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誰もが知っていて誰も忘れない事件

 葉山の隣の佐藤警部は、疲れ切った表情で、はぁあと大きく溜息を吐き出した。

 楊はそこで、失念してしまった佐藤警部の存在を思い出したのである。


「あぁ、こんな深夜にお呼び立てして申し訳ありませんでした。」


 楊は慌てて戸口へと走り、佐藤警部に深々と頭を下げた。

 楊の背中に青天目の「猫かぶり」という罵倒の呟きが聞こえたが、彼にはどうでも良いことだ。

 青天目を楊家に泊めない理由がまたひとつ増えたと、薄暗く思っただけである。


 現場検証だと室内を見回ってみると、寝室どころかバスルームまでも想像以上に楊好みであり、そこにいない親友を心の中で罵倒してしてしまった程だ。

 その上、青天目が魔物に与えられたという車は、白いジープだがジープじゃない、つまり、ベンツのGクラスという高級車だったのだ。


 さて、楊が大人気なく青天目を無視して出迎えた佐藤警部は、娘の妖精めいた美貌と異なりどこにでもいる固太りの大柄な男である。

 しかし、人が良さそうに微笑んだ顔が、彼の娘の笑顔とよく似ていると楊は感じた。

 くったくなく笑う水野と比べると、佐藤は笑顔を作り過ぎるきらいがある。

 楊はそんなことを考えながら佐藤警部に頭を下げ、彼も楊と形式的な挨拶を済ますと独特の窓際親父の雰囲気のまま尋ねてきた。


「髙ちゃんは?」

「帰しました。」


「えぇー。困ったな。呼び戻せる?」


 楊が髙を呼び戻す面倒さを顔に出したからか、佐藤警部でなく葉山が笑い出した。


「お前は佐藤ちゃんちを警備する仕事に戻れよ。」


「イヤですよ。佐藤警部を前にして申し訳ありませんが、あそこは修羅の家です。俺には癒しが必要なんです。俺が不要ならクロのところに行っていいですか?俺が佐藤家に連れ帰ってあげますよ。あそこは何があっても安全そうですからね。」


 楊は簡単に白旗を部下に上げた。

 楊は佐藤と水野に苛められたくはない。


「ごめん。葉山君。君も捜査に参加していていいから。」


「ごめんねぇ。ウチはさぁ、奥さんも娘もおっかないからネェ。でもさぁ。僕は友君がウチにいてくれるとありがたくてねぇ。ねぇ、家にこのまま同居しない?」


「勘弁してください。俺はあんなおっかない親子喧嘩初めてです。仲裁し過ぎて、俺はもう、神経がボロボロですって。」


「ごめんねぇ。茶会の準備で佐藤家が殺気立つのは毎度のことなんだけどね、友君ねぇ、僕の奥さんに気に入られ過ぎちゃって。友君に手伝って頂くからあなたは当日仕事にいらっしゃってもよくてよって、言われた萌が怒っちゃってさぁ。」


「あぁ、佐藤君は怒りますねぇ。それは。わざわざ彼女は有給申請までしていたのに。可哀相に。それで、そんなにも気に入られた場所で、愛娘差し置いて他に気のある人間のためにおしゃれできるお前って、本当に鬼畜で図太い人間だな。」


「批判するならクロの所に行っていいですか?」


「それよりも、俺の部屋の腐乱死体の事件の詳細を聞かせてくださいよ。」


 警官達のたわいない世間話に水を差したのは青天目であった。


「紹介してもいない一般人が警察の会話に加わるなよ。」


「うるさい。この猫かぶりが。俺はこの探偵事務所を開いてから、此方の佐藤警部とは何度もご挨拶を――って、もしかして、死体があったそれで?」


 青天目が名前の如く顔色を真っ青にしたが、佐藤警部は右手をぶんぶんと顔の前で振って笑い転げた。


「違う違う。ここは居心地いいじゃない。おいしい高級チョコレート菓子もふんだんにあるし、青天目なばためさんは元は本部の警察官だったのだし、いいかなって。それにね、ここには死体はなかったよ。」


「腐乱死体があったと伺いましたが。」


「事件はあったね。数人に暴行を受けたらしき被害者が、ここで虫の息だったってだけ。被害者は榛名はるな敏朗としろう。数年前に松崎大臣を襲撃した犯人だね。彼は情状酌量の余地があり過ぎる加害者だからね、執行猶予で釈放されたの。襲撃はその三ヶ月後だね。人目と騒ぎと本人の警戒が無くなった頃を狙ったんだろうね。」


「私は一切その事件を聞いていませんが。」


 佐藤警部は目尻に笑い皺を寄せた笑顔を顔に貼り付けたまま、驚いている楊を射抜くように見つめたのである。

 楊にその名前は、決して忘れられるものではない。

 彼が制圧している手を離した暴漢が榛名であり、それによって襲撃されたのが楊が守るべき松崎まつざき昌治まさはるだったのである。


「緘口令。だから君でなく、僕は髙ちゃんに伝えたかったの。あとで叱られそうだ。」


「俺はクロの所に行きましょうか?そこの人と一緒に。」


「気を使わなくていいよ。県警のみんなが知っていることだ。」


 そう、みんなが知っている事で、みんなが忘れてくれないことだと楊は自嘲した。

 自分こそが榛名の事を綺麗に忘れていただけである、と。

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