お化け話―⑤黒い塊の女性
夜の雨の日、向こう側に見える景色の暗い場所。
目のカスミとともに一瞬さっかくするあの感覚。そして行き交う車のヘッドライトの眩しいさ。それを思い出しながら楽しんでいただけたらと思います。
お化け話―⑤黒い塊の女性
祖師谷三月は腫れぼったくなった頬をひと撫でして、窓に頬杖をついた。
眼差しに映る看板のネオンの光り。街頭の白い灯り。それらが薄暗い闇の中、頬を照らす。昔の蠟の灯りよりもはっきりと彼女の顔を映し出している。
彼女の頭の中は大きなザトウクジラが泳いでいた。
ぽつぽつと降る雨粒の弾ける音も彼女の耳を通り過ぎれば、海の波の音へと変換されていた。
海の生き物のダイナミックな姿に魅了されているのだろう彼女の表情は、穏やかでありながら光り輝いている夢を見ているかのようなものだ。
ため息をついた。
夢から覚めたのだろう。彼女の眉は八の字になって眉間にしわを寄せていた。
彼女は時計を確認すると、気力で動く女将さんの如く息を吐いて、立ち上がる。
その目はやる気に満ちていた。
「さぁ、今日こそ真相を突き止めてやる」
「酒かって来い」
階下から聞こえる男性の声に彼女は思った。
酒のみではあれど、自分で自分の飲む酒を買いに行くということをしていても足りなくなるくらいには飲む癖のある父親に若干疲れていた。
なぜならこうして月に数回、お酒が足らないから買ってきて欲しいと頼むからだ。
お小遣いになるのならまだしも、母親は酒代を気にしてお釣りはきっちり回収する。
その母親の気持ちもわかる三月。
先日買いに行く駄賃の代わりを貰えないかと母親と交渉した。
テストの高得点取得と言う新たな条件を突き付けられたが、幸いなことに漢字のテストで高得点だった彼女は、それを親に見せた。
「してやられた」
そう呟いた母親は観念したようで、「その欲しいと言っている物のお金は話しをして決めた通りに出す。その代わり、大切に使用すること、いいね」と新たな条件と念を押してきた。タダで転ばないどころか遠慮なく新たに盛り込んでくるのが世の母親というものであるということをこの時実感した。知識として知っていたはずだが、実際に自分の母親がそのような行動をしているという事実を真正面から受け止めることにこれほどのエネルギー消費があると知った。当時、この夫婦の第一子として生まれて可愛がられていた幼い頃を思い出していた時だったので、より衝撃が大きかった。
三月の人生に強く印象付けられたエピソードとなった。
壁に掛けてある雨合羽を見る眼差しは鋭い。
ショルダーバッグを斜め掛けする。そして雨合羽を鞄の上から着た。
階下へ下りながら、母親に告げる。
「お母さん、酒代頂戴」
「はーい」
使われる彼女の頭の中にはもう子供の弱い自分は鳴りを潜め、アルバイトで店の中を回している女学生のような人物がいるような感覚になっていた。
直接手で母親からお金を受け取りながら、注文を受ける店員のように注文を受ける。
「○〇の焼酎と▼▼の芋とそれとスパークリングを買ってきて。スパークリングの数は4本で」
「スパークリングは先日飲んでたあれでいいの?」
「ええ、そうよ」
「分かった。買ってくる」
彼女はその他の質問の会話も拒否をするかのように、お金を財布にしまうと玄関に向かった。
「挨拶くらいしろ」
誰ともわからない。説明を受けてもあまり頭に残らない相手で若い女性だとしか認識していなかった。
その女性への挨拶だ。顔を見なくてはいけないことに反発心が顔をのぞかせる。
少しだけだ。
「こんばんわ」
「悪いわね。買いに行かせちゃって」
「いい運動になっていいんだよ」
「ごゆっくり」
「ありがとう。気を付けてね」
「はい、ありがとうございます。では」
頭を下げて移動する。
顔を移動する方向に向ける時に見えた相手の女性の眼差しは陰っているように思えた。
少し茶色い波を打った長い髪の毛が印象的な女性だ。
鞄から自転車の鍵を出す。
玄関の灯りをともさずに靴を履く。
鞄には財布を入れた。
先日お小遣いをもらっているのでそれで気晴らしにパッと使おう。
その思いが出てくるが、後ろから父親たちの笑い声が聞こえてくる。
三月は瞬発的にイラっとした。それをグッとこらえて、先ほど頭に思い浮かんだことを止めることにした。
ひとり静かに頷く。
踵を整える。
一応声を出しておく。
「行ってきます」
スライドタイプの玄関扉を開けて、外に出る。
外に出た瞬間。
後ろの家族との物理的な距離だけでなく精神的な距離も離れていく気がした。
踏み出した右足が水たまりを踏んだ。
「あ」
足元を見た三月の表情は力強い。
気にせずに自転車のところまで移動して、ヘルメットをかぶって自転車の鍵を開ける。
目指すはいつもの酒屋さん。ここいら辺は飲食店の商売をしている建物が多くてそんな飲食店に対して商売している酒屋さんがあるのだ。
ひと呼吸整えてから、出発した。
雨脚は幸いなことに先ほどとあまり変わらず、ぱらぱら降っているくらい。ただしその中を自分自身がスピードを出して自転車で走ると、強風の中雨に降られて歩いて移動しているような濡れ方になる。
雨合羽のフードのつばがないので、降る雨はもろに顔にかかる。直ぐに顔全体が雨に濡れてしまった。
そんな移動も慣れたもので、三月は怯むことなく、安全を意識しながら目当ての酒屋へ向かった。
