取り置き人生――善意をポイントに換え続けた男の人生は、いつの間にか期限切れになっていた。
最初に「お取り置き」を頼んだのは、駅前のコンビニの唐揚げ弁当だった。
十一時半を過ぎると、会社近くのコンビニから唐揚げ弁当だけがきれいに消える。白身魚フライ弁当は残る。照り焼きチキンも、なぜか二つ残る。けれど唐揚げ弁当だけは、誰かが示し合わせたみたいに売り場からなくなった。
佐伯修一は、その日も空の棚を前にして、しばらく立ち尽くした。
昼休みは一時間しかない。店を出て、駅の向こうの定食屋まで歩くには微妙に遠い。かといって、残った照り焼きチキンに手を伸ばす気にもなれなかった。照り焼きチキンに罪はない。だが、食べたいものを食べられない昼は、午後の仕事まで薄くする。
レジ横に、小さな札が立っていた。
『人気商品のお取り置き承ります。三十分まで』
佐伯は半信半疑で店員に訊いた。
「唐揚げ弁当って、取り置きできますか」
若い店員は、まるでその質問を待っていたように笑った。
「できますよ。お名前をこちらに」
レシートの裏みたいな細い紙に名前を書くと、店員は奥から唐揚げ弁当を一つ出してきた。弁当の蓋には、黄色い札が貼られている。
『佐伯様 お取り置き』
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。
自分のために、世界のどこかが確保されている。
その感覚は、思ったより甘かった。
列の後ろにいた作業着の男が、弁当に目をやった。ほんの一瞬、羨ましそうな顔をした。佐伯は申し訳なさを覚えたが、それ以上に、小さな勝利のようなものを感じていた。
食べたいものを、食べたい時間に食べられる。
それだけで、一日が少しだけ自分のものになる。
唐揚げは冷めていた。けれど、悪くなかった。
それから、町にはお取り置きが増えていった。
人気のパン屋の限定クリームパン。駅前カフェの窓際席。美容院の順番。病院の診察枠。役所の窓口。保育園の見学会。映画館の通路側。雨の日のシェア傘。駅のホームのベンチ。
最初は便利だった。
並ばなくていい。焦らなくていい。奪い合わなくていい。
町は、ほんの少し賢くなったように見えた。
自治会の掲示板には、明るい色のポスターが貼られた。
『行列のない社会へ。合言葉は、お取り置きお願いします』
その下に、スマートフォン用のアプリの広告があった。
名前は〈とりおきくん〉。
画面を開くと、地図の上に小さなピンがいくつも立っている。店、病院、役所、駅、学校、商業施設。どこでも枠を押さえられる。どこでも順番を取れる。どこでも自分の場所を少しだけ未来に残しておける。
機能の中には、「譲る」というボタンもあった。
自分が取った枠を、より必要としている誰かに譲る。ボタンを押すと、相手に通知が行く。相手が受け取ると、アプリの画面に小さな花が咲く。
一輪、二輪、三輪。
花の数は、プロフィールに表示された。
誰かが言った。
「花の数って、人柄が見えるよね」
最初にそれを聞いたとき、佐伯は笑った。そんな大げさな、と思った。けれど、他人の画面に百輪の花が咲いているのを見たとき、自分でもその人をいい人だと思った。
花は、わかりやすかった。
やさしさは、本来なら見えない。見えないものは、伝わりにくい。だが花になれば、誰にでも見える。数えられる。比べられる。褒められる。
佐伯は、譲るのが得意だった。
得意という言い方は変かもしれない。けれど、彼自身はそう感じていた。
駅のホームでベビーカーを押す母親が困っていれば、ベンチの取り置きを譲った。病院で肩を落とす老人がいれば、診察枠を譲った。役所で「今日中に出さないと」と呟く若い男がいれば、窓口の順番を譲った。
