思い出したくない髙のご指導
髙によって与えられた痛み、指一本が差し込まれただけの行為によって、楊は廃屋の腐った床に崩れ落ち、息も絶え絶えの状態になってしまった。
呼吸を整える事も出来ない楊に再び髙の手がかかり、ズタ袋にしか感じない自分の体が持ち上げられた時、楊は恐慌に陥った。
情けなくも、楊は自分を痛めつけた男に哀願していた。
「え、えと。も、もう、か、勘弁してください。俺は警察辞めますんで。もう辞めるから。お願いします。もう止めて!」
しかし、自分を気楽そうに起き上がらせている男が、ふふっと笑いながら楊に意図しない言葉をかけたのである。
「こうすれば相手が痛いって言わないでしょ。覚えた?もう一回確認する?違う技のほうがいいかな?次の体術の訓練はこれを相手にかけてみなさいよ。冗談でも痛いって君に言えないから。笑顔でこれをやられると、大概は怯えちゃうんだ。でもね、上から変な指導を受けないように、やっぱり違う方がいいかな。まずね。」
「こ、これでいいです。教官!ちょっと、えぇ!」
楊の辞退など空しく流され、親切な彼は人にわからない色々な反則業を楊に仕込んでくれたと楊は思い出してしまった。
青天目に会いたく無いのはそう言う事だ。
ぼんやりとだが、楊は本部出自分を虐めていた人達の中に、青天目の顔があったようななかったような思い出しをして、ついでに髙に喝を入れられた絶対に思い出したくない記憶が呼び戻されるのである。
その時に受けた強烈な痛みの恐怖と共に!
楊は思い出した自分の記憶を振り払うために頭を振ると、目の前に差し出された案件に集中する事にした。
さらに思い出せば自己嫌悪に陥ってしまう。
何しろ、楊は結局自分をからかう人間に髙伝授の恐ろしい技をひとつも仕掛けることが出来なかったのである。
体術訓練でいつものようにからかわれ投げられるだけだった楊は、同僚達の消えた道場の真ん中で塞ぎこみ、近づいて来た影をそれが誰か確認もせずに、悩んでついに決意した自分の気持ちを正直に吐露していた。
姿は見えなくとも髙の気配をあの時の楊が無意識にも気づいていたのだろうと、今となっては楊は回想する。
あるいは髙が楊を見守っているはずだと、彼が思い込んでいたのかもしれない。
「力になって頂けたのに、すいません。俺は弱虫過ぎて駄目です。ここで警察を辞めるのが一番かと。」
「そう。じゃあ、一緒に島流れしようか。大丈夫。君の分も移動申請しておいたから手続きの面倒はないよ。来週からは刑事部所属で相模原東署の刑事課に仲良く配属だね。」
楊は振り仰いで、彼に先日教育を施した鬼教官の顔をまじまじと見つめた。
楊に見つめられた彼は軽く肩を竦めると、ふっと気安そうに軽く微笑み返したのである。
「もうさぁ、公安しているのが面倒になっちゃって。」
「はい?あの、俺の言っていること聞いていました?俺は警察辞めるって。」
「僕の言っている事は理解している?嫌?嫌だったら自分で人事に掛け合ってくれる?だって自分で申請しておいて取り下げって、格好が悪いでしょう。」
「俺と組んだらもっと格好が悪いですよ。」
「カッコイイ人間って、この世界にいるの?」
髙の返しに楊はすっと楽になった自分がいたと思い出す。
そして、髙が楊の後ろに控えていると知った同僚達は、その日以来直接に楊をからかう事が無くなり、それどころか親切にも髙が公安の死神と県警内で呼ばれていると楊は同僚に耳打ちをされたのである。
「あの人はね、同僚どころか死体さえも検挙するって噂の恐ろしい人だよ。」
その噂は本当であり、後日、楊の相棒で地獄の鬼教官の髙が、楊の出世のお祝いにと、生きている人間を制圧できない楊のために課を新設してくれたのである。
つまり、楊と髙の指揮する特定犯罪対策課、通称特対課は生きている死体が引き起こす事件専門の課だったのだ。
さて、死人が排泄も腐りもしない生き返りだけであるのならば、遺族にとっても愛すべき者の復活は幸せであるはずだ。
それなのに楊の課が必要となるのは、死人が死体でい続けるのはとても苦しいと、彼らが楽になる方法を模索してしまったからである。
即ち、生者をなぶり殺してその肉を喰らう。
死人が行う拷問行為は、被害者の人格も何もかも破壊することによって、被害者が「死にたくない。」と純粋に自らの命に縋りつき魂と命が縫い付けられた状態を作り出すために行うのだという。
単純に殺して喰らうだけでは、二、三年ほど生者に戻れるだけなのに、拷問によって魂と命が縫い付けられた遺体を喰らえば、五年以上は確実に生者の状態を保てるのだ。
だからこそか、死人は嬉々として拷問行為を行うのである。
死んでしまった自分の鬱憤を晴らすかのようにして。
楊は髙から聞かされ苦々しく仕組みを理解したが、理解したからと受け入れられるものではない。