番外編 七.央央の望みはただ一つ
あの日から何日過ぎたのか。目覚めたばかりの央央には、今日が何月何日なのか正確な日時がわからなかった。ところどころ染みがあった宿屋の天井ではない。綺麗な木目調だったので、医院だろうかと首を動かすと、傍には泣き腫らした面持ちをした琳有がいた。どうやら、琳家にいるようだ。
「阿央~!! あなた、五日も眠っていたのよ~!」
「ええっ、そんなに!?」
琳有から聞かされた央央は、驚きのあまり寝台から飛び起きた。
「ううっ」
「あ、まだ無理しちゃだめよ!」
その途端、背中にはピリピリとした鋭い痛みが走ったので、央央の動きは鈍くなる。
「完全に傷口が塞がったわけじゃないの。最初は、仰向けになるだけでも痛そうにしていたわ」
背中に小刀が刺さって負傷した記憶はある。けれど、馬から落ちてしまった後のことはまったく覚えていなかった。痛みに苦しんで高熱を出していたのなら、忘れたままでいる方が幸いだ。
「帝都に帰ろうとしていたのに、また伸びたのね」
五日経ったということは、予定通りに出発できていれば、もうすぐ帝都というところまで移動していたはずだ。
「これ、お姉さんから届いた痛み止めの薬草よ。福来さんが調合したって」
「姉から?」
「うん。四か月の娘を預けて、駿馬を飛ばして霜北府に来るって、大変だったみたいだよ」
央央が匪賊に襲われたことを急ぎ書簡で伝えたところ、昨日、二通の手紙と薬草が返ってきたという。一通は央央の姉──春鶯からで、早く意識を取り戻してほしいことと、送り出したことを後悔していること、すぐに会いに行きたいのに、行けずに申し訳ないと綴られていた。もう一通は義兄の楚月からのもので、央央の容態を心配する内容と、取り乱した春鶯を宥めるのに大変だったと記されていたようだ。
「すぐ返事が必要になるかもと、阿央が寝ているのに先に読んじゃったの。ごめんね」
央央は首を振る。
「ところで阿有。琳哥哥は?」
最後に抱きしめてくれたのは晋高だったので、助けてくれたお礼を告げたかった。それなのに、琳有は言いにくそうにしており、気まずそうに視線を逸らされた。
「……お、お兄ちゃんは……」
「──なにかあったの!?」
「ないよ! ただ……」
なかなか煮え切らない態度に央央が詰め寄ると、観念したらしき琳有は口を開いた。
「阿央に怪我を負わせてしまって、保鏢失格だってすっかり落ち込んじゃってるの」
なんと酒屋に入り浸っているという。珍しい。楚月に休暇をもらっても、一口も飲もうとしなかった晋高が、この年になって初めて酒に溺れているという。体質なのか、酒を飲んでしまうと記憶を飛ばすというので、宴席で勧められても断っていたようだ。
「どこにいるか教えて」
「それなら、私が呼んでくるよ? 阿央が目を覚ましたって教えれば、すっ飛んで帰ると思うから」
起き上がろうとしたところ、寝ていた方がいいと寝台に押し戻された。けれど央央はもう一度起き上がった。
「いいの。体がなまりそうだし、自分で行くわ。だから教えて?」
「……お兄ちゃんがいる場所は、阿央が泊まっていたお宿の近くにある酒楼よ」
すぐに教えてくれなかったのは、恐らく晋高から口止めされていたのだろう。
「ありがとう。行ってくるね」
「まだ、ちゃんと傷が塞がってないんだから、くれぐれも気をつけてね!」
琳有にお礼を告げてから、宿屋の近所にある酒楼を目指した。
酔い潰れたのか、机に突っ伏して寝ている男が一人。楓流軒でも、こうして飲酒して寝てしまう客は時々いた。宿泊客が酔っ払い食堂で寝てしまった場合、以前は父親が対応していた。けれど晋高が滞在するようになってからは、筋肉隆々とした彼が介抱していた。まさか、介抱する側の人間の、酒に酔う珍しい姿を見ることになるとは思わなかった。
「琳哥哥。帰ろう?」
「……」
「寝てるの?」
「……」
肩を叩きながら声をかけたが返事はない。寝ているのだろうかと顔を近づければ、瞼がわずかに震えたので狸寝入りしていることが窺える。無視したいらしい。どう言えば晋高が反応するかは、四年の付き合いで学んでいるので、央央は耳元で囁いた。
「家まで連れ帰ってほしいの?」
「……帰らない」
上半身を起こした晋高は、ようやく口を開いた。酔っ払い特有の赤ら顔ではないものの、どれだけ飲んだのか酒の臭いがする。
「それなら、私も居座るけどいいの? 面紗も取っちゃうよ?」
顔を覆っている薄い布を外そうとした途端、腕を掴まれ阻止された。
「ダメだ!!」
「じゃあ一緒に帰ろう?」
「……ああ」
目立ちすぎる風貌をした央央が人前で面紗を取ってしまうと、どのような事態に陥るのか。晋高は幾度となく目にしてきたため効果は抜群だ。
晋高が椅子から立ち上がる際、足元がふらつき央央は慌てて上半身を支えた。晋高よりはだいぶ華奢だが、楓流軒で肉体労働を何年も手伝ってきたのでそれなりに筋肉はついている。支えられる。
小柄な央央が、頭一つ分背の高い大男に肩を貸しているため、酒楼で雇人として働く青年は慌ててやってくる。
「お客さん。手を貸しましょうか?」
「平気です。それより、お勘定はこれで足りますか?」
財嚢から銀一両取り出し机に置くと、雇人は慌てて首を振った。
「二百文多いです!」
急いで釣りを取りに行こうとしたので、央央は「待った」と一声かけて制止する。