譲ると、相手の顔がゆるむ。
その瞬間、佐伯の胸にも、同じ形の温度が生まれた。
アプリに花が咲く。
画面の中の花は、少し揺れる。風もないのに、ゆらりと揺れる。そのたびに、佐伯は自分が間違っていないような気がした。
妻の美咲は、はじめ、そんな佐伯を誇らしそうに見ていた。
「今日も誰かに譲ったの?」
夕食の支度をしながら、美咲はよくそう訊いた。
「うん。病院の枠。おじいさんが困ってたから」
「えらいね」
そう言って、美咲は笑った。
息子の陽太は、保育園の連絡帳に人の絵を描いた。頭の上に花がたくさん咲いている男の絵だった。
『パパ、おはな、いっぱい』
保育士が赤いペンで、かわいいですね、と書いてくれた。
佐伯はそのページを写真に撮り、アプリのプロフィール画像にした。花の数は、三十を超えていた。
ある日曜日、家族で動物園へ行った。
目当てはパンダだった。陽太は一週間前から、パンダのぬいぐるみを抱いて寝ていた。美咲は朝早く起きて、おにぎりを握った。佐伯はアプリでパンダ舎の整理券を取った。午前十一時。ちょうどいい時間だった。
動物園の入口で、若い父親に声をかけられた。
「すみません。うちの子、さっきから泣いてて……午前の枠じゃないと、もう体力がもたなくて。もしよかったら、枠を譲っていただけませんか」
父親の腕の中で、小さな子どもが顔を真っ赤にして泣いていた。母親らしき女性は、何度も頭を下げた。
佐伯は、アプリを開いた。
画面には、午前十一時の枠が光っている。
隣で陽太が、ぬいぐるみを抱きしめていた。
「パパ、パンダ?」
佐伯は一瞬、指を止めた。
美咲が横から言った。
「修一、今日は……」
その声は責めてはいなかった。ただ、少しだけ硬かった。
佐伯は父親の顔を見た。泣いている子どもの頬に、涙と鼻水が光っていた。周囲の視線がこちらに集まっているような気がした。
譲れば、助かる人がいる。
譲らなければ、自分たちが楽しめる。
たったそれだけのことなのに、判断は思ったより重かった。
佐伯は「譲渡」ボタンを押した。
画面に花が咲いた。
父親は何度も礼を言った。母親は泣きそうな顔で頭を下げた。泣いていた子どもは、まだ泣いていた。
陽太は、佐伯の手を握っていた。
「パンダ、あとで?」
「あとで見よう」
佐伯は言った。
午後の枠は、もうなかった。
代わりに、帰り道でクリームパンを買った。陽太はそれを両手で持ち、口のまわりを白くしながら食べた。
「おいしい?」
佐伯が訊くと、陽太は頷いた。
美咲は笑っていた。
笑っていたが、その笑い方は、パンダを見たかった子どもに向ける笑いではなかった。
それからも、佐伯は譲った。
譲ることは、正しかった。
妻の誕生日に予約していたレストランの窓際席を、妊婦に譲った。店員が困った顔で「本当にいいんですか」と訊いた。妊婦の夫は何度も頭を下げた。美咲は「いいよ」と言った。
その夜、二人は駅ビルの地下でうどんを食べた。
美咲は「温かいね」と言った。けれど、湯気の向こうの顔は、少し遠かった。
陽太の発表会の日、佐伯は最前列の席を祖父母連れの家族に譲った。祖母は足が悪そうだった。陽太は舞台の上で、何度も客席を探していた。佐伯は後ろの壁際に立って手を振ったが、陽太の目は別の方向を見ていた。
父の手術の日、面会枠を遠方から来た家族に譲った。父はその夜、電話で「忙しいなら仕方ない」と言った。
忙しいわけではなかった。
譲っただけだった。
だが、それを父に説明する気にはなれなかった。
アプリの花は増えた。
五十輪を超えた頃、自治会から表彰状が届いた。
『お取り置き優良市民賞』
公民館の壇上で、佐伯は紙のトロフィーを受け取った。自治会長は刺繍入りのベストを着ていた。拍手は上品で、軽かった。会長は「地域の宝です」と言った。