途中の商店街横にある信号で待つ。
車のライトがいつもよりも眩しく感じた。
嫌な気持ちになった。
目を瞑り、頭を少し降って顔を手で拭う。
気持ちを切り替えた。
信号を待つ他の人の様子を見るともなしに見ていると、やけに印象深い人物が居るような気がした。
鳥肌が立つ。
「はっ」
ハッとして身体が上に伸びあがり、息を吸いながら「はっ」と言った。
ドキドキしていた。
三月は自転車のハンドルの中心を見ていた。
呼吸を落ち着かせる。
自然と目を瞑り雨音と呼吸の音をが彼女の身体に響いた。
くぐもった女の人の声で「見たな」と聞こえた。
ハッとして、息を吸った瞬間身体を動かさず、視線も動かさず危険がないか気配を探る。
その間に赤信号が解けて青信号になっていたらしい、自分の傍を向いの信号待ちしていただろう人物が歩いて移動していった。そのすれ違った瞬間に、一瞬、髪の長い女性の顔が見えた気がした。
怖い。移動したい。見たくない。
彼女は一瞬目を瞑って、必死に自転車を走らせた。
すると、目の前に広がる日常に対応しなければ危ないと危険を察知して、頭の中の意識は切り替わった。
信号を渡ってくる後続者たちの間をコース取りして、スピードをみんなに合わせたスピードで移動する。
先ほど怖かったことなどまるで後ろにとどまるようにして自分が徐々に離れていくような気がした。
渡り切って人ごみを抜けた後に、息をつく。
「はぁ。焦った」
息を整えながら、酒屋の位置と今の自分の位置を考えて、まだ10分はかかると確認する。
酒を買って帰って渡した後も、こうして外で過ごしたいと思っていただけに、体力と気力を温存したい気持ちになった。
一瞬、さきほどの恐怖が頭をかすめる。
いや、でも思っていたことだし。
温かい風が頬を撫でた。
嫌な感覚が身体を走る。鳥肌が立つ。
黒い靄の塊の一部に女性の顔が映る。いや気のせい。実際居るような感じがしない。
酒かってないから、行かないと。
さすがに買わないでいるのはまずい。
そんなふうに気を紛らわしていたら、目的の酒屋に着いた。
自転車を何食わぬ顔で止める。
ヘルメットをとり鍵をかける。
雨合羽のまま外から中に居る店員の女性を呼んだ。
「いらっしゃいませ」
「すみません。○〇焼酎と▼▼の芋と■■のスパークリング4本ください」
「毎度ありがとうございます。帰りは、歩きですか?」
「いえ、自転車の前かごに全部入れて帰ろうと思います。みんな雨に濡れてもいいと思うけれど、一応移動の時便利なようにビニールの袋に入れて貰えますか?」
「5円かかりますが」
「それで」
「わかりました。少々お待ちください」
「ここで待ってます」
「はい、分かりました」
雨脚がひどくなってきた。
「最悪だ」
頭の中に黒い影が出てきそうだったので、むりやりザトウクジラのジャンプを思い出す。
自然と目の輝きが増した。
何がこうでなくっちゃかわからないまま三月はこうでなくっちゃと思った。
「よし。あとは会計して受け取って自転車で帰るだけだ」
「お待たせしました」
先ほどの女性だ。
「お酒は後で店のおじさんが自転車まで運びますから。先にお会計失礼いたします」
「はい。お願いします」
渡されたお金でお会計を済ますと、女性が尋ねてきた。
「お使いですか?」
「そうです。残念ながら駄賃はありません」
苦笑いの女性店員が「じゃ、これ駄賃代わりになるか分かりませんが、御試し用の化粧水とシャンプーです。女性向けの商品についているおまけなんですよ。3袋あげちゃう」
「あ、ありがとうございます」
そうこうしているうちに店のおじさんがビニールに入れた酒を持って移動してきてくれた。
おじさんと一緒に自転車まで移動する。
「ありがとうございました」
女性店員に挨拶をして、おじさんにも頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。ありがとうね。気を付けて」
もらった御試し用の化粧水とシャンプーが入った袋を鞄に入れた。
ヘルメットをカブって移動し始まる。
もちろん自転車でだ。
酷くなっている雨の中後ろを振り向いたら店のおじさんがまだ立っていた。
びっくりして、頭を下げる。
そして急いで前を向いて走行する。
いくらなんでもこの雨の中はきついだろう。何考えてるんだか。
そう三月は思った。
店のおじさんは女性店員に言った。
「彼女本当によくうちに買いに来てくれる。有難いやら申し訳ないやら。何か送った方がいいと思うんだけど、俺。何がいいかな」
「とりあえず、御試し用の化粧水とシャンプー多めに渡しておきましたから」
「あぁ、ありがとう。恩に着る」
「いえいえ。ああいうこを支えるのも我々の仕事ですよ」
「ああ、頑張ろうなぁ」
「えぇ、もちろん」
「ははははははははは」
「いいことがありますように」
女性店員と店のおじさんが店に入ると、何かが割れる音がした。
雨の音にその音はかき消された。
車道の傍に落ちていた少し大き目の石ころが割れていた。
その場所はさきほどまで三月の自転車が止めていたところだった。
青春まっさかりな高校生か中学生くらいを想定して描きました主人公は、過ごしている日常と非日常を特別意識したり騒いだりせずに、粛々と過ごす。そんな彼女の生きざまに共感されましたら、ご自身のエピソードとともにレヴューしていただければと存じます。




