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「ま、まさかとは思うけど……悠里君、私が誰だかわからないなんてことは……あ、あるわけないわよね?」
「いや、バッチリ初対面だと思っていましたが……。どこかでお会いしたことありましたっけ?」
バッサリと思ったままのことを告げる。
少なくとも、こんな破天荒で素っ頓狂な行動をする女子に心当たりはない。
ただ、そう思った瞬間、心に小さな引っ掛かりを感じた。
そうだ、忘れていた。妙な行動の印象が強くなってしまってすっ飛んでいたけど、最初に名前を呼ばれた瞬間、なぜか懐かしい感じがしたのだ。
もしかしたら本当に忘れているだけで、僕はこの人に会ったことがあるのかもしれない。僕がそう思い直して一応記憶を探り始めた瞬間、隣で「うわーん!」という泣き声が上がった。
「ひどい! 悠里君、私のことを忘れたなんて! 私は、入学式で悠里君が壇上に上がった時から気付いていたのに! ガチガチに固まってちょっと声が裏返っているところとか、猛烈にかわいいって微笑ましく思っていたのに!!」
「……先輩、もしかして僕にケンカ売ってますか? 売ってますよね?」
両手で顔を覆った二年生に、僕は青筋を浮かべた笑顔のまま、優しく確認する。