アプリには特別なバッジがついた。
『ゆずり名人』
条件は、年間百回以上の譲渡。
佐伯は、その時点で百二十七回だった。
家に帰ると、陽太がトロフィーを持ち上げた。
「パパ、すごい?」
「すごいよ」
美咲が答えた。
佐伯は笑った。
けれど、美咲がトロフィーを棚のどこに置くか迷っているのを見て、ふと気づいた。
花の数が増えるほど、家の中の置き場所が減っている。
それが何を意味するのか、そのときはまだわからなかった。
春の雨の夜、見慣れない通知が来た。
佐伯はリビングのソファに座り、スマートフォンを見ていた。美咲は洗い物をしている。陽太はテーブルの下で積み木を並べていた。
画面に、小さなベルが震えている。
花の通知ではない。
ベルは白く、どこか病院の呼び出しランプに似ていた。
佐伯は画面を開いた。
《お客様の人生本体のお取り置きは、本日で受取期限を迎えます》
しばらく意味がわからなかった。
人生本体。
そんなものを取り置いた覚えはない。
詳細を開く。
《お取り置き番号:L-001-SAEKI》
《保管場所:とりおきセンター本館B1F》
《受取期限:本日二十三時まで》
《期限を過ぎますと、お取り置きは自動的に処分されます》
《供養パックへの切替可》
佐伯は笑った。
笑い声は、喉の奥で引っかかった。
「どうしたの?」
美咲が訊いた。
「変な通知が来た。人生本体だって」
「何それ」
「迷惑通知かな」
そう言いながら、佐伯は画面を閉じられなかった。
残り時間が表示されている。
二時間十一分。
数字は、静かに減っていた。
とりおきセンターは、駅ビルの地下にあった。
佐伯は何度か利用したことがある。靴、家具、限定の菓子、クリーニング済みのコート。取り置いたものを受け取るだけの施設だった。入口の自動ドアの上には、いつもLEDの文字が流れている。
『本日も受け取りありがとうございます』
その夜、地下へ降りるエスカレーターは妙に長く感じた。
雨に濡れた靴の底が、金属の段で小さく鳴る。駅ビルの店はほとんど閉まり、シャッターの向こうに暗い商品棚が並んでいた。地下二階の通路には、消毒液と冷蔵庫の匂いが混じっていた。
とりおきセンターの受付には、制服を着た係員がいた。
笑顔の角度が、最初から決められているような顔だった。
「いらっしゃいませ。お取り置き番号をお願いします」
「L-001-SAEKI」
係員は端末に入力した。
その瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。
「少々お待ちください」
インカムで何かを告げる。奥の扉が開き、冷たい空気が漏れた。
しばらくして、台車が運ばれてきた。
透明な箱がいくつも積まれている。箱の内側には、白い霧が薄く貼りついていた。冷蔵保存されたケーキみたいでもあり、火葬場の収骨室に置かれた骨壺みたいでもあった。
「お待たせいたしました。佐伯様のお取り置き、本体一式です」
係員は、一つずつ読み上げた。
「若かった頃の夢、ひとつ」
箱の中に、古びたギターと、硬式テニスのラケットと、大学祭のポスターが重なって見えた。知らない国の路地の匂いもした。佐伯は学生時代、いつか海外を一人で歩きたいと思っていた。そんなことを思っていた自分がいたことを、ほとんど忘れていた。
「結婚記念日の夜景、ひとつ」
箱の中で、光の粒が眠っていた。高層ビルの窓。観覧車。美咲の横顔。まだ若かった二人の笑い声。ガラスの内側に、手の跡のような曇りが残っている。
「子の初めての声、ひとつ」
小さな波形が、薄い紙の上で震えていた。
再生ボタンはない。
ただ、そこにあるだけだった。
