スピンオフ第1話「私の中の、“恋の芽”」
モデル事務所の一角。
撮影帰りの美紅と軽く会釈を交わした瑞稀は、応接スペースで誰かを待っていた。
「……遅いな、あの人」
そう呟いたその瞬間、入口から走ってくるひとりの男性。
髪はやや無造作で、眼鏡の奥に落ち着いた瞳――
そして手には、忘れ物を取りに来たらしい資料の束。
「あっ、すみません! 神谷さん、お待たせしました」
「いえ……こちらこそ、お忙しいのに」
彼の名前は桐山尚吾、31歳。
事務所の外部スタッフとして数年前から撮影現場に関わっていたが、瑞稀とはあまり深い会話をしたことはなかった。
けれどこの日。
彼が渡した書類に添えられていた、何気ないひと言。
「瑞稀さんが立ててくれた現場スケジュール、本当に助かってます。
正直、あの精度じゃないと美紅さんの撮影、うまくいってなかったと思いますよ」
――その言葉が、瑞稀の心のどこかを、やさしく突いた。
自分の働きを、そうやって誰かが見てくれていたこと。
しかも、美紅を通してではなく、「自分自身」に向けて言ってくれたこと。
「……ありがとうございます。少し、報われた気がします」
「あ、あの。もしよかったら――このあと少し、コーヒーでも。どうですか?」
その言葉に、瑞稀は少しだけ間を置いてから、微笑んだ。
「……いいですね。じゃあ、近くの喫茶店、案内します」
◇
それから数週間。
ふたりは連絡を取り合うようになった。
コーヒーを飲みながらの仕事談義、映画の話、時には美紅と悠真のことも。
ある晩、瑞稀は自宅のリビングでひとり、スマホの画面を見つめていた。
《今日はありがとう。
瑞稀さんの笑った顔、ずっと見ていたくなりました》
その一文に、胸がドクンと鳴った。
“笑った顔”――そんな風に、誰かに言われたのはいつぶりだろう。
モデルでもない、マネージャーでもない、
“姉”でも“先輩”でもない――神谷瑞稀そのものを見てくれる人。
恋なんてもう、自分には来ないと思っていたのに。
「……まさかね」
でも、心はもう、静かに芽吹き始めていた。
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