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眉目清秀な劇団座長は、宿屋の平凡娘になぜか弱い。  作者: ゆずまめ鯉


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十五.南都へ

 帝都から南南東へ向かって一千九百里(約1100km)。気が遠くなるほど遠い場所──南都。馬車を何台も乗り継ぎ、一か月半も要する長旅の末、春鶯はようやく南の地に降り立った。

 央央に帳簿管理を任せ、復帰した従業員に教えるために要したのは三か月足らずだったが、十二月に入ってしまい雪が降る季節が到来してしまった。冬場の長距離移動は過酷なため、雪解けを待ってから、春鶯は楚月に会うため帝都を出発した。本来だと、帝都から南西に一千余里(約600km)離れた竜南府で落ち合うはずだったが、書簡の行き違いですでに南都へ出発しており、さらに距離が空いてしまった。

 当初は、楚月の元へ会いに行くと連絡した際は、匪賊が心配だからと反対されていた。けれど、九月下旬に婚儀を挙げ、十月上旬に別れてから五か月も顔を見ておらず、七月の帝都公演まで会えないのはさすがに辛いと思っていたところ、偶然、知り合った保鏢と共に出発することになった。

 南都へ帰郷するという、保鏢を生業にしている夫と、それを補助する夫人が運よく楓流軒に宿泊したのだ。春鶯が、どうしても南都に行きたい事情を説明すると、道中の馬車代と宿泊費、食事代をこちらが負担するのなら、相場の三分の一の報酬で請け負うと応じてくれた。

 帝都から出るのが初めてならば、馬車で長旅するのも、楓流軒以外の宿屋も、なにもかもが初めてだらけで新鮮な体験だった。道中はさすがに揺れるので、文字を書こうとすると歪んでしまったが、馬車に揺られつつ南下しながら、創作の役に立つだろうとたくさん竹紙に書き記していた。

 保鏢とその妻に別れを告げ、愛しい人の姿を探す。町の人々の話によると、月影座の公演真っ最中だというので、本日、世話になる宿を確保するよりも先に、会いに行くことにした。


(……ようやく、会えるのね)


 離れている間、何通もの文をやり取りした。距離があるので届くまでは日数を要したが、月に三通は往復していた。一応、南都に向けて出発すると連絡はしていても、返事は見ていないので、南都にいるかどうか不安だった。だが、まだ公演している最中と知りホッとする。行き違いになっていれば大変だった。

 開演は未の初刻、十三時。もうすでに始まっているので、立ち見席でもいいからと劇場に滑り込むと、演目は「白蛇伝」だった。

 舞台上には、主演である許仙を演じる楚月が輝いていた。半年ぶりに見たその姿は、生き生きとしており、観ているだけで幸せになれる。ようやく会えたのだ。

 あっという間に半時辰経ち、大盛況のまま公演は無事に終了した。いきなり楽屋へ向かうのも気が引けたので、邪魔にならない端に避けて、観客が少なくなるのを待っていた。


「耀耀……!」


 そんな春鶯の元に、急いで着替えたのか、よれた長袍で駆けつけた人物が一人。顔に仮面はつけておらず、春鶯は驚いたが、誰も気に留めなかった。


「仮面はどうしたんですか?」

「きみと結婚してからは、外す時間が長くなったんだ」


 妻帯者になったことで、気持ちの整理がついたのだという。


「でも、絡まれるんじゃ?」

「平気だよ。俺にはきみという『妻』がいるからね」

「……楚月さん」


 素顔のまま、平気で外を歩けるようになっていたとは知らなかった。書簡で教えてもらえなかった。外見を目当てにされることを嫌っていたが、仮面がなくとも舞台上のように受け流せるようになったのだという。