「父に返さなかった電話、ひとつ」
古い携帯電話の着信画面が、箱の底で青白く光っていた。佐伯は、父からの不在着信を何度も見て、あとでかけようと思い、そのまま忘れた日を思い出した。
「妻に言えなかった不満、ひとつ」
これは意外だった。
箱の中には、小さな黒い石が入っていた。水に濡れたような艶があり、思ったより重そうだった。佐伯は美咲に不満などないと思っていた。だが、ないのではなく、置いてきただけだったのかもしれない。
「妻から言われなかった不満、ひとつ」
その箱は、さらに重そうだった。
佐伯は目を逸らした。
「息子と雨宿りした十五分、ひとつ」
小さなビニール傘と、濡れた靴下の匂いがした。いつの記憶かわからない。けれど、陽太が笑っていた気がした。
「怒る権利、ひとつ」
赤い粒が、薄い袋に入っている。冷えていて、触る前から指が痛くなりそうだった。
「断る権利、ひとつ」
透明な板だった。
厚みはない。けれど、光を当てると、端が白く光った。
「最後の一口、ひとつ」
小さな皿に、ケーキの角が残っていた。フォークの跡がついている。
「未使用の休暇、十」
青い封筒が十枚。宛名は佐伯修一。差出人は空白。
係員は、最後の箱を持ち上げた。
ほかのどれよりも大きい。
中は、空に見えた。
空なのに、台車の車輪がぎしりと鳴った。
「人生本体、ひとつ」
箱の外側に、赤いシールが貼られていた。
『期限切れ』
佐伯は息を止めた。
「期限切れ……?」
「はい」
係員は申し訳なさそうな声を出したが、顔は変わらなかった。
「保管の温度、湿度ともに基準値内です。ただし、長期保管により品質保証の対象外となっております。お受け取りいただくことは可能ですが、風味、鮮度、効力についてはお約束できません」
「効力?」
「人生本体ですので」
係員は、当たり前のように言った。
「供養パックへの切替も承ります。供養をお選びいただくと、善意ポイントが加算されます」
「ポイント……」
「現在の佐伯様のランクですと、花が三十輪咲きます」
三十輪。
佐伯は、反射的にスマートフォンを見そうになった。
花が咲く。
それは、長いあいだ彼の身体に染みついてきた報酬だった。
譲れば、花が咲く。
我慢すれば、花が咲く。
諦めれば、誰かが助かる。
誰かが助かれば、自分はいい人になれる。
いい人になれば、誰かが褒めてくれる。
褒められれば、今日を少し許せる。
横のカウンターから声がした。
「供養でお願いします」
「ありがとうございます。花が五輪咲きました」
プリンターが領収書を吐き出す音がした。
どこで聞いても、同じ音だった。
病院でも、役所でも、コンビニでも、会社でも。
紙が出る音は、いつも軽い。
係員が、小さなスタンプを差し出した。
「お受け取りの場合は、こちらに自己責任印をお願いいたします」
スタンプの取っ手には、佐伯の名字が刻まれていた。
いつ作られたのだろう。
誰が作ったのだろう。
そう思ったが、訊かなかった。訊いても「規定です」と言われる気がした。
「供養にしますか?」
係員の声は柔らかかった。
柔らかすぎて、どこにも当たらなかった。
佐伯は、箱を見た。
若かった頃の夢。
結婚記念日の夜景。
子の初めての声。
父に返さなかった電話。
妻に言えなかった不満。
妻から言われなかった不満。
息子と雨宿りした十五分。
怒る権利。
断る権利。
最後の一口。
未使用の休暇。
人生本体。
それらは、いつの間にか取り置かれていた。
自分が譲るたびに、少しずつ棚に置かれていったのだろう。
便利な社会は、なくしたものを失くしたとは言わない。
保管中と言う。
処分を供養と言う。
我慢を善意と言う。
空っぽを効率と言う。
佐伯は、スタンプを持ち上げた。
