十.逃亡
宮廷で催されている月影座の追加公演は、皇帝陛下や皇后、側室、そして十六歳の愛らしい公主にも大層な好評を博していた。いや、正確に言えば、大好評すぎてしまった。楚月が演じる三蔵法師に一目ぼれしてしまった公主が、楚月を個人的に呼び出したのだ。
春鶯という、心に決めた相手がいる楚月としては、当然のことながら公主の誘いを断りたかった。しかし、相手は国の重要人物である皇帝陛下と皇后の娘。目上の者からの呼び出しを一方的に拒絶してしまうと、処罰される可能性も否定できない。翡翠城とはそういう場所だ。だからこそ、楚月は後宮での公演には気が進まなかった。どうしても、政治的な思惑に利用されてしまうからだ。
覚悟を決めた楚月は、仕方なく呼び出しに応じた。すると案の定、容姿に惚れたのだと熱心に口説かれてしまった。皇帝陛下の愛娘を無下に扱うわけにもいかず、余計なことは一言も発さずに、ひたすら公主が満足するまで耳を傾けるしかなかった。
一時辰ほど力説され、ようやく解放された時には、どっと疲労が押し寄せた。公演で出ずっぱりの方が、何十倍もましだったと感じるほどだ。生きた心地がしなかった。無性に春鶯に会いたくなった。
そして、さらに最悪だったのは、一体誰が広めたのか、公演当日だというのに町中では噂話が流れていることだった。公主が月影座の座長に入れ込んでいる──と。
公演の際、楚月は、素顔で演じているのだから、こうなる展開は予想できたはずだった。町で評判だった「西遊記」という宮廷側からの要請に応じず、仮面が必須の演目に変更すべきだったと、今さら自身の迂闊さを悔やんでも、もう遅い。
「……耀耀が噂話を耳にして、気にしていなければいいんだが……」
公主には近々、皇帝陛下の右腕とされる宰相の長男と、婚礼を挙げるという話題で持ち切りだったらしい。それなのに、婚礼直前になって、公主の方から保留にしたいという申し出があったという。公主の婚礼騒動に巻き込まれることになるとは、夢にも思わなかった。
宮廷での公演日程は一週間限定だ。再延長はしないこと、宮廷の専属にならないことを条件に加えてもらっている。残り六日。行動に移すなら早い方がいい。
今日の昼公演を終えてから、しばらくの間、行方をくらますしかない。皇帝陛下の勅命が下ってしまえば、婚姻はほぼ避けられないからだ。素性を十分に調べぬまま婚姻を押し進めることはないとはいえ、公演期間中に決定されないとも限らない。
考えを見透かされたのか、楽屋に向かう前に皇帝陛下に呼び出されてしまった。もちろん、用件は公主の発言についてだ。
「私は一介の芸人に過ぎません。もし公主と婚姻したとしても、勘当されている身ですので、後ろ盾になれるような有力な世家もありません。どうか陛下から公主に、考え直すようお伝えください」
「うむ」
楚月が正直に伝えると、皇帝陛下は納得した様子だった。
(……春鶯に会いに行こう)
楚月は昼の公演を済ませてから、その足で楓流軒へと立ち寄り、春鶯に説明してから旅立つことを決意した。
予定通りに昼の公演が終了する。公主は今日も盛り上がっていた。
楽屋に引き上げると、月影座の団員たちに、簡潔に事情を説明した。座長である自分が不在のまま、残りの五日間の公演を無事に乗り切るように伝えた。そして、すべての公演が終われば、次の町へ移動して構わないと指示を出した。座長の行方を誰かに聞かれても、前座長は規約違反により解任されたので、自分たちはなにも知らないと答えるように伝えた。それで乗り切れるかどうかはわからないが、代理の座長として、二十代後半で楚月の二番手として活躍している劇団員がいたため、彼にすべてを任せることにした。
最低限の荷物だけを持ち、楓流軒へと駆け込んだ。春鶯は不安そうな表情を浮かべ、落ち着きなく右往左往していた。
「……楚月さん!」
会いたかった。春鶯に会いたかった。二日ぶりの再会を、ゆっくりと時間をかけて分かち合いたい気持ちでいっぱいだが、今はそんな余裕など残されていない。
「耀耀。時間がないから手短に話す。俺はこれから帝都を出る」
「え!?」
もう少し先のことだと思っていた別れが、突然早まったのだから、春鶯が驚くのも当然だ。後宮での公演がきっかけで、自分が公主と結婚させられそうになっていること、皇帝陛下の勅命が下る前に帝都を離脱したいと考えていること、そして、春鶯以外と結婚するつもりはないという強い意思を伝えた。
「公主の気が変わるまでは、しばらく逃亡生活を送ることになると思う。けれど、晋高をここに置いて行くから、心配する必要はない」
「そんな……楚月さんの保鏢なのに、置いて行くんですか!? 外には匪賊もいるんじゃ……」
「俺が楓流軒に出入りしていたことは、いずれ誰かに知られることになる。だから、万が一の事態に備えて、晋高に楓流軒を守らせたいんだ」