「でも、私がしばらく見られなかったのに、そんな楚月さんの素顔を、町にいる大勢の人たちが眺めていたと思うと、嫁として、なんだか悔しいです」


 素直に気持ちを吐露すると、楚月は小さく溜め息を吐いた。


「……はあ。なんでこんなに可愛いのかな、俺の耀耀は」

「ん? なにか言いましたか?」

「なんでもないよ。それより、疲れているだろうから、本当は宿屋で休ませたいところだけど、案内したい場所があるんだ」

「行きたいです」

「じゃあ、ちょっと待ってて。今日の夜公演は、俺抜きの演目に変えてもらうから、ゆっくり南都を見て回ろうか」


 日が暮れてから画舫(がぼう)に乗り、灯りがともる湖畔を眺めながら詩を読み合ったり、石が美しい丘陵地へ出向いたり、湖で舟遊びをしたり、花見をしたいと楚月は楽しそうにこれからを語る。春鶯は笑みを浮かべ、耳を傾けながら、楚月の穏やかで美しい顔をまじまじと見つめる。


「いいんですか? 休みにしちゃっても」

「せっかく遠いところまで逢いに来てくれたのに、舞台どころじゃないよ。しばらく休みたいくらいだ」


 ここで春鶯が頷けば、平気で七日間は休みそうだ。せっかく一緒にいるのだから、二人の時間を堪能したい。でも春鶯は、役に入り込んで熱演する楚月の姿を楽しみにしていた。


「演技をしている楚月さんも好きなので、明日は舞台上で見たいです」

「……どうしても?」

「どうしても」


 じっと見つめる。美しい楚月の久しぶりの眼差しだが、春鶯は照れてしまわないように、目に力を入れて意識する。途中、睨めっこのようになってしまったが、負けまいと視線を逸らさなかった。当然ながら、先に折れたのは楚月だ。


「……ふう。仕方ない。明後日からは真面目に働くか」

「明後日?」


 明日も舞台上で見たいと伝えたのに、明後日から真面目に働くと言われてしまった。どうしても休みたいようだ。


「やっぱり五日後にしようかな」

「楚月さん?」


 いきなり五日間に増えたため、春鶯は真顔になった。


「三日! せめて三日ならいいでしょ? 本当は十日がよかったけど、明日からの三日だけ休ませて?」


 三日、五日、十日の中から選ぶのならば、積もる話もあるので十日と言いたいところだが、観劇できることを楽しみにしていたのだ。だから三日で折れることにした。


「……仕方ないですね!」

「ありがとう!」


 先に折れたのは楚月だというのに、まんまと口車に乗せられた気分になる。けれど、恋しがっていたのはお互い様なので、楚月のわがままに付き合うという名目で、南都を隅々まで案内してもらうことにした。


「ところで、今晩泊まる宿は取ってるの? きみさえよければ、俺が宿泊している部屋に案内しようか? 二人でも十分、広いし眺めもいいよ?」


 帝都では一泊銀一両の上房に宿泊していた。南都でもそれなりの部屋に滞在しているのだろう。


「お願いします。お邪魔するつもりで寄ってきませんでした」

「……耀耀は時々、大胆になるよな」

「というよりも、早く楚月さんに会いたかったので、宿屋はどうでもよかったんです」


 正直に告げた瞬間、目の前にいた楚月は一歩足を踏み出し、春鶯の細い体を引き寄せた。楚月からは、柑橘のような爽やかでとてもいい匂いがする。


「耀耀……!」

「ようやく抱きしめてくれましたね? 待ちくたびれました」

「ごめん」


 文句を告げるとさらに力を込めて抱きしめられた。周囲に人がいようとも関係ない。二人の世界だ。しばらく熱い抱擁で互いの存在を確認し、もうそろそろ清掃のためにどいてほしいと劇場の人間に言われるまで、しばらく抱き合っていた。


 劇場を追い出されてからは、香ばしい匂いに釣られて屋台の焼餅を食べたり、串焼きを頬張ったり、食欲を満たしながら散策する。楚月がいうように、仮面をしていなくても話しかけられるようなことはなく、自由を満喫していた。相変わらず、町の子どもたちに慕われ、弟子にしてほしいと囲まれている姿も目にした。

 案内されたのは大型の宿屋で、楓流軒よりも歴史は古く、木の温もりが所々に感じられる、まさに老舗という言葉がぴったりの宿だった。三階奥にある部屋へ通された。室内の窓からは湖畔と南都の夜景が一望できる造りで、まさに圧巻だ。春鶯は思わず息を飲んだ。真っ暗闇の中に浮かぶ無数の星空と、月、そして灯篭や提灯、松明の灯りが、湖畔の水面に反射してあちらこちらで揺らめいている。目を奪われるほど綺麗で幻想的だ。ここまで素晴らしいものが拝めるとは。春鶯は静かに感動していた。