朱肉の赤は濃かった。弁当についていたからしの匂いに似ていた。
押す場所は、小さな四角だった。
四角は、驚くほど狭い。
人が自分の人生を受け取るための場所は、こんなに小さいのかと思った。
「受け取ります」
佐伯は言った。
係員が一瞬、目を上げた。
その顔に、初めて笑顔以外のものが浮かんだ気がした。
「恐れ入ります。自己責任印を」
佐伯は押した。
音は、ほとんどしなかった。
けれど紙の上に、佐伯、という文字がくっきり残った。
自分で受け取った。
ただそれだけの印だった。
「ありがとうございました。温めカウンターはあちらです」
「温め?」
「期限切れのお品物は、十分に温め直すことで、ある程度、風味が戻る場合がございます」
温めカウンターは、コンビニの電子レンジに似ていた。
ガラスの扉が並び、横に説明書きがある。
『若かった頃の夢:低温でじっくり。焦がすと苦味が出ます』
『結婚記念日の夜景:光の粒が立つまで』
『子の初めての声:温めすぎ注意。壊れやすい品です』
『怒る権利:冷たいままでお召し上がりください』
『断る権利:開封後、すぐにお使いください』
『最後の一口:そのままどうぞ』
『未使用の休暇:湯煎可』
『人生本体:個人差があります』
佐伯は、笑ってしまった。
笑うと、胸の奥から何かが逆流した。
悔しさなのか、情けなさなのか、怒りなのか、わからなかった。わからないものまで取り置かれていたのかもしれない。
彼は箱を一つずつ開けた。
若かった頃の夢を低温で温めると、ギターの弦がかすかに鳴った。音はひどく下手だった。けれど、指先が少し熱くなった。
結婚記念日の夜景は、温めると光の粒が立った。美咲が笑っている。あの頃の美咲は、今より若い。当たり前だ。けれど、今の美咲が失われたわけではない。ただ、あの夜を置いたまま、二人は歩いてきたのだ。
子の初めての声は、温めすぎると壊れそうだった。佐伯はすぐに取り出した。波形は震え、音にはならなかった。けれど、胸の奥に、小さな「あ」が落ちた。陽太が初めて出した声。意味はなかった。意味がないから、全部だった。
父に返さなかった電話は、温めても着信音だけが鳴った。出ることはできなかった。画面には、父、と表示されている。佐伯はその箱をポケットに入れた。返せない電話でも、持って帰ることはできる。
妻に言えなかった不満は、黒い石のままだった。温めると、表面の水気だけが乾いた。軽くはならなかった。
妻から言われなかった不満は、さらに重かった。佐伯は両手で持たなければならなかった。これを美咲はずっと持っていたのかと思うと、膝の裏が冷えた。
怒る権利は、説明書き通り冷たいまま袋を破った。
赤い粒を口に含むと、舌が痛んだ。
その痛みは、妙に懐かしかった。
怒ることは悪いことだと思っていた。誰かを困らせることだと思っていた。空気を悪くすることだと思っていた。
だが、怒りは体温だった。
体温がなければ、痛い場所もわからない。
断る権利は、透明な板だった。
口に入れると、ぱきん、と小さく弾けた。
味はなかった。
けれど、喉が少し広くなった。
最後の一口は、砂糖が飛んでいた。スポンジは乾き、クリームは少し固い。それでも、悪くなかった。最後だから美味しいものがある。誰かに譲れば美しいものもある。けれど、自分で食べなければわからない甘さもある。
未使用の休暇は、湯煎すると封筒がふくらんだ。中から、海の匂いがした。昼寝の匂いもした。何もしない午後の匂いもした。
人生本体は、最後に残した。
箱の中は空に見える。
佐伯は、ガラス扉の中にそれを入れた。
温めボタンを押す。
機械は低い音を立てた。
白い霧が少しずつ薄れていく。
何かが現れるのを待ったが、何も現れなかった。
