あおてんもく探偵事務所
裏寂れた繁華街の一角に、「あおてんもく探偵事務所」がある。
楊にはその看板に書かれたひらがな部分が、本当は青に天目で「なばため」と読むことを知っている。
その探偵事務所の主が、本部の警備部の警察官であったが、警護していた要人に妻子を惨殺されたことから警察を去った青天目当麻だからだ。
しかし知ってはいても楊と青天目には面識がない。
青天目は楊の友人で元同僚で上司の坂下克己警視の部下であったが、青天目の事件を捜査した楊とは直接の交流が無いままであったのだ。
あえて直接会おうとしなかったのは、自分が臆病者だったからかもしれない、と楊は自分を自嘲した。
写真で見た青天目の姿は、とにかく楊の癇に障り、思い出したくもない過去を思い出させるのである。
楊は頭を振って気持ちを改め、心の中で青天目と対峙する気力を振り絞った。
「青天目さんはこんなすぐ近くで自営をされていたのね。」
楊がぽつりと感慨深く口にしたにもかかわらず、隣に立つ男は見下げた目で楊を睨みつけるだけで何の言葉を返すことなく、ふいっと正面を向いてすたすたと探偵事務所のある雑居ビルに入っていった。
「ちょっとー。」
自分が上司なのに情けないと思いながらも、楊は同行者の後ろを追いかけた。
同行者は鑑識の主任である宮辺壮大である。
彼は中肉中背のどこにでもいる外見の男でもあるが、中身がどこにでもいない男である。
学歴と能力からもっと良い場所に就職できる筈の男でありながら、彼はアメリカドラマに触発されたと鑑識に入ったのだと楊は聞いている。
そしてそのどこにもいない彼は、勝手に警察内部の丸秘資料を漁り続けて、残念な事に「死人」という存在に行き当たってしまった不幸な人物でもあるのだ。
死人とは、その文字の通り死んだ人であり、動くはずの無い人間である。
イザナギとイザナミが言い争った通りに、この世は生者と死者のバランスが崩れると黄泉路から悪鬼の類が生者の世界に襲い掛かってくるのだという。
ところがこの世は少子化が進み過ぎている。
そこで、生者の方の神様が死者が多すぎると動く死体にして、悪鬼が来ないように黄泉の神様をごまかすという事象が起こっているらしいのだ。
以上を聞いた時には、楊は警察を本気で辞める気持ちになったと思い出す。
しかし彼が警察を辞めなかったのは、まず相棒が辞めさせてくれなかった事と、気がつけば彼には警察官であることしか拠り所が無い事に思い知らされたからである。
彼は時々、家族も人生もあるのに無いと感じる自分がいて、自分が動いているのに死んでいる死人と同じように思えるのだが、それは親友にも相棒にも伝えられない。
人の心を持っていなさそうな親友にはもっと追い詰められそうだし、相棒には昔に同僚のからかいで落ち込んでいた時のように体に教え込まれそうだからだ。
楊が交番勤務から開放されて配属されたのは、彼が望んでいた交通部ではなく、警備部の方であった事が彼の不幸の始まりだ。
警察官の父親を持ちながら武道など嗜んだ事もなかった彼は喧嘩も弱く、それどころか、彼は「痛い」と叫ばれるとつい手を離してしまう習性もあった。
それがために彼は、守るべき要人と自分を、ついには危険に晒してしてしまったのである。
本部時代の楊は、それを理由にしての、からかわれ蔑まされるという嫌がらせを同僚から受けていたのである。
他にも婚約者の祖母であり、当時検事長であった松野葉子に必要以上に目をかけられていた事へのやっかみもあっただろう。
しかし、それもある日に変わった。
妻を亡くしたばかりの男、髙悠介が、そんな哀れな現状から楊を救い出そうと動いたのである。
楊が食堂で一人で悩み呆けている時に、すっと勝手に隣に座ったその男は、当たり前のように楊に声をかけた。
「ちょっと僕と出るよ。」
楊と同じくらいの身長に同じくらいの細さの髙は、地味な顔ながらなぜか印象深く威圧的であり、楊はその男に断るという選択肢さえ頭に浮かばないほどであった。
さて、無慈悲にも楊が連れ込まれたそこは、無人の廃屋である。
暗く汚い廃屋だと怯える楊が見回す間も無く、笑顔を浮かべた髙が彼の肩を押さえ込みわき腹に指を差し込んだのである。
痛いと叫ぶどころか、息を吸う事もできない痛みを経験させられた楊には、この行為こそ楊を完全に警察から追い払うためであるのだと思い込んだ。