「湖畔が眺められるお宿もいいですね。楓流軒からは見えませんから」


 帝都の街並みも嫌いではないが、南にくるとここまで違うのかと、いつまでも眺めていたくなる。そんな春鶯の隣に、誇らしげな様子の楚月もそっと寄り添う。


「気にいってくれると思ったよ」

「だからここを選んだんですか?」

「うん。きみと泊まりたくて、景色のいい上房を確保しておいたんだ」


 一人だったら泊まっていないと言わんばかりの口調に、春鶯はくすぐったさを覚える。


「高そうですね」

「楓流軒の上房と同じくらいだよ」

「え、そのくらいで泊まれるんですか!? ああ、いえ、私が言うのもなんですが、決して安くはないんですけどね」


 楓流軒は、帝都にある宿屋の中でも比較的、高めの料金設定だということを思い出す。それでも潰れずにやっていけるのは、父親の料理の腕前と、綺麗な客室と、立地がいいのだろう。


「耀耀」

「なんですか?」

「楓流軒を、大型の宿屋にしたい?」


 宿屋を継ぐのが春鶯の夢だと楚月は知っている。その宿を拡大したいのかと問いかけられ、真っ先に思い浮かんだのは楚月の顔だった。


「そうですね。大型にするよりも、楚月さんが自由に演技できる舞台を設けたいですね」


 忙しくて観劇に触れる時間のない人にも、ちょっとした癒しの空間にならないだろうかと春鶯は考える。もちろん、休みたいだけの客もいるため、受付対応する際には、舞台を見たいか見たくないかを事前に確認しておく。断った客は一番奥の静かな部屋に案内し、頷いた客は手前の部屋にする。配慮すべきことは後から追加するとして、楓流軒を大きくするよりも、どうすれば快適に過ごしてもらえるのか、春鶯は常に考えている。


「冬場の閑散期、俺はそこの舞台で演じたい」

「え? でも、冬だと結構寒いですけど大丈夫ですか? 寒いの苦手でしたよね?」

「はは。出身が霜北府だから、寒さには慣れているよ」


 小さい頃に病弱だったという話を半年前に聞いていたので心配になったが、月影座として巡業をしているうちに、暑さにも寒さにも強くなったのだという。


「練習する場所も必要ですよね?」

「広場で練習するよ」

「それだと、大勢の人々が、楚月さんの練習風景を見学できてしまいますよね?  さすがに嫌です。私も見たいのに」


 春鶯は、唇を尖らせて拗ねてみせた。それに、広場にいる一人一人に嫉妬してしまいそうだと伝えると、楚月は目を大きく見開き反応した。


「……耀耀!」

「考え直してくれましたか?」

「うん。それはやめておくよ」

「ふふ、よかったです」

「馬車の預かりは近隣に任せて、中庭に舞台と練習小屋を建てようか」

「一番は増築ですけど、許可は下りないので、中庭を工夫したいですね」


 比較的、自由に建築できる南都とは異なり、春鶯の暮らす帝都では、防火が最優先事項になっている。空気が乾燥しやすく、木造建築が密集している地域ゆえに、非常によく燃えるという数々の懸念点から増築の許可はまず下りない。ついてまわる景観問題もある。

