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「ゆうりぐ~ん、だ~ず~け~て~!!」
女の子が胸の中に飛び込んでくる。普通なら、ドギマギしてしまいそうなシチュエーションなのだろう。けれど、この時の僕はドギマギのドの字さえも感じていなかった。
だって、奈津美先輩の顔がすごいことになっていたから。目からは滝のような涙を流し、鼻水まで垂らしている。若干引くくらいにひどい顔だ。
というか、そのまま僕の胸に縋りつくのはやめてほしい。涙はまだしも鼻水をシャツにつけないでもらいたい。
「ヒック……! 先生がね、期末でも中間みたいに赤点四つ取ったら、夏休み中ずっと補習だって言うのよ。ひどいと思わない?」
「自業自得じゃないですか、それ! というか、赤点四つって半分近い教科で赤点ですよね? 何やってんですか!」
三年生文系の中間・期末は九科目と聞いている。赤点があとひとつ増えたら、半分を超えてしまう。そんな状態じゃあ先生だって、「夏休み中ずっと補習!」と言いたくなるってもんだ。むしろ先生の方に同情したくなる。
僕が先輩の担任の不憫を憐れんでいると、当人が言い訳がましく喚き出した。
「だって私、進学しないもん! 製本家に、微積分や魚の器官なんて関係ないし! 製本技術の勉強の方が大事だし!」
「進学云々以前に、このままだと確実に留年ですってば! 先輩、来年は僕と机を並べるつもりですか?」
「いや~! そんなの絶対いや~! 先輩としての威厳がなくなっちゃう~!!」
「赤点四つ取って後輩に泣きついている段階で、そんなものは存在しません! いいから、さっさと勉強してください! 文集の打ち合わせは、期末テストが終わるまで持ち越しです!」
ぐずぐずと鼻を鳴らす奈津美先輩をソファーに座らせ、テーブルに教科書とノートを広げさせる。
聞けば、赤点の危険性があるのは数学二科目と英語、生物とのこと。英語を抜けば、完全に理系科目に偏っている。奈津美先輩は文系クラス所属のため、物理や化学、数Ⅲ・Cがないのが幸いか。
ただ、数Ⅱ・Bの教科書とにらめっこをした奈津美先輩は、すぐに助けを求める目で僕を見上げてきた。
「……悠里君、勉強教えてくれる?」
「先輩、自分が言っている言葉の意味をよく考えてみてください。何で三年生の先輩が、二年生の僕に勉強を教わろうとしているんですか?」
「だって悠里君、二年の学年トップじゃない。ちょっと本気を出せば、きっと三年生のテスト範囲だって、何とかなるはずよ?」
奈津美先輩が、期待の眼差しで僕を見上げる。潤んだ瞳には、「悠里君は、やればできる子よ!」と書かれていた。
いや、今やる気を出さなければいけないのは、あなたの方なんですけど……。
呆れ過ぎたあまり力が抜けて、僕は奈津美先輩の向かいのソファーに腰を下ろした。
それを奈津美先輩は、交渉の余地ありと判断したようだ。妙な演説を始めた。
「悠里君、君は何のために学力を磨いてきたの? その力は何のために使うべきものか、よく考えてみて!」
「…………。……わかりました。考えた結果、僕の学力は僕のテスト勉強のために使うべきと判断しましたので、これで帰らせてもらいます」
「わ~! 嘘、冗談よ! 調子に乗ってごめんなさい。お願いだから、見捨てないで~!」
カバンをつかんで帰ろうとした僕を、奈津美先輩が必死で引き止めてくる。
こんなこと、ついさっきもやったな。学習能力ないのか、この人。
そもそも、僕が勉学に力を入れているのは、司書の採用試験のためだ。
正規採用の司書は募集が恐ろしく少ないため、採用試験は高倍率になることがほとんどだ。だから、高校生の内から勉強を頑張っているのである。まかり間違っても、奈津美先輩の赤点対策のために磨いた力ではない。
ただ、ここで見捨てると、本気でこの人は落第するかもしれないしなぁ……。
頭の中に、来年も今と変わらず奈津美先輩と過ごしている自分の姿が浮かぶ。そうなったら、部室プライベートスペース化の夢もパーだ。
何より、校内での僕の評価が『留年生の手下』に変わってしまうかもしれない。さすがにそれは、恥ずかし過ぎて耐えられない。……これは、やむを得んか。
奈津美先輩に背を向けたまま、諦めの吐息を漏らす。
幸い、自分のテスト勉強は滞りなく進んでいる。模試対策で先の内容も勉強しているから、三年生のテスト範囲も大体何とかなるはずだ。
よって、一応条件は揃っている。あとはもう、奈津美先輩に教えることで、自分の理解を深めることができるって無理矢理納得しておくか。
奈津美先輩直伝、ポジティブシンキングというやつだ。僕はカバンを置き、もう一度ソファーに座り直した。
「……わかりました。とりあえず、テスト範囲を教えてください」
「ありがとう、悠里君! 今度、お礼にケーキ奢ってあげる!」
「そんなことはどうでもいいんで、さっさと始めますよ。期末まであと一週間。少なくとも赤点を取らないよう、ビシバシいきますから」
パッと顔を輝かせた奈津美先輩に、僕はピシャリと言い切る。
まったくこの人は、なんて人使いの荒い先輩なんだろう。奈津美先輩と一緒にいると、退屈を感じている暇さえない。
僕は「やれやれ……」と苦笑しつつ、奈津美先輩に数学を教え始めたのだった。
* * *
――一時間後――
「悠里君、スパルタ過ぎ~。先生よりも厳しいよ~」
「泣いてないで、勉強に集中してください。ほら、そこの問題、間違っていますよ。あと、こっちも」
「これなら、赤点取って補習の方がマシよ~」
「無駄口叩いてないで、さっさと問題を解いてください。下校時刻までに、ここを終わらせますよ。ハリーアップ!」
「うえ~~~~ん!」
書籍部の部室に、奈津美先輩の情けない鳴き声が木霊した。