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「あれは確か、去年の今頃でしたっけ。製本の練習用に図書室の廃棄図書をもらうはずが、間違えて新規購入図書を持っていきましたよね」
「うぐっ!」
先程までの勢いは、どこへやら。奈津美先輩が、矢でも刺さったかのような仕草で薄い胸を押さえる。
そう。この人、僕が一年生の時に、廃棄図書が入った段ボールと、購入図書が入った段ボールを取り違えたことがあるのだ。
しかも奈津美先輩が本を持っていったのは、折悪く金曜日の閉館間際ときた。うちの高校では、授業がない土日は図書室が閉室されている。よって、誰も奈津美先輩が本を取り違えたことに気がつかないまま、週末を迎えてしまったのである。
ここまで来れば、オチはもう見えているだろう。奈津美先輩が持って帰った購入図書は、翌週、新たな姿に生まれ変わって帰ってきた。
僕から事情を聞いた時の奈津美先輩の動揺っぷりと言ったら、それはもうひどいものだった。顔を真っ青にして、「ど、どうしよう、悠里君……」と泣きべそをかきながら聞いてきたくらいだ。
最終的に、当時も図書委員だった僕が半泣きの奈津美先輩を連れて、司書教諭の先生のところへ謝りに行くことになった。応対した先生が「立派になって帰ってきたわね」と笑い飛ばしてくれたのが、せめてもの救いだったと言えるだろう。
さて、では次だ。
「あと、去年の秋。校庭の隅にある桜の木に登って、よりにもよって生徒指導の先生の頭にハードカバーの本を落としましたよね」
「ひぐっ!」
奈津美先輩が涙目になった。ちょっとかわいいと思ってしまった僕は、Sなのだろうか?
ちなみに、こっちの事件の顛末はこんな感じだ。
割とよくある話だけど、うちに学校には〝願いが叶う桜の木〟という言い伝えがある。この言い伝えに登場する桜の木というのが、奈津美先輩が登った木だ。
この言い伝え、正確には〝桜の木の枝にリボンを結ぶと恋が叶う〟というものらしい。
では奈津美先輩も、恋愛成就を祈願しようとしたのかと言えば……当然そんなわけない。奈津美先輩は何を思ったか、〝立派な製本家になれますように!〟と自作の本を吊るそうとしたのだ。言い伝え、ガン無視である。
で、木に登るまではよかったんだけど……生粋文化部の奈津美先輩に、このミッションは難易度が高過ぎた。途中で手を滑らせて、運悪く下を歩いていた生徒指導の先生の頭に本を落としてしまったというわけだ。
おかげで、木を登る際の踏み台にされた僕まで、お説教を受ける羽目になった。僕からすれば、文字通り踏んだり蹴ったりの事件だ。
「他にもまだまだありますよ。例えば……」
「もういい! 十分です! フンだ! 悠里君のイジワル。根性曲がり。いじめっ子!」
ソファーで膝を抱え、奈津美先輩は半泣きになってしまった。「うぅ……」と唸りながら、涙を溜めた恨みがましい目で、こちらを睨んでくる。
いや、いじめっ子って……。これ、奈津美先輩が言わせたことでしょうが。何で僕が悪役になっているんだか。
「ともかく、今年の文集を手製本で作ることは決定事項よ! イジワル悠里君が何言ったって、変更しないんだから」
奈津美先輩は、小さな舌をのぞかせて、あっかんべーをしてきた。
僕、あっかんベーをリアルにやる高校生なんて、初めて見た。今時、小学生だってやらないぞ、そんな仕草。どれだけ子供なんだ。
これ、確実にいつまでも根に持つパターンだよなぁ。きっとことあるごとに、「悠里君はイジワルだから~」とか言ってくるに違いない。
仕方ない。まあ、十分にお灸を据えることもできたし、ここら辺で話を本筋に引き戻して……。
「そんなすねないでください、先輩。さっきも言いましたけど、僕は別に手製本をやることに反対はしていませんよ」
ふてくされて三角座りを始めた奈津美先輩へ、苦笑交じりに声をかける。
すると、奈津美先輩は警戒する野生動物のように、膝の向こうから僕の顔を窺ってきた。
「……本当に?」
「本当です」
「嘘偽りなく?」
「誓ってもいいですよ」
