何もない自分は何だってするしかない
全ては理解できないまま終わっていた。
楊が玄人の病室に入り、俺の目の前でドアが閉まり、俺がそのドアを開けた時には全てが消えていたのだ。
誰もいない病室の戸口で、俺は目の前で何が起きたのか理解が出来なかった。
俺の目の前の玄人が横になっていたはずのベッドは空っぽで、彼が受けていた点滴の管からは、受ける人の無い液体を零し続けている。
俺は数分前まではいたはずのベッドのくぼみを触り、そこがまだ温かい事に玄人の不在が重くのしかかり、そのまま崩れ落ちるようにベッドに顔を埋めた。
甘いコロンと微かな男の匂い。
「臭い。こんなのはクロトの匂いなんかじゃない。」
顔を上げて辺りを見回し、そして口ではなく鼻で深く深く空気を吸い込んだ。
そこで、この病室に横になっていた人物の体臭を、自分の鼻が嗅ぎ分けられた気がした。
「こんなのクロトじゃない。良純さんの言うとおりだ。」
俺の玄人は無臭だが、生きている人間である限り匂いは勿論あるものだ。
玄人だって汚れれば、汗臭くも雑巾臭くもなるのだ。
しかし、彼の匂いを宮辺が赤ん坊のようだと評するように、彼には性的な女の匂いも男の匂いも存在しない。
半陰陽というよりは無性に近い身体だからだろう。
「良純さんに、良純さんに伝えなければ!」
俺が自分のスマートフォンを取ろうとしたその時、それが振動した。
ばるるるるる。
スマートフォンをノロノロと取り出して画面を覗くと、消えた男からのメールだ。
「かわさん?」
本文を読んでから、俺はその指示通りにメールを消去した。
俺はスマートフォンのメールにロボットの如く従順に従うしかないのだ。
俺には玄人を失えば何も残されていないのだから、逆らってどうなると言うのだろう。
これから俺は病院の地下駐車場に向かい、自分の車に乗り込むだけだ。
そこで俺は彼の鳥を受ける事となる。
彼の使役する全てを焼き尽くす鳥は、俺の死体どころか骨も灰も残さないだろう。
玄人を隠したのは楊だったのだ。
隠しきれないと知って、彼にも覚悟ができたのだろう。
生贄を殺すという覚悟。
本物の玄人は楊の隠した場所で時間を止めて眠っている。
俺の死で玄人は目覚め、俺が彼の寿命の代わりとなって彼の肉体は再生する。
玄人の眠り病は、誰のせいでもない。
玄人が寿命を超えて生きる事で起きた歪みだと、楊が言うのである。