楚月は、晋高がしばらくの間、楓流軒に宿泊できるようにと多めに金銭を置いた。晋高をここに残すということは、月影座には保鏢が不在になるということだ。移動するには新たに保鏢が必要になるので、そちらも手配済みだ。
「それなら、これを持って行ってください」
春鶯から手渡されたのは、彼女がいつも懐に入れていた花柄の香袋だ。楚月はそれをありがたく受け取った。
「中身は丸薬や薬草です。道中の役に立ててください」
「ありがとう。元気で」
「お気をつけて……!」
楚月は楓流軒を後にすると、すぐに長袍ではなく農民の簡素な服装に着替えて、足早に帝都を離れた。次にいつ春鶯に会えるかはわからないが、彼女と必ず一緒になるためにも、今は逃げることを最優先に行動するしかなかった。
一夜明けると、春鶯は普段の起床時間よりもずっと早く目が覚めてしまった。楚月は無事だろうか。一体どこまで逃げることができただろうか。そんなことばかり考えてしまう。
上房には晋高が宿泊しているので、なにかあれば連絡を取り合うことができると言っていた。とはいっても、基本的には書簡なので日数を要してしまうが。
春鶯が央央に一部始終を説明すると、妹は驚きながらも「きっと大丈夫」と励ましてくれた。楚月の掌には、運命線、太陽線、財運線が中心に集まり、そこから下へ向かって延びる覇王線があるという。つまり、強運の持ち主だというのだ。央央らしい着眼点に、春鶯は少しだけ笑ってしまった。
その日の夕方。昼公演に楚月が現れなかったことから、町の中心部には、楚月を探す手配書が張り出されているという情報を、福来から耳にした。
驚いた春鶯が急いで確認しに行くと、確かに手配書は貼られていた。しかし、そこに描かれていた似顔絵は、楚月に似ても似つかないものだった。そして肝心の罪状はというと、「先払い報酬である絹百反を持ち逃げした、月影座の元座長・謝楚月」と記載されていた。
昨日会った楚月は、長袍と身軽な服装だった。百反も所持していれば気づくはずだ。明らかに偽りの内容だということが窺える。楚月は、残された劇団員に迷惑をかけるような真似は絶対にしない。先払い報酬を持ち逃げするような人物ではない。
しかし、町の住人たちは楚月のことをよく知らないため、好き勝手に罵っていた。
「金を持っているくせに窃盗だなんて。そんなやつだったのか」
「いつも偉そうにしていたもんな」
「そうだそうだ」
春鶯は咄嗟に反論したくなったが、ここで騒ぎを起こして迷惑をかけるわけにはいかない。握りしめた拳を震わせながら、必死に堪えた。手配書の前には、大人たちだけではなく、子どもたちの姿もあった。
「月影座の兄ちゃんは、絶対に持ち逃げなんかしない! お腹を空かせていた僕たちに、包子を分けてくれたんだ!」
「そうだそうだ! おれたちに演舞、見せてくれたし、教えてくれたもん!」
「うん。あのお兄ちゃんは悪い人じゃない!」
悪口に反論したのは、十歳前後の子どもたちだ。文字は読めなくても、大人たちの会話を耳にしたのだろう。春鶯は、その中に数日前、北湖園の湖畔で見かけた子どもがいることに気がついた。
「こら、お前たち! 役人に聞かれでもしたら面倒なことになるから、騒ぐのはやめな!」
「嫌だ! 兄ちゃんのこと、悪く言っているうちは、絶対にやめない!」
「わかったから、わかったって。もう言わないから」
「本当に約束してくれる?」
「ああ。わかったから。まったくもう」
子どもたちの粘り勝ちだった。子どもが落ち着くと、周囲の人だかりも徐々に減っていった。春鶯は内心で子どもたちに感謝しつつ、楓流軒に向かって歩き出した。
***
逃亡から三日目。楚月が帝都を脱出したという噂は日に日に増しており、楓流軒に宿泊する客も話題にするほどだった。月影座が宮廷で公演を続けているからだろう。追加公演の日数は残り三日。終わった後、すんなり帝都から出発できるのかは春鶯にもわからない。
「月影座の座長だっけ、指名手配されてるの。今頃どこにいるんだろうな」
「さあな。持ち逃げした絹を売っぱらって、逃走資金にしているだろうし、もうだいぶ遠くまで行ってるんじゃないのか?」
「かもな。金を持ち逃げする座長なんざ、劇団にはいらねえよな」
「だな。いい迷惑だよな」
夕餉を口にしながらそんな会話を繰り広げている。いつもは宿泊客の話題に混じる春鶯も、黙って耐え忍ぶしかなかった。その会話は、晋高も耳にしていた。
「楚月は、科挙合格に匹敵するほどの知能と身体能力を持ち合わせている。心配ない」
「琳公子……なにか連絡はありましたか?」
「まだない。届いたらすぐに知らせる」
「お願いします」
長期滞在していた宿泊客の楚月が、三日前から指名手配されているため、継母に客簿を改竄するよう指示されたが、春鶯は応じなかった。隠蔽することは重罪だ。重罪に当たるから改竄をしないわけではなく、公主との婚姻を避けるためだという事情を知っているので、たとえ父親に指示されても書き換えるつもりはない。
