第5話「夫婦としての約束と、初めてのキス」
夜――。
大学から帰宅した悠真は、玄関を開けた瞬間にその空気の重さに気づいた。
「……帰ったよ」
「ちょっと来て」
リビングで腕を組んで立っていた瑞希が、真っ直ぐに弟を睨んでいた。
その奥では、美紅がソファに座って膝を抱え、申し訳なさそうに小さくなっている。
「……何、姉ちゃん」
「何、じゃない」
瑞希の口調には、明らかに苛立ちと心配が混ざっていた。
「今日、あんた見てたよね? あの大学の男子たちが美紅に声かけて、写真撮ろうとして、勝手に握手して……見てて、何も感じなかったの?」
悠真は答えられなかった。感じていた。胸が焼けるように苦しくて、握り拳が震えるくらい悔しかった。でも、それを“怒る権利”が自分にあるのか迷っていた。
「……俺だって、悔しかったよ。でも、まだ“公表”できるわけじゃないし……」
「そんなの関係ないよ。大事な奥さんが無遠慮に触られてるのを見て、何もしないのは違う。美紅は大丈夫って言ってるけど、あれを何度も繰り返されたら、心がすり減るのよ?」
美紅は、すぐ隣で申し訳なさそうに首を振った。
「……ごめんね、瑞希。気をつけるね」
「ううん、悪いのは美紅じゃない。あんたたちがどう向き合うかで、変わるんだよ」
瑞希はそう言い残すと「風呂は先に使っていいよ」とキッチンへ向かった。
悠真と美紅はしばらく黙って立ち尽くしていた。
やがて、静かに目を合わせたふたりは、そっと言葉を交わす。
「……俺、やっぱり悔しかった。君が他の男に触れられてるの、見たくなかった」
「……私も、本当は……嬉しかったよ。悠真くんが、ああやって見ててくれるのが分かったから」
ふたりの距離が、ゆっくりと近づいていく。
ソファの前で、美紅がそっと目を閉じた。
「じゃあ……誓いの、キス。してみる?」
「……うん」
唇が触れ合った瞬間、世界の音が遠のいた。
柔らかく、優しく、けれど思いがあふれるように――
次第に深く、長く、そして甘く絡んでいく。
美紅の指先が、悠真の服の裾をそっと掴む。
恥じらいと、安心と、恋しさと。
その全てがこもった“初めてのキス”だった。
そして――
「……ふふ、見てたよ?」
突然の声にふたりが驚いて顔を上げると、キッチンで棚の扉を開けようとしていた瑞希が、こちらを見ていた。
「……あ、あの……!」
美紅は顔を真っ赤にし、悠真は言葉を失った。
しかし瑞希はにやりと笑って、
「いいわよ、気にしないで。
どうせ夫婦でしょ? 思う存分、満足するぐらいの熱いキスしときなさい」
そう言って、卵を割りながら平然と調理を始めた。
恥ずかしさに言葉を詰まらせながらも、瑞希が背中を向けたのを確認すると、ふたりは再び自然に唇を重ねた。
2分、5分、10分――
どれほどの時間が経ったのか分からないほど、ただ静かに、甘く深く、唇を重ね合う。
誰かに愛されていること。
誰かを、守りたいと思えること。
たったひとつのキスで、それを実感していた。
――やがて料理が出来るまでのあいだ、ふたりは30分近く、
キッチンの隣で“夫婦としての初めての約束”を、
キスという形で確かめ合っていた。
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