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この車は家に帰るためなんだろう?

 山口は玄人の意識不明を楊に伝えられるや研修所を飛び出し、玄人の転院先の世田谷の病院に向かった。

 しかしその後は楊の予想とは異なり、山口はすぐに相模原に戻ってきたのである。

 山口は無言のまま自室に閉じこもり、そして、その翌日に彼は研修所に戻るどころか退職願いを楊に提出したのだ。


 楊は山口に配属先を替える事までも提案し、何度も山口の退職を思い留めさせようとしているのである。


 楊は落ち込んでしまった山口を横目で見ながら、何度も口にしてきた同じ会話を彼に投げかけた。

 少しでも運転から力が抜けるように、と。


「ちびは絶対に目覚める。俺の糞ひいじじいがちびの魂を誘拐しただけだと言っただろう。あいつは眠っているだけだ。目覚めてお前が無職だと困るだろう?」


「良純さんのところで働きます。そうしたら三人何時も一緒ですね。一度お手伝いでね、土壁をみんなで捏ねて塗った時は、すごく楽しかった。」


 仕事を辞めたその後の三人の暮らしの方が素晴らしいと気づき始めた部下に、楊は慌てて山口の気持ちを変えられる言葉を捜した。


「百目鬼から小遣い貰って、それでちびやあいつに贈り物をするのか?」


「あ。」


「だろう。別に稼げる手段は持っていた方が恋愛も結婚も長続きするんだよ。」


「なんだか実感が篭っていますね。まだ結婚もしていないのに。」


「俺は仕事を辞めませんからね。ぜったいぜったいマツノに取り込まれませんから。年の差婚でしょう。確実に俺が捨てられるね。捨てられた時に無職だったら困るじゃん。」


「捨てられたら無職どころか社会的抹殺をされませんか?」


 楊の婚約者の祖母松野葉子はマツノグループの総裁でもある。

 楊は部下の冷静な切り返しに別の話題をぶつける事にした。

 楊自身百目鬼から電話を貰って眉根を顰めた言いがかりであり、それに異を唱えたら親友であった百目鬼から電話が一切無くなったという話題だ。

 よって玄人が世田谷に転院した後の事を、楊は全く知りえないのである。


「百目鬼はさ、ちびが別人だって俺に怒りの電話をしてきてね。それ以来俺の電話に出ないどころか何の音沙汰も無くてさ。それで、あいつの言う事は本当だったのか?」


 山口はきゅっと唇を噛みしめた。

 楊は彼が両腕に力を込めた様子を見て、大きく溜息をついて数秒前の自分の質問を取り消したい気持ちであった。

 こんな状態では、彼は遅かれ早かれ事故を起こす。


「車を止めて。俺が運転する。お前は運転ができる状態じゃないでしょう。」


「大丈夫です。」


 山口はふうっと息を吐き出すと、楊が心配していた力を抜いた。


「ええ、確かに良純さんは、違う、と言い張っています。それどころか、転院したあの日以来、あの彼がクロトの見舞いも一切していないそうなのです。」


「それでお前が仕事を辞めてちびに付き添うつもりなのか。」


「はい。ですが良純さんに俺は付き添う必要ないって病室から追い出されてます。だから、付き添いをしている所をみつかったら、かなり叱られますね。」


 楊は百目鬼の行動に不審しか感じなかった。


「それで違うとは?百目鬼は何が違うと言っている?俺が病院に運んだ時はちびだったぞ。俺がちびを間違える事があると思うか?あいつに頼まれて世田谷の病院へ転院手続きをしてそれきりだけどね。俺が相模原の病院で玄人を確認して送り出して、世田谷であいつが待ち受けていたんだ。ちびが取り替えられたなら移動中になるだろうが、お前的にはどうなんだ?お前が見てもちびが別人なのか?」


 ごくりとつばを飲み込んだ山口の横顔は硬く、しかしその深い悩みに苦しむ風情によって、もともと中性的でもある彼の顔を完璧な美しさを際立たせるほどであった。


「俺にはわからないんです。顔も体もクロトそのままで、意識を失っている体に俺は気安さまで感じました。触れて、確かに以前よりも肌が固く強張っている気がしましたけど。確認するにも二・三分で俺は良純さんに病室から追い払われて、別人と考えたり気付く時間なんて。」


「そうか。でもさ。百目鬼はずっとちびを失う事におびえていただろう。眠りこけて目覚めないちびを違うって信じたいよな。そういう事じゃないのか?」


「いいえ。確信しているそうです。髙さんから宮辺さんの嗅覚の話を聞いて、彼に臭いをかがせて別人であることを証明するって言っていました。」


「そうか。百目鬼に会う前に俺もちびにもう一度会いたい。そんなにあいつが違うって言い張るのであれば、違うのかも知れないだろ。先にちびに会おう。本当に違うならば、ちびが行方不明って事だろう?」


「そうですね。そうですよね。俺は、俺は辛くて、クロトの魂が全く見えないあの肉体が怖くて、良純さんに言われるまま、彼にクロトから引き剥がされる事に心のそこで感謝している自分もいて……。俺は、寂しがりのクロトを一人で病室に残して。俺は。」


「いいから。車を止めろ。俺が運転する。」


「……大丈夫です。これは良純さんに貰った車ですから。これで家にいつでも帰れるなって。だから、だから。」


「それじゃあ、車を路肩に止めて。十分だけ休もう。死んだら家に帰れないだろ。」

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