「うちの者が連日、ご迷惑かけたので、おつりはいらないです」
「え、いいんですか!? ありがとうございます!」
雇人の青年は嬉しそうに笑って見送ってくれた。会計を済ませたので酒楼を後にすると、年若い央央と、そこそこの男前である晋高が、日中だというのにぴったり寄り添って歩いていたことから、事情を知らない通行人には冷ややかな目を向けられた。けれど、他人の目など心底どうでもよかった。無事に連れ帰られればなんでもよかった。
自分よりもはるかに背が高く、筋肉質の男を支えて歩くのは、想像よりも体力を持っていかれて大変だったが、遅いながらも足は動かしてくれたので、なんとか琳家の近くまで来ることができた。酒楼を出てから一時辰。屋敷までは目と鼻の先だ。背中を負傷した後、ろくに食べずに五日間も寝込んでいたからか、繁忙期以上にどっと疲れた。
「だ、大丈夫っ!?」
正門の傍で右往左往していた琳有が、のろのろ歩く央央と晋高を目にした途端、駆け寄ってきた。琳有も一緒に支えてくれた。
「阿有、ありがとう」
「ううん。待っている間、ずっと心配だったし、戻ってくるまでこんなにかかるのなら、私もついて行けばよかった。ごめんね」
「気にしないで」
琳有は、酔っ払った晋高を説得するために、時間を要していると思ったらしい。正門まで様子を見に出ていたのは、一時辰も戻らないので迎えに行こうとしていたのだという。
晋高の部屋は二階だ。しかし、さすがに伯父などの男手がないと、小柄な女子二人で階段を補助するのは危険だ。酒が完全に抜けるまで、母屋で様子を見ることにした。
「お茶入れてくるね」
水は嫌だとわがままを言ったため、琳有は湯を沸かすために調理場に消えた。その場に二人、取り残されてしまう。今日に限っては普段待機している伯父も出払っているらしく、明日まで帰らないと聞いていた。
「……痛みは?」
「ん? もうほとんどないわ」
本当は、まだじんじんとした鈍い痛みを感じていた。しかし、四年間、一度も酒を口にしなかった男が、連日浴びるように飲むくらい気を落としているというのだから、これ以上、追い詰めたくなかった。そのためならば、平気で嘘くらい吐ける。
「嘘だ」
「本当よ?」
腰かけていた椅子から立ち上がり、腕を天井に向かって伸ばしたり、屈伸運動をしたりして痛みがないことを主張する。面紗を外していないおかげで、苦痛に耐えるために唇を引き結んでも見られることはない。
「じゃあ、触ってもいいか?」
「それはダメ」
「ほら」
背中に腕を伸ばされそうになったので、央央はひょいと軽々その腕を交わした。
「琳哥哥。わかってる? 私は嫁入り前なのよ? 結婚してくれるのなら、好きなだけ背中に触れてもいいわ」
婚姻を結べる年齢とはいえ、央央は未婚だ。恋人ですらない異性に、みだりに背中に触れさせるわけにはいかない。それが好きな相手でも、だ。五つ年上の姉にはそう教育されている。
背中の傷口がまだ塞がっていないことを隠すため──とはいえ、結婚という条件をつけた途端に晋高は固まってしまった。
「……それは……」
「それは?」
「………………できない」
事情を知らなかった前回とは異なり、即却下、とはならなかったものの答えは変わらなかった。
「どうして?」
許嫁との件は、もう央央にできることはない。けれど今回、拒絶した理由は、自分が原因だということは容易に想像できる。
「……怪我を負わせてしまったからだ。俺は自分を許せない」
「許す必要なんてないわ」
「……なぜ」
「だって、私が怪我をしたのは自業自得だからよ。まんまと罠にはまった私が悪いの」
あの日、あったことを一から説明した。宿屋で占っていたところ、匪賊に脅された老婆が大金を置いて立ち去り、返しに行くことになったのだと。伯父に相談せずに単独行動した結果だと。易者をしていることを知られていたのも、馬車を狙われた際に切り抜けられると思い、自らが明かしてしまったからだ。すべて自分で蒔いた種だと力説する。
晋高がいなかったのは、央央の名を騙り、文を送ってきた人物を特定するためだ。匪賊に脅された老婆を発見し、町の外へと誘き出したことを聞き出し、腹を痛がる妊婦を介抱していた伯父と合流し、憲兵を引き連れて急いで向かった。央央が伯父に一言、声をかけていれば未然に防げたのだ。
匪賊らは全員捕まった。央央が耳にした会話が真実ならば、人を殺めた男らに未来はないだろう。
「それでも、だ」
「それなら、どうするつもり? 償ってくれるの?」
「俺に、できることがあるならば」
「じゃあ、一緒に帝都に帰って。姉に会って」
「……わかった」
もちろん、姉に謝罪してほしいわけではない。姉なら、きっと央央の気持ちを汲んでくれるだろうから、平行線のままの状況を改善させられる気がした。それだけだ。
湯を沸かしに行ったはずの琳有が、湯を持たずに慌てた様子で戻ってくる。
「お兄ちゃん。さっき届いた春鶯さんからの書簡よ」
昨日、二通届いたばかりなのに、次の日にまた届くとは予想外だ。すぐさま文を開いた晋高は、紙面に目を落とす。
「なんだって?」
「……こちらに向かっているそうだ」
「えっ……!?」
生後四か月の姪はどうしているのか。乳母に預けているのか、それとも一緒に連れて移動しているのか。央央はそこが、なにより気がかりだった。