代わりに、佐伯自身の手が温かくなった。
指の関節、手首、肘、肩、胸、腹、膝、足首。
身体の輪郭が、内側から戻ってくる。
だが、完全ではなかった。
胸の真ん中に、冷たい場所が残っている。
そこは、長いあいだ空いていたせいで、もう形が変わってしまったのだろう。
係員が言ったとおり、品質保証の対象外だった。
温め直しても、戻らないものはある。
佐伯は、それを抱えたまま帰ることにした。
領収書には、合計金額が印字されていた。
『¥0』
右上に、黒い文字があった。
『お受取内容:本日』
佐伯は領収書を折り、ポケットに入れた。
折り目は、思ったより柔らかかった。
外に出ると、雨が降っていた。
佐伯は傘を取り置いていなかった。
駅前のシェア傘スタンドには、「ご自由にどうぞ。返却は明日」と貼ってある。佐伯は一本抜き取った。ビニール傘の骨は軽い。雨粒が透明な面を叩き、細い筋を作った。
明日、返せるだろうか。
返せなかったら、どうなるだろうか。
そう思って、少し笑った。
家に帰ると、美咲が食卓の片づけをしていた。
陽太は床に座り、積み木を箱に戻している。
「遅かったね」
美咲が言った。
「ごめん」
「ご飯、残してある。温める?」
佐伯は、少し迷った。
それから、ポケットから透明な板の欠片を取り出した。
断る権利は、もうほとんど溶けていた。けれど、端が少しだけ残っている。
「温めなくていい」
佐伯は言った。
「冷めたまま食べる」
美咲は不思議そうに彼を見た。
「おいしくないよ」
「いい」
佐伯は椅子に座った。
皿の上のパスタは伸びていた。ソースは乾きかけている。フォークで巻くと、麺が重かった。
美咲は向かいに座らず、キッチンの横に立っていた。
佐伯は言った。
「美咲」
「何?」
「今夜は、君の席を譲らない」
美咲は目を瞬いた。
「何それ」
「誰にも譲らない。俺も立たない。ここに座ってほしい」
美咲はしばらく黙っていた。
それから、椅子を引いて座った。
椅子の脚が床をこする音がした。
「予約してないけど」
美咲が言った。
「予約、やめてみようと思う」
「急に?」
「急に」
佐伯は頷いた。
「全部、取り置きすぎた」
美咲は笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、疲れた顔で言った。
「私、何回も言おうとしたよ」
「うん」
「でも、言うと私が悪い人みたいになるから、やめた」
「うん」
「陽太、パンダ見たかったんだよ」
「うん」
「あなたのお父さんも、待ってたと思う」
「うん」
「私も、誕生日の夜、窓際の席に座りたかった」
佐伯は、フォークを置いた。
皿の上で、パスタが静かに冷えていく。
「ごめん」
それしか言えなかった。
謝れば済むわけではない。わかっていた。謝罪は、失ったものを元に戻すための万能券ではない。
けれど、言わなければ始まらない。
美咲は少しだけ目を伏せた。
「いい人なのは、悪いことじゃないよ」
「うん」
「でも、家の中でまで、ずっといい人でいられると、私たちはどこに座ればいいのかわからなくなる」
その言葉は、黒い石のようにテーブルの上に置かれた。
佐伯は、妻から言われなかった不満の箱を思い出した。
重かった。
あれは、こういう重さだったのだ。
陽太が近づいてきた。
「パパ、おはなは?」
佐伯はスマートフォンを見た。
アプリを開けば、花が咲いている。百を超えた花。褒められた証拠。誰かに譲った記録。
彼はスマートフォンを伏せた。
「今日は、咲かせない」
「なんで?」
「今日は、パパが食べる日」
陽太は首を傾げた。
「さいごのひとくち?」
「うん。最後の一口も、たまにはパパが食べる」