 そんな厳しい中、楓流軒が珍しく三階建てなのは、大工だった曾祖父があまり高さを出さないように工夫して設計したからだ。それでも許可を取るためには数年を要している。


「それほど長く滞在していたわけでもないのに、こうしてきみと話していると、帝都が恋しくなる」

「そうですね、わかります。でも、私は楚月さんとこうして会えたので、どこにいたって幸せですけどね?」


 素直に自分の気持ちを伝えると、不意打ちを食らったかのように楚月は一瞬、言葉に詰まり、狼狽えていた。


「……耀耀。緊張しなくなったきみはとても魅力的だけど、こちらの心臓が持たない」

「それなら、私に慣れてください。いつでも傍にいますから」


 そう微笑みながら伝えると、楚月は春鶯の手を取った。そしてそこへ、躊躇うことなく口づけを落とす。


「結婚してくれてありがとう。南都まで逢いに来てくれてありがとう」

「こちらこそ、南都までの旅費を出してもらったのに、お礼をまだ言ってませんでしたね」


 馬車代や保鏢を雇う金をこれから貯めると文に書いたところ、晋高を通じて大金を渡された。せっかく結婚したのに、生活費を渡すという考えが至らずにすまないと謝られた。離れて暮らしているのに、そこまで気遣ってもらえるとは想像していなかった。楚月は、春鶯や央央、楓流軒のことを大切にしてくれる。


「礼なんていらない。きみに逢えるのなら、俺はいくらだって出すから」

「ふふ、座長さんは頼もしいですね?」

「もっと褒められたい」

「そのくらい、いいですよ。綺麗すぎて顔を直視できない。遠くにいてもはっきり聞こえる美声も素敵。腕っぷしも強くて逞しい。字もとても上手。なにより好きなところは、私を見つめる瞳が優しいところです」

「……耀耀!」


 感極まったらしき楚月に唇を奪われた。春鶯は、目を閉じて楚月の口づけを受け入れた。南都で過ごす初めての甘い夜は、二人にとって忘れられない一夜となって、胸の奥に深く深く刻まれた。


***


 ちゅんちゅんと、愛らしい小鳥が囀り、静寂の中で朝の訪れを教えてくれる。東の空が白み始め、大きな窓から差し込む朝日は、寝ていた春鶯の健康的に焼けた小麦色の頬を優しく照らす。ゆっくり瞼を開けると、ぼんやりとした視界がはっきりした途端、楚月の澄んだ瞳と目が合った。至近距離から顔を覗いていたのだろう。


「おはよう、耀耀」


 楚月の声は、寝起きの春鶯を包み込むように甘い。


「……おはようございます。もしかして、私の寝顔、見てたんですか?」

「寝顔? まさか。見てないよ」


 春鶯に指摘された楚月は、一瞬、目を泳がせたものの涼しい顔で答えた。耳たぶをほんのり赤く染め、見え透いた嘘をついていることは明白だ。先に目覚めて眺めていたに違いない。でも、自分が楚月より先に目覚めていれば、同じように寝顔を見つめている気がしたので、お互い様ということで、それ以上は追求しないことにした。


「耀耀。体は辛くない? 起きられそう?」


 昨夜、夫婦として初めて枕を交わしたので、春鶯を気遣う楚月の言葉には、優しさが滲み出ている。南都で過ごした初めての夜は、思い出しただけで赤面してしまうくらい、とても情熱的だった。世の夫婦は、みんなあそこまで互いを求めているのだろうかと、今になってふと疑問が浮かんだほどだ。誰かに意見を求めてみたいものの、赤裸々に情事を話せるような相手は、残念ながら春鶯にはいない。

 昨年、九月下旬の婚礼の後は、これからのことを話し合うためにお互い夢中でそれどころではなかった。楚月からも「今、きみに手を出してしまうと、遠距離に耐えられなくなって、酷いことをしてしまいそうだ。だからもう少し待ってほしい」と言われていた。

 春鶯は、その性質からして色恋沙汰には縁遠かった。宿屋「楓流軒」で忙しい日々を送っていたことも理由の一つだが、どちらかと言えば、彼女は現実よりも空想の世界に浸る時間を大切にしていた。そのため、世間話には相槌を打つ程度で、深く関わることは避けていた。

 しかし、相手が楚月となると話は別だ。春鶯の中に眠る好奇心が顔を出し、楚月が一体どんな突飛な行動に出るのか、詳細を聞き出そうとした。

 すると、楚月は至って真剣な面持ちで「監禁」という言葉を発した。もしも楚月が本当に春鶯を監禁するような事態になれば、それを知った妹の央央が黙って見過ごすはずがない。間違いなく激昂し、その怒りは、瞬く間に帝都全体を巻き込む大騒動へと発展するだろう。過去には、似たような騒動が実際に起こり、大変な苦労を強いられた。だからこそ、当時の春鶯は、楚月を下手に刺激することを避け、さり気なく話題を変えていた。このような背景があったのだ。


