第2話「追放の旅路」
朝靄に包まれた王都の南門を抜けると、そこには広大な灰色の道が延びていた。石畳はすぐに尽き、土の街道が湿った空気を含んで沈んでいる。
馬車の車輪が軋みを上げ、護衛の兵が無言で隣を歩いた。彼らは目を合わせることすらせず、ただ「任務」をこなしているだけだった。
リディアはフードを深くかぶり、荷台の端に腰を下ろす。王都の尖塔が視界の端で小さくなるたび、胸の奥が重く沈む。
婚約破棄、勘当、追放。――たった一晩で全てを失ったのだ。
けれど、涙は出なかった。泣いても誰も手を差し伸べない。ならば前を見るしかない。
昼を過ぎた頃、馬車は小さな村に着いた。旅人が立ち寄る程度の宿場で、屋根は苔むし、井戸の水も少し濁っている。
護衛の兵は酒場へ入り、粗末な食事をとった。リディアも同じ席に座らされたが、周囲の視線が突き刺さる。
「あれが侯爵家のお嬢様だって?」
「追放されたらしい。王太子に恥をかかせたとか」
「ふん、どんなに美しくても地位がなけりゃ只の女だ」
低い囁きが耳に届く。リディアは俯き、パンをちぎった。味はなく、喉を通すのも苦しかった。
だが、その時ふと気づく。井戸の水を汲んできた少年の腕に赤い斑点が浮かんでいた。――伝染の兆候だ。
「水は控えた方がいいわ」
リディアは思わず声を掛ける。少年の母親が怪訝な顔をするが、続けて症状を説明し、薬草での処置法を伝えると、その表情は驚きに変わった。
「お嬢様……ありがとうございます」
母親は深く頭を下げた。兵士たちは鼻で笑ったが、リディアの胸の奥で何かが微かに灯る。
――奪われたものは多い。だが、知識も術も、誰にも奪えない。
三日目の夕刻、馬車は山道へ差し掛かった。舗装は途切れ、崖沿いの道は泥に崩れかけている。
その時、矢がひとつ、唸りをあげて兵士の盾に突き立った。
「山賊だ!」
護衛が叫ぶ。木陰から粗末な武装の男たちが現れた。人数は十ほど。馬車の御者が慌てて手綱を引く。
「金目のものを置いていけ!」
兵士たちは剣を抜いたが、数で劣る。リディアは荷台に身を伏せながら、胸元の袋から銀のコンパスを取り出した。
祖母の言葉が蘇る――火を制し、風を読む。
指先で紋をなぞり、呪句を小声で紡ぐ。すると周囲の風が渦を巻き、松明の炎が勢いを増して舞い上がった。
突如、山賊たちの視界が炎と煙に覆われ、悲鳴が上がる。兵士たちがその隙を突いて斬り込み、山賊は散り散りに逃げていった。
「今の……嬢ちゃんが?」
兵士の一人が驚きの声を上げた。リディアは答えず、ただコンパスを握りしめた。
(私はまだ、生きられる。生き延びてみせる)
馬車は再び進み出す。夜空には無数の星が瞬き、遠くに黒々とした森が見えた。
その先が、彼女に割り当てられた「辺境」――誰も顧みない追放の地。
リディアは深く息を吸い、目を閉じる。
ここからが、真の始まりだと心に刻みながら。