陽太は少し考えてから、自分の皿に残っていた小さな卵焼きを見た。
「じゃあ、これは、ようた」
「うん。陽太の」
陽太は嬉しそうに卵焼きを食べた。
その顔を見て、佐伯は思った。
譲らないことで、誰かが笑うこともある。
翌朝、佐伯は会社に電話した。
「午前中、休みます」
総務の女性は驚いたようだった。
「体調不良ですか」
「いえ。父の病院に行きます」
「有休ですか」
「はい」
「申請は事前に」
「事後になります」
沈黙があった。
佐伯は謝りそうになった。代わりに、息を吸った。
「すみません。でも、休みます」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「……わかりました」
その「わかりました」は、思ったより柔らかかった。
午前中、佐伯は父の病院へ行った。
面会室の横に、小さな札が下がっていた。
『空いています』
空いているなら、入ってもいい。
それだけのことが、ひどく新鮮だった。
父はベッドの上で、窓の外を見ていた。木の葉が風に揺れている。病室には薬品と洗濯物の匂いがした。
「来たか」
父が言った。
「来た」
「今日は誰かに譲らなかったのか」
佐伯は苦笑した。
「譲らなかった」
「そうか」
父は頷いた。
「たまにはいい」
それだけだった。
けれど、佐伯には十分だった。
午後、保育園からメッセージが来た。
『陽太くん、お昼寝明けに少し元気がありません。お時間あれば園庭に寄れますか』
佐伯は返信した。
『予約していませんが、行きます』
保育士からすぐに返事が来た。
『大丈夫です。ベンチは空いています』
園庭のベンチは、取り置きできない。
座れば、座れる。
佐伯が座って待っていると、陽太が眠そうな顔で走ってきた。
「パパ、なんで?」
「会いたかったから」
「おしごとは?」
「少し休んだ」
「いいの?」
「いいことにした」
陽太は佐伯の膝に頭を乗せた。
その重さは、予約できない重さだった。
翌日、同僚の岸本に昼食へ誘われた。
「人気のラーメン屋、席取っといたぞ」
以前なら、佐伯は礼を言ってついていっただろう。
だが、その日は首を横に振った。
「ありがとう。でも、今日は並ぶ」
「は?」
「席は取らなくていい」
「混むぞ」
「混んだら待つ」
岸本は呆れた顔をしたが、なぜか一緒に並んだ。
店の外には十人ほどの列ができていた。前の客が振り向き、「急いでるなら先どうぞ」と言った。
佐伯は言った。
「大丈夫です」
断るのは、思ったより難しくなかった。
断ったあと、列の空気が少しだけ変わった。誰かが悪くなるわけではない。誰かが失礼になるわけでもない。ただ、それぞれがそれぞれの順番に立つだけだった。
ラーメンが来たとき、湯気で眼鏡が曇った。
佐伯は曇りを指で拭い、麺をすすった。
舌が少し火傷した。
痛かった。
痛いのは、悪くなかった。
「最近、変わったな」
岸本が言った。
「そうかな」
「前は、何でも譲ってたのに」
「譲るのをやめたわけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「自分まで譲るのをやめた」
岸本は意味がわからないという顔をした。
佐伯も、うまく説明できるとは思っていなかった。
ただ、ラーメンは熱かった。
それだけで十分だった。
数日後、自治会から通知が来た。
『お取り置き優良市民賞制度の見直しについて』
善意ポイントの付与率が下がるらしい。花の表示も、今後は非公開になるという。理由は「過度な譲渡行為による生活満足度低下の報告が複数確認されたため」と書かれていた。
回覧板には、別の紙も挟まっていた。
『お困りの方は、声をかけてください』
下に小さく、こう書かれていた。