「体力だけは自信がありますから、私ならきっと大丈夫ですよ?」


 ほんの少しばかり気だるさを感じる程度だ。

 春鶯は楓流軒で、客室の掃除、食材の買い出し、水汲みといった重労働をこなしていた。一か月以上に及ぶ長旅で蓄積された疲労感も、舞台上でほとばしる汗を輝かせ、生き生きと熱演する楚月の姿をひと目見ただけで、たちどころに吹き飛んでしまった。楚月の姿は、春鶯に活力と元気を与えてくれる。


「……まだ余裕があるみたいだから、この次は本気を出そうかなかな」

「楚月さん?」

「なんでもないよ。ただ、朝になると、きみが作ってくれる青菜湯が恋しくなるんだ」


 楚月は度々、春鶯の作る青菜湯が食べたいと文に書いてくれていた。劇団の座長という立場上、日頃から様々な場所で高級料理を口にする機会は多い。舌も肥えているだろう。それなのに、春鶯が手早く作った質素な料理を何度も褒めてくれることが、春鶯にとってはなにより嬉しかった。楚月が望むなら、いくらでも青菜湯を作ってあげたいという気持ちになる。


「後で調理場をお借りして作りましょうか?」

「……本当にいいの?」

「ええ、かまいませんよ。南都で作るので、味が少し変わってしまうかもしれませんが、それでよければ」

「それじゃあ、軽く朝餉を済ませたら、材料を買いに行こうか」

「いいですね!」 


 春鶯は、南都の露天商には一体どんな食材が並んでいるのか興味を抱いていた。帝都では、塩味が強く、濃い味付けの料理が好まれる傾向にある。

 しかし、昨日、南都の屋台で食べた焼餅や串焼きは、甘めであっさりとしていた。羊肉が主流ではないし、南の地では魚介や淡水魚が並んでいる。買える食材が異なるため、どんな青菜湯になるのかわくわくしている。


「楚月さんは、これまで様々な地域を旅されていますけど、味付けの好みは濃い味、薄味、甘めなら、どれが好みですか?」

「濃い味かな。元々好みというのもあるけど、舞台で大量の汗をかくから、薄味だとどうしても体がふらついてしまうんだ」

「なるほど。参考にしますね!」


 楚月にとって重要な情報を得られたので、稽古や本番前に食事を作る機会があれば、濃い味付けにしようと頷いた。基本的には、宿屋側で用意されたものを口にするはずだが、せっかく楚月に帯同するのだから、脚本の協力以外にもなにかできることをしたいと考えていた。劇団員六十名の食生活を陰から支えたい。