意外にも、町中で楚月の話題はしているのに、役人が探し回っている様子はなかった。本来ならば、犯人が逃走した際はすぐに調査が入る。大量の人員を割いて手がかりを探そうとする。けれど、すでに三日経過しているのに、帝都の様子は普段と変わりなかった。
晋高は、宮廷にいる月影座の団員とも緻密にやり取りを続けており、公主は不機嫌そうだが、妃賓たちの反応次第で様々な演目を行っているので、今のところ不平不満は出ていないという。残された劇団員が窮地に立たされてはいないことは、不幸中の幸いだろう。
後は楚月が無事だったらいいのに、と春鶯は気が気でない思いを抱えていた。
***
それから更に一週間。月影座は無事に後宮での公演をすべてこなし、次の町へ向けて出発を果たした。てっきり楚月が見つかるまでは足止めされると思いきや、妃賓たちが、他の劇団公演を観たいと強く皇帝陛下に願い出たらしく、そのおかげで月影座は早々に解放された。殺人などの重罪犯ではなかったからだろう。現在は「百花繚乱」が後宮に招かれ、日夜上演しているという。
央央がそれを聞きつけたときは「脚本を盗まれたのは腹が立ったけど、役に立つこともあるのね」と笑っていた。
(……楚月さん、無事かしら……)
央央や晋高にいくら励まされても、音沙汰がなければやはり心配だ。現在はどこにいるのか、ちゃんと眠れているのか、食べているのか、匪賊に狙われていないか、暇になるとそればかりが脳内を占めてしまう。ここ一週間ほど、眠りが浅く、春鶯は熟睡できていなかった。
そんな状況だというのに、春鶯を楓流軒から追い出すことに失敗した趙嬌は、次なる手を思いついたらしい。密かに企てていた計画は、宿屋の権利書を偽造し、どちらが本物か確認している最中に、本物の権利書を奪って自分名義に書き換える──という大胆な内容だった。俄かに信じがたかった。権利書の原本は保管してある。その鍵は父親しか持っていない。
本来ならば失敗しそうな計画だが、店の権利書はだいたいどれも似た見た目をしているらしく、偽造しようと思えば簡単にできると趙嬌は張り切っていた。
(……やっぱり、楓流軒を守れるのは私しかいないわ)
春鶯は、自らが独自につけていた数か月分の帳簿を父親に提出し、趙嬌が偽の権利書を用意し、宿屋を乗っ取ろうと計画していると報告することにした。信用してもらえるかは自信がない。でも、曾祖父の代から続き、母と過ごした思い出のある楓流軒を、他でもない趙嬌にだけは渡したくなかった。なんとしてでも阻止したかった。
「お父さん。ちょっといい? 話があるの」
誰もいないことを確認してから、厨房にいる父親に声をかけた。春鶯がつけた帳簿を渡す。趙嬌が楓流軒の権利書を偽造し、本物と見比べさせてから本物の権利書を奪い、乗っ取る計画を立てていることを伝えた。
「私たちと、お母さんが過ごした楓流軒を、趙夫人から守って欲しいの……!」
涙を浮かべて訴えると、父親は大きく頷いた。
「……絶対にそんなことはさせない」
確実に趙嬌が横領をしている証拠があるわけではないが、少しでもよい方向に進めばいいと思いながら帳簿を託した。
***
楚月との別れから十日が過ぎようとしていた。ここ最近の春鶯は、眠りが浅いせいかちょっとした失敗を繰り返していた。客簿を書き間違えたり、破ってしまったり、酒を注文した客を勘違いするといった小さなことだ。
「私が占ってもいいけど、でもそれよりも今は睡眠の方が大事よ」
失敗続きの春鶯を心配した央央は、仲のよい福来に相談してくれたらしく、湯に煎じて飲むとよく眠れる薬草を分けてもらったという。官僚の娘である福来には薬学の知識がある。央央と福来の気遣いを嬉しく思いつつ、仕事に支障を来たすわけにはいかないので、素直に受け取った。そのおかげか、夜はぐっすり眠れるようになった。
相変わらず音沙汰なしかと思われたが、朝に出かけたはずの晋高が、それほど経たずして楓流軒に舞い戻った。
「楚月から書信が届いた」
「ほ、本当ですか!?」
晋高から文を受け取ると、とりあえず無事でいること、春鶯や楓流軒のものは元気にしているか書かれていた。
(……楚月さん……!)
短い文面だったが、均整の取れた綺麗な文字だった。楚月だとわかるように、象と箸の絵が描かれている。
「あ、あの、返事は出せますか?」
「どのくらいで届くかはわからないが、出せる」
「今から書くのでお願いします!」
「わかった」
春鶯には知る術もないが、様々な人を経由して届けているのだろう。竹紙だと不安なので、普段はあまり使わない皮紙を用意し、無事を祈っていること、元気でいてほしいこと、こちらは全員元気に過ごしていることを簡潔に記した。会いたい、とはどうしても書けなかった。