『断ることもできます』
佐伯はその紙を、玄関の壁に貼った。
美咲がそれを見て、少し笑った。
「貼るんだ」
「うん」
「本当に変わったね」
「まだ途中」
「途中でいいよ」
その夜、陽太がケーキの最後の一口を皿に残した。
「パパ、いる?」
佐伯はその一口を見た。
以前なら、陽太に食べなさいと言ったかもしれない。あるいは、美咲に譲ったかもしれない。誰かに渡すことで、自分は満足したふりをしたかもしれない。
佐伯は訊いた。
「陽太は、いらないの?」
「うん。パパにあげる」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、もらう」
彼は最後の一口を食べた。
クリームは少しぬるかった。
甘さは、はっきりしていた。
眠る前、とりおきセンターの領収書を取り出した。
『お受取内容:本日』
佐伯はその裏に、ボールペンで小さく書き足した。
『返却不可』
自分の字は少し震えていた。
震えている字は、誰かに見せるには格好悪い。
けれど、自分の字だった。
電気を消すと、部屋が暗くなった。
明日の予定を確認しようとして、佐伯はスマートフォンに手を伸ばした。けれど、途中でやめた。
明日は、明日でいい。
そう思うと、眠りは少し深くなった。
夢の中で、透明な箱の白い霧が薄れていった。霧の向こうには、若かった頃の夢がある。結婚記念日の夜景がある。子の初めての声がある。返さなかった電話がある。言えなかった不満がある。断る権利がある。
すべてが戻るわけではない。
戻らないものも、そこにある。
けれど、温め直すことはできる。
翌朝、玄関を出ると、雨上がりの道路に小さな水たまりが残っていた。
駅へ向かう途中、ベビーカーを押す母親と目が合った。彼女は少し困ったように会釈した。電車は混んでいるだろう。席は足りないだろう。
佐伯は会釈を返した。
今日、譲るかもしれない。
譲らないかもしれない。
それは、そのとき決めればいい。
改札の向こうで、アナウンスが流れた。
『本日は混雑が予想されます。譲り合いにご協力ください』
協力、という言葉は嫌いではない。
ただ、その中に自分を置き忘れないようにしようと思った。
ホームには列ができていた。
佐伯は最後尾に並んだ。
前の人が進めば進む。止まれば止まる。誰かが「どうぞ」と言い、誰かが「大丈夫です」と答える。譲り、断り、また譲る。そのたびに、小さな音が生まれて消えた。
昼休み、佐伯は駅前のコンビニへ行った。
唐揚げ弁当の棚は空だった。
レジ横には、今も札が立っている。
『お取り置き承ります』
佐伯はしばらくそれを見た。
店員が訊いた。
「何かお取り置きしますか」
佐伯は棚に残っていた白身魚フライ弁当を手に取った。
「今日は、これで」
店員は少し驚いた顔をした。
佐伯は弁当を持って、会社近くの小さな公園へ行った。
ベンチは一つ空いていた。
取り置きではない。
誰かが使い終えて、ただ空いていた。
佐伯はそこに座り、弁当の蓋を開けた。
白身魚フライは、少し冷めていた。
ソースの袋を開けると、指に少しついた。
空は曇っていた。
風は、予約せずに吹いた。
佐伯は一口食べた。
食べたいものではなかった。
けれど、今日の味がした。
スマートフォンが震えた。
〈とりおきくん〉の通知だった。
《お取り置きは、ほどほどに》
画面の隅に、小さな文字が浮かんでいる。
花はもう咲かない。
佐伯は通知を消した。
ポケットの中で、領収書の折り目が指に触れた。
今日という紙は、まだ白い。
何を書くかは、まだ決まっていない。
それが少し不便で、少し怖くて、そして少し温かかった。
午後の風が、彼の頬に当たった。
冷たかった。
悪くなかった。
了




