山口淳平の場合
世田谷総合病院の地下駐車場に降りたはずが、エレベーターの扉が開いて出てみれば、そこは大型スーパーの立体駐車場であった。
「え、嘘。ここは?どうして。」
山口は呆然としながら辺りを見回し、そして、この駐車場どころか、駐車場をもつ大型スーパー自体が彼がよく利用している相模原のものであると完全に理解した。
「俺は世田谷の病院にいたはずだ。」
「この大嘘つきが!」
男の怒号につづく人の悲鳴を聞き、山口は無意識にその現場へと走り出していた。
「助けて!誰か!助けて!」
「俺を騙したんだな。騙して笑っていたんだ!」
遠くからでも聞こえる人を殴る音。
悲鳴。
「警察だ!その手を止めて動きも止めろ!」
暴力行為を止めるだけのために、山口はまだ見えない暴行現場へ叫び声を上げ、一層に足を早めた。
すると、山口の声に呼応するように被害者が叫んだのだ。
「助けて!淳平君、淳平君、助けて!」
目を見開くほど驚愕しながら山口がようやく辿り着いてみれば、殴られて倒れている人物の血まみれの顔は玄人である。
そして、山口の目の前には見覚えのある男。
「お前!元井和也!何をしているんだ!」
元井は山口の姿に恐慌に陥ったか、くるっと身を翻すと反対方向へと駆けていった。
山口は元井などは後ほど捕えればよいと判断し、かなり顔を殴られて呻いている玄人へと向かった。
「じゅ、淳平く……ん。たすけ、に、きてくれた。うれ……しい。」
目を細め、嬉しそうに山口に右手を伸ばした玄人の手を山口はつかみ、力をこめた。
「あうっ。」
山口は彼の右手に指の関節を押さえつけられて痛みに喘ぐ玄人の様に、笑顔を貼り付けた無表情で観察するだけであり、喘ぐ玄人は大きく脅えの息を吸った。
「あぁ!どうして。淳平、くん?」
「クロトはどこ?クロトのふりをしているなら、君は知っているよね。今塚。」
簡単に名前を言い当てられた今塚子規は山口を見上げ、そして完全に山口から愛情が消えていることも、山口が自分が考えていた男で無かった事を一瞬で理解した。
山口自身は、自分が昔抱いた男が、自分の愛する人物そっくりに姿を変えてまでも自分に縋ろうとする姿に薄ら寒さまでも感じているのである。
殴られて大怪我をしている今塚に、憐憫どころか情そのものが枯渇していた。
「ねぇ。クロトはどこかな?答えなければ、僕は君の指を折っちゃいそうだ。」
本当に折ってしまおうかと山口が力を込めたその時、車のエンジン音とタイヤが軋む音が向かってきている事に気がついた。
「ちぃ。」
今塚を抱き上げるようにして立たせると、既に彼らを轢き殺そうとする車のハイビームに目が眩んだ。
それでも間一髪で避けられた。
車は彼らを追い抜いて、他の車にぶつかりながらもUターンをして再び彼らに狙いを定め、さらにエンジン音を唸らせた。
「まずはあいつから逃げるよ。」
山口は今塚の腕をつかみ、自分の来た方向、エレベーターのあった方向へと走り出した。
しかし数メートルも行かずに、後ろから車の駆動音が迫ってきた。
山口は今塚を抱いて、すぐ脇へと飛び込む。
「ホラ立ち上がって。また来るから急いで場所を移動する。」
怯えてぐったりとしているだけの今塚を引き起こしたそこで、山口は自分の数秒前にしたばかりの判断を呪うしかなくなった。
左右は壁で後ろには壁が無い代わりに星が輝く。
目の前には再び体勢を整えてエンジンをふかす青いスポーツカー。
銃口の中に立っていると同じなのだ。
車は弾丸、今の山口と今塚は銃口の中の埃でしかない。
「よけてやるさ。俺はまだ死にたくないんでね。」
車のハイビームの光で目が眩んだが、数字を読むことはできた。
9610だ。
「畜生!この冗談は酷いよ!」
車が動き出したと察知した瞬間、山口達は大きく前方へ倒れた。
山口の身体能力ではなく、恐怖で意識を失った今塚に引っ張られて山口までも転がってしまっただけである。
自分の真上を掠りながら通り過ぎる車体に、気絶している今塚は当たり前だが、山口は完全に死んだと思いながらも、地面に同化するぐらいに動きを止めて息を潜めた。
一方山口達を轢き殺そうとアクセルを強く踏んだ車は、車止めと為るはずの山口を跳ね飛ばすどころか失って、ふかし過ぎたエンジンの動力も相まったのか、車体は少しだけ浮いてしまっていた。
つまり、車は下に倒れる山口をすりつぶすことも無しに、方向転換する空間も間さえ無いまま、本物の車止めもなぎ倒して建物の外へと飛び出すしかなくなったのである。
数秒後にずしんと地面が揺らぎ、ボンっと何かが大きく燃え出した音に建物まで響く。
山口は立ち上がり今塚から離れると、起きた出来事に信じられない面持ちで車が落ちた場所まで移動して、そこから下の惨劇を見下ろした。
「畜生!僕の車!クロト号!」
「あれは君の変わりになるかな。」
楊の言葉に振り返ってしまったせいで、山口は足元を失っていた。
彼は楊に首元のラリエットを引きちぎられて、そのすぐ後に突き飛ばされて、今や落下しているのだ。
遠ざかる自分を見下ろす楊を見上げながら、空にどうして月が二つ輝いているのだろうと、死んでしまう恐怖よりも疑問の方が強かった