「きみは?」

「楓流軒のお客さまは、濃い味を好まれる方が多いので、私も自然と濃い味付けに慣れ親しんでいますね」


 南から来た宿泊客の中には、時々薄味を希望する者もいる。そのような場合には、厨房に竹紙を置いておき、料理を担当する父親に伝えるようにしている。


「一緒だ」

「ふふ。味の好みが近いと、なんだか嬉しいですね?」

「うん。だけど、もしも違ったとしても、俺はきみに合わせるけどね」


 好きだから合わせたい、と率直に言われてしまうと、春鶯も同じように楚月に合わせたいという気持ちが沸き上がってくる。


「私も楚月さんに合わせたいので、これだけは合わせてほしい! というものがあれば、遠慮なく主張してくださいね?」

「俺に合わせてくれるの?」

「……私にできることなら、なんでも。ああ、でも、どうしても苦手なものは、少し時間がかかるかもしれませんけど……」


 例えば、辛すぎるものはそこまで得意ではないので、もし激辛料理を食べに行こうと誘われたら、慣れるまでは一緒に楽しむことは難しいかもしれない。


「耀耀はなにが苦手なの?」

「んー……辛味の強すぎるものと……そうですね、徹夜が苦手ですね」

「徹夜が苦手って、かわいい」

「え、かわいいですか? 私は毎朝、卯の刻の朝五時には起床するので、亥の刻の二十二時を過ぎると、どうしても眠くなってしまうんですよ」


 睡眠時間が短いと、仕事中に集中力が低下し、周囲に迷惑をかけてしまう可能性もある。そのため、できる限り十分な睡眠時間を確保するように心がけている。


「そういえば、前に夜遅くまで麺を作っていたときがあったけど、大変だったんじゃない?」


 楚月にそう指摘され、春鶯は思わず苦笑した。それは、元継母である趙嬌の陰湿な嫌がらせが原因だった。趙嬌は、春鶯が翌日の朝食のために蔵に保管していた食材をわざと台無しにし、朝餉の提供に深刻な支障を来たそうとしたのだ。食材を買いに走ろうにも、すでに店は閉まっている時間帯で、まさに絶体絶命の状況だった。

 その時、春鶯は、なにもないよりはましだと開き直り、自分で麺を準備しようと決意した。ひたすら麺を捏ね続けた。捏ねて捏ねて捏ねまくった。麺づくり自体、慣れているとはいえ、量が量だったのであの時は本当に大変だった。


「ああ、確かにあの日は眠気も感じましたが、それ以上に焦りの方が大きくて、眠いどころじゃありませんでしたよ」


 あんな辛い思いは二度としたくない。あの日、食材を提供してくれた楚月と月影団には、感謝してもしきれないほどの恩義を感じている。


「夜の公演はどうしても遅くなるから、眠くなったら遠慮せずに先に休んでいいんだからね? 耀耀の寝顔を楽しみに、俺は頑張るからさ」


 結婚する前も、結婚してからも、楚月は変わらず春鶯のことを慮ってくれる。慈しんでくれる。そんな楚月の優しさに触れるたびに、春鶯はますます愛情を深めていく。こんなにも人を気遣ってくれる人と結婚できたのだから、甘えすぎて自堕落な生活にならないか、少し心配になる。

 しかし、楚月ならば、そんな春鶯の未熟な部分もきっと受け入れてくれるだろうという安心感もあった。


「ありがとうございます。でも、これから何度もそういう機会はあるでしょうし、そのうち、私の寝顔も見飽きちゃいますよ?」

「都度、耀耀の寝顔で幸せを噛み締めるから、心配しなくても絶対に飽きないよ。けど、もし我慢できなくなって、寝込みを襲ってしまったらごめん」

「別に我慢しなくてもいいんですよ?」

「えっ」


 驚いた表情の楚月を見て、「私たちは、夫婦ですから」と微笑みながら付け加えた。楚月には、我慢だけはしてほしくないと思っていた。正直に打ち明けてほしい。


「昨日も言ったじゃないですか。体力には自信があるって」

「……耀耀は時々、大胆になるなぁ」

「経験不足で恥ずかしいですが、体力だけはあるので、楚月さんをきっと満足させてあげられる気がします」

「それならさ、今すぐ襲っていい?」


 楚月の目つきが急に鋭くなり、春鶯の真上から覆いかぶさろうとする。それを察知した襦袢姿の春鶯は、咄嗟に横に転がり、体勢を立て直した。


「お腹が空いたので、今はダメで~す♡」

「あれっ、さっきと言うこと違うような……?」

「ふふ、気のせいですよ?」


 昨日の夕餉は軽く済ませただけだったので、今の春鶯はなによりも食欲を満たしたいと思っていた。春鶯のお腹は「ググゥ……」と盛大な音を立てて鳴り響く。その音を聞いた楚月は、思わず吹き出したほどだ。


「仕方ないな。腹ごしらえしに行こう」

「すぐに着替えますから、あっちを向いていてください」

「昨夜、散々肌を見せ合った仲なのに、どうして恥ずかしいの?」

「楚月さん?」

「はい、すいません。そっちを向きます」


 着替えている春鶯の様子を、目に焼きつけようとした楚月だったが、珍しく冷ややかな視線に気づき、慌てて体の向きを変えた。楚月も薄手の衣から長袍に着替えた。

 朝餉をたらふく食べた後、二人は部屋で少し休憩してから、賑やかな町へと繰り出した。

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