。その理由が春鶯には理解できなかった。




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