ここで嘘をつく必要はない。手負いの野生動物を保護するような心境で、優しく肯定の言葉を重ねていく。
僕が答える度に、奈津美先輩の機嫌が直っていくのがわかる。犬が尻尾を振っているような感じだ。良くも悪くも一直線な人だから、自分のアイデアを支持されると、素直に喜んでしまうのだ。
こちらとしては、扱いやすくて大変助かる。あと、こういう奈津美先輩のポジティブに物事を捉えられるところは、少しうらやましいと思う。人生楽しそうだし。
「第一、小学生の時に約束したじゃないですか。先輩が本気で製本の取り組もうとするなら、僕は必ず先輩を支持します」
これは、純粋に僕の本心だ。この気持ちだけは、小学生の頃から少しも変わらない。奈津美先輩が製本家を目指し続ける限り、僕は絶対に味方につく。あの夏、僕はそう誓ったから。
ただ、正直に言うと、今のセリフは結構恥ずかしかった。自分の顔が火照っているのが、よくわかる。いくらなんでも、今のはサービスし過ぎたかもしれない。この分の帳尻は、またどこかで合わせるとしよう。
けれど、今回については恥ずかしい思いをした甲斐あって、奈津美先輩はすっかり機嫌を直したらしい。完全復活した。
「……フッフッフ! さすがは書籍部のエース、私の自慢の後輩ね。悠里君なら必ずそう言ってくれるって、私は信じていたわ!」
抱えていた膝を伸ばし、奈津美先輩がソファーからピョンと立ち上がる。野生動物のような警戒心もどこかへふっ飛び、目論み通りといった顔だ。この人、本当に調子がいいなぁ。
もっとも、これがきっかけで二年前のように暴走されては困る。多方面に迷惑が掛かるし、一番面倒な思いをするのは確実に僕だ。
よって、ひとつの条件を出させてもらうことにした。
「ただし、今回はぼくも一緒に製本をやらせてください。材料の買い付けも、一緒に付いていきます。そうすれば、きっと同じ失敗をしないで済みますよ」
「もちろんよ! ふたりで素晴らしい作品を作りましょう!」
奈津美先輩が、満面の笑顔で鷹揚に頷く。
完全に僕を信用している様子だ。これなら、ちゃんと僕の言葉を聞いてくれるはず。本人も一昨年の失敗を踏まえて装丁の設計をしているようだし、たぶん今回は大丈夫……だと思う。
けど、暴走状態の奈津美先輩は、行動が読めないからな。何を仕出かすかわからない。僕がしっかり監視しておかないと……。
すると、奈津美先輩が僕のシャツの袖を引っ張ってきた。
「さあ、これから忙しくなるわよ。まずは文集のテーマを決めて、原稿を書かなきゃ。大体は私の方で決めてきたから、悠里君の意見を聞かせてね。今年は、体験レポート特集にしようと思うの。きっと悠里君も気に入ってくれると思うわ」
春に芽吹く花々のように、奈津美先輩は朗らかに笑う。文集の話をする奈津美先輩は本当に楽しそうで、僕まで自然と笑顔になってしまった。
「今年の夏休みは充実したお休みになりそうね。悠里君、ハードな夏になると思うから、覚悟しておいてね!」
「わかりました。先輩も、今度の期末テストで追試なんて食らわないようにしてくださいね」
「…………え?」
僕の言葉を聞いた瞬間、奈津美先輩が笑顔のままピシリと固まった。石像にでもなったかのように、ピクリとも動かない。
と思ったら、急に顔を伏せてしまった。サラサラした黒い前髪の奥に、表情が隠れる。
なんだろう、これ。何とも不安を掻き立てるような反応だ。
「あの、先輩……?」
恐る恐る、奈津美先輩の表情を窺う。
思いっきり顔を逸らされた。先輩が顔を向けた方へ視線を向けると、別の方向へ顔逸らす。そんなことを数回繰り返していると、とうとう奈津美先輩は、まるで僕から逃げるように後ろを向いてしまった。
「先輩、つかぬことをお聞きしますけど……本当に大丈夫ですよね?」
不安に耐え切れずに声を掛けてみたら、奈津美先輩の華奢な肩がピクリと揺れた。揺れはそのまま、震えに変わっていく。
なんなんだ、この緊張感は。例えるなら、火山が噴火する直前のような……。
妙なプレッシャーに、僕は思わず息を飲む。
すると、何やら色々と爆発させた奈津美先輩が、振り向き様に僕の胸へ飛び込んできた。