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第2話 熱き波濤

「我が征くは、咖喱の大海」


──寮生共用の台所にて


***         


 妄想の帝国は去り、怠惰な男子学生が残った。

 私が四畳半帝国の統治にかまけているうちに四季が一巡した。


 私は成人していた。何故私は自らを妄想の帝国に埋没させてしまったか。何も四畳半の王となることを志して受験戦争を戦ったわけではない、はずだ。


 とにかく玉葱師匠の加齢臭で目がさめた私は社会復帰の道を模索した。


 遅れに遅れた学業の方は、まあ、あと三年もあるのだから一旦置いておく。そんなことよりも、人並みの生活に戻ることを考える。


 健康で文化的な最低限度の生活を! 


 文化に関してはこの一年で享受しすぎて中毒のきらいがある。とにかく生活のことを考えるべきである。


 衣食住そろいてなんとやら、という。衣については悲しいかな誰に見せるわけでもないので良しとする。住に関しては言うまでもなく、この素晴らしき四畳半があるので無問題。 


 やはり問題は食である。


2

 私がピカピカの大学一年生だったころ。親元を離れ、はるばる大阪くんだりまでやってきた私は気力に満ち溢れ、希望で胸が爆発寸前であった。


 十代にして半ば自立し、自らを研磨させんと決意していた私は、入寮して、まず身の回りのものを一通り揃えた。


 当然そのなかには調理道具一式もあったし、一人暮らしを始めて数週間は自炊をしていた。


 それがなぜ四畳半で三食コンビニ弁当を食らって、弁当殻を部屋の隅に積み上げるまでに堕落したか。それを語りたい。


 浪花大学昇陽寮は大阪府の北部に位置する。この地域は目下開発中。大阪のフロンティアである。


 すなわち、寮の周辺は開発中の高級住宅街であり、店が少ない。唯一徒歩圏内のスーパーは、若干お高い。


 さらには昇陽寮はその名が如く、高地にあるため、お手頃なスーパーを求めて遠征するには相応の覚悟が必要である。自転車で行こうものなら、行きはよいよい帰りは後悔、となること必至である。


 山が近いため、しばしば野生動物に遭遇することもある。とある昇陽寮生は、下界で(昇陽寮生は寮前の坂を下ることを下界へ降りる、という)トウモロコシを買い、うきうきで帰ってきたところ、自転車置き場にて猿に襲われた。


 略奪者との三十分に及ぶ死闘の末、トウモロコシを奪われた彼は、顔から鼻血と血涙を垂らしたという。


 また、ある寮生は猪と遭遇した。相撲部に所属していた彼は、猪並みの力と知性を備えていたため、大股を開き、正面から猪に立ち向かった。


 勝負は一瞬でついた。素早さと躊躇のなさにおいては野生の猪に人が敵うべくもなかった。


 その寮生は不幸にも足の長さまで猪並みであったので、猪の突進を股間でまともに受けてしまい、昏倒したのである。彼の巨体が坂を転げ落ちていく様は近隣住民の間で伝説となった。


 さて、何が言いたいのかと言えば、つまるところ自炊は面倒だ、ということである。


 なぜ、ただ自分一人の腹の虫を黙らせるために手間をかけねばならないのか?そう思い至った春の日に、ピカピカの包丁を握るピカピカの一年生の私の手は止まった。


 みずみずしい新玉葱から吹き出した飛沫が眼球を直撃したとき、私の心はぽっきりと折れたのであった。


 張り切って揃えた包丁、フライパン、鍋、皿、エトセトラエトセトラ。これらが蜘蛛の住みかとなるまでにそう長くはかからなかった。


3

 挫折から約一年。私は決意新たに調理道具を磨いていた。修羅の気持ちで蜘蛛の巣を取り払い、仏の気持ちで包丁を研いだ。今度こそ、私は一人前の自炊生活者となって見せよう!


 一週間後、蜘蛛の王国は再建され、包丁はなまくらに逆戻りしていた。なぜか? 


 変わったのは私の心だけで、環境は何も変わっていないからである。秋の空と私の心ほど移ろいやすいものはない。私ごときの決心など、腐った玉葱程度のかたさである。それに対し、私を取り巻く条件はなにも変わっていない。


 一朝一夕で庶民的スーパーが近所に建つわけもなく、地殻変動がおこって坂が平らげられるなどということもなかった。


 コンビニ弁当で腹を満たしながら、私は慚愧の念に悶えていた。なぜ私はこうなのだ?一年でまるで成長していないではないか。


──四畳半にひきこもっていて成長のあるわけもないのだが……。


 くよくよしてもしかたないので、私は弁当殻を市指定高級ゴミ袋に放り込み、みそぎをすることにした。


 昇陽寮には共用の大浴場がある。二十四時間年中無休で風呂に入り放題なので、助かっている。私が人として多くのモノを無くしつつも、最低限の健康と清潔を保てているのは大浴場のおかげだ。


 まだ日もくれる前で、私以外に利用者はいなかった。最初の利用者の権利、義務として、浴槽の蛇口をひねった。


 湯が満ちるまで入念に体を洗う。私は頭から洗う派である。


 足の指と指の間を擦りながら思う、母とは偉大であった。


 実家を離れてみて始めて気付く。夕方になれば勝手に出来上がっていると思っていた夕食の背後に、母の尽力があったことを。母の無償の愛が、私を生かしていたのだ。目から滝のように水が流れ、石鹸を洗い流した。


 そうこうしている内に湯船から湯がこぼれていた。私は勿体ないと思うこともなく浴槽へ飛び込み、盛大に湯を溢れさせた。


 湯に浸かりながら考える。なにかないか。自炊を長続きさせる手は?


 答えのでないまま、十分、二十分と湯に浸かっている内に、だんだんと自分が煮込まれいるような気分になってきた。コトコトコトコトコトコト。 


──朦朧とする意識


 沈みゆく体。最後に母の作ったカレーが食べたかった……

 三途の川で茹でられるイメージが脳内に広がりかけたそのとき、天井から結露の雫が額に落ちだ。私に電流走る!


──ユリイカッ!!


 私は鯉が天へと昇らんとするがごとく飛び上がった。カレーだ!!カレーこそが解である!!


4

 私にとってカレーほど好都合なものはない。


 作り方は簡単、市販のルウを使えば失敗しない。失敗するような奴はよほどの馬鹿か天才である。私はそのどちらでもない、はず。


 カレーは一度に大量生産でき、ある程度の日持ちがする。一度作れば一週間は生きられる。


 凡人を自認する私であるが、私になにか特異性があるとすれば、三食カレーと言う日が何日続こうとも、カレーを食べたときの満足感に微塵の曇りも生じぬことであろう。


 経済学を学ぶ読者があれば、限界効用逓減の法則には、私という例外があることを覚えておいて欲しい。試験にはでない。


 こうして私は母の愛からカレー作りに目覚め、カレー道という大海へ乗り出すことになった。我が征くは咖喱の大海。熱き波濤の果てに、私が求めるものがある。


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