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疑うらくは是、命が九天より落つるかと(馬終話)  作者: 蔵前
十六 君が帰って来るならば僕は何度だって言おう
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おかえりなさい

「おかえりなさい!」


 抱きついてきた美女に青年は微笑んだ。

 本当に美女だ。

 彼女の美しさは世の男共の垂涎の的であろう。

 気立てが良いのであれば尚更だ。

 家事が出来ないのは仕方がない。

 代わりに彼がしてやればいいだけだ。


 何度も襲撃に遭う度に居を変え宿を変え、辿り着いた先が六畳一間のアパートである。

 ここは彼が住んだことは無いが、おぼろげに友人が住んでいた部屋だったと思い出して見回した。

 彼自身呼ばれたことの無い場所であるから、中はどの様にしていたのかは知りえないので、結局は友人の現在の居間と同じ設えとなってしまっている。


 友人が父親と過ごした時間が止まった部屋。

 最近では愛する人間のために次々と物が増えて、騒々しくなっている空間。

 しかし彼が再び見回した空間は、六畳一間に小さな炬燵があるだけの、殺風景な寂しい部屋である。

 みすぼらしい裸電球に、ぼろぼろの畳。


 彼は母親が客を取っている間、今立っているこの土間で身を縮めて怯えていたのだ。

 自分もその行為に参加させられませんように、と。


「おかえりなさい!」


 先程の呼びかけよりも強く叫ばれた声に彼は一瞬怯み、目の前の六畳間は新婚家庭の乱雑な部屋と変わった。

 部屋の中心のちゃぶ台には、面長の顔をした美しい少女が彼に微笑んでいる。


「葉子。」


 少女はふっと消え去り、彼はぎゅっと自分が強く抱きしめられた感触に、自分が抱きしめられ抱きしめていた腕の中の美女を見下ろした。

 彼女は日名子ではない。

 結局は本物の彼女の姿を求めてしまったのだ。

 そしてなぜか、自分自身も本来の姿ではなく、憎らしい父親とそっくりな現在の姿をいつの間にか纏っていた。

 否、気がつくとこの姿なのだ。

 だが、彼女は大柄で不恰好な男よりも中肉中背の色男の姿の方が好みらしいから構わないだろうと、彼は彼女の愛を求める浅ましい自分を笑い、美しい彼女が愛しているのは自分ではないという空しさを心の奥に隠して、彼女の気を解すために精一杯の微笑を浮かべた。


「君は本当に美しいよ。」


「今日はどこに行っていたの?」


 彼は笑ってごまかした。

 彼はどこにも行っていない。

 何度も何度も繰り返しているだけだ。


 彼が家に戻り、愛する女性に出迎えてもらう。

 彼女は何度も付き合い、何度も彼の姿に喜んでしがみついてくれる。


 それはそうだろう。

 彼女は彼によって監禁されている虜囚でしかない。

 牢番が戻らねば彼女の死だ。

 時々暴漢の襲撃まであるのだ。

 彼女は彼に守ってもらおうと一生懸命になるだろう。


 ストックホルム症候群そのものだ。


 それでも自分を出迎えてくれる家族がいると考えるだけで、彼はどうしてこんなにも心が弾むのだろうかと考える。腕の中の彼女は温かい。

 生きている。


「お腹は空いていないかい?何か作ろうか?」


「不思議ね。いつもいつもお腹が空いていたのに、ここに来てから私はお腹が空かない。ねぇ、かわちゃん、あの。」


「シッ。」


 楊は玄人の口を指先で軽く塞いだ。


「君は別の人間でしょう。さぁ、思い出して。前世の記憶は捨ててしまって。君は誰?」


 腕の中の美女は眉根を寄せて彼を暫し見つめてから、視線を部屋にさまよわせた。

 そうすれば自分が誰なのか思い出せるかのように。


「それに俺はかわちゃんじゃないよ。別人の男性の名前を唱えられるのはとてもとても辛いからね。さぁ、お願いだから本当の君に戻って。」


 しかし、彼女は何も答えなかった。

 玄人は大きな瞳から涙を次々と零すだけだ。

 楊は大きく溜息をついて彼を抱きしめた。

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