あなたはただの男であった
松崎の自宅は燃えていた。
「うっそ、マジで。こんなスーツを着てくるんじゃなかったよ。」
葉山は寒いだろうに上着を脱いで後部座席に放ると、消防に連絡を入れながら家屋内にいるだろう家人達の救助へ駆け出していた。
「はや。あいつって普通にしてれば普通に有能な刑事じゃん。」
「それだけクロが好きってことよね。私は絶対振り向かない男ばっかり好きになるのね。情けない。」
「あたしもそうだって。葉山に続こう!」
二人は顔を合わせてニヤっと顔を歪めると、葉山のように上着を車に脱ぎ捨ててから後を追って松崎邸の門扉まで走った。
炎を前に受けた黒いシルエットは二人。
楊と葉山である。
業火によって周囲に上昇気流が起きているのか、楊は上着の裾をはためかせて、猫がテーブルの上の料理を狙っている姿にも似た背中を逸らした格好で、上部を見上げるように豪邸が燃える様を眺めているのだ。
隣に立つ葉山は、スマートフォン片手に、少々呆けた態で松崎邸だったものを眺めている。
水野達はメラメラと燃え盛る炎の熱で顔はほてり、寒さなど感じないはずであるのに、楊の姿になぜか背中を冷たいものが走っているように感じていた。
「かわさん。来ていたのですか?」
「うん。来ていて良かったよ。葉山を飛び込ませずにすんだ。」
「探偵事務所の井筒の遺体はよろしいのですか?」
「あれは全部宮辺に任せたから大丈夫。本来遺体があるべき場所に寸分違わず置き直しているだけだからね。今のところ俺は不要どころか邪魔。佐藤警部の管轄だからバトンタッチをさせてもらった。」
「ここの現場の状況はご存知で?」
「当たり前。俺が燃やしたからね。」
炎を眺めるだけで部下に振り向きもしない男が、気楽そうな口調で答えた。
投げやりの声と言った方が正しいかもしれないと水野は思った。
それから、こんな楊の声を聞いたのは初めてだ、とも。
しかし、楊の初めてを知っても全く喜びが沸かないのも水野には初めてであった。
「課長が?」
佐藤が「かわさん」ではなく、課長と楊を敢えて呼んだのは、水野と同じ思いに囚われたからだと水野は思った。
そして、水野こそ、楊を高校時代に出会った楊のままでいて欲しいと思っていたのだと、今さらに思い知らされた。
彼に我儘していたのは、私達の方だ、と。
「酷いよね。松崎家の大人は全員死人だった。松崎以外ね。酒乱の彼に殴られて死んだ実母に妻に息子に嫁。幼い孫はベッドで死んでいた。松崎の書斎の戸口の大人の膝辺りに血がべったりついていて、孫の腹には内出血の跡があって頭も凹んでいたからね、書斎で蹴り殺されたんだろう。咎められて全員を殴り殺しちゃったのかな。孫殺しの松崎はベッドに括りつけられて襤褸屑のようになっていた。何度も何度も、家族に殴られて、押し花みたいにどこもかしこもぺしゃんこだったさ。」
声にはやるせなさが深く篭り、なげやりにも聞こえる調子を含んでいた。
水野はこんな声を出すのは楊ではないと思い込みたい自分を抑え、ただ佐藤が尋ねるに任せた。
現実味を感じない自分には、楊に尋ねる言葉が何も浮かぶわけないのだと。
「死人となった家族の人達はどうしたのですか?」
「死んだ。」
「クロが使えないのにどうやって。」
そこで驚いて声をあげたのは葉山だ。
玄人以外では百目鬼の経でしか死人を死体に戻せないのは共通の認識だ。
「死人ってね、想い残すことが無くなると死体に戻るんだよ。孫は死んでいるって、もう生き返らないよって伝えたら、全員そのまま死体に戻った。彼らは死人になってまでも、松崎に殴り殺された子供の復活を試みていたんだよ。違うか、松崎の凶暴性を知りながら、自分に火の粉が来なければ大丈夫だと見逃していた自分自身を罰していたのかも知れない。彼らが家族であるその男を守らずに咎を受けさせておけば、孫は死なずにすんだんだ。」
「家族ですもの。守るのは当たり前でしょう。」
「そうだね。血を分けた腹違いの弟を襲撃させるのは当たり前だね。日陰者が表に出たせいで松崎は失脚したのだものね。それでも、子供には罪がないだろうに。」
楊の声には憤りを含んでおり、水野は楊がどうしてそこまで詳しく死んでいた一家の内実を短時間で知りえたのだろうと考え、口の中で苦いものが湧き出てきていた。
「かわさん。どうしてかわさんがそこまで知っているのですか。」
楊はゆっくりと水野に振り返った。
印象的な二重の瞳の目じりは赤く、その赤い目元に水野はどきりとしたが、楊はただ静に微笑んだ。
「ちびのオコジョ。彼らは知りたくも無いことを教えてくれるんだよ。次から次へと。あの子はよくも耐えていたものだ。こんな救いが無い世界の秘密を囁かれ続けて、あの子はどうして人を愛せるんだろうね。愛人が憎らしいからと、禁酒していた松崎に酒を飲ませたのは妻だ。彼は妻よりも愛していた愛人を自分が壊したことで自身に酒を解禁して、自分をも世界をも破壊する事にしたらしい。馬鹿な男だ。」
「どうして松崎は自分の孫まで。」
「酒乱ってそういうものでしょう。佐藤警部の想いがわかったよ。辛いね。自分本位の人間の成す悲劇って、生きているだけで人を不幸にする人間がいるって。どうしてなんだろうね。酒を飲めば自分が暴れて、ただ暴れるだけでなく、周りの人間を確実に傷つけるとわかっているのに酒を止められない。もしかして、松崎のように全てを破壊したいから飲んでいるのかもしれないね。死ななければそんな奴は止まらないんだね。」
朝靄の風景の中でようやく消防車の影もサイレンの音と一緒にぽつっと芽生えて、どんどんと大きく近づいて来た。
そして、目の前の松崎邸だった炎の櫓は、メキメキと音を立てて崩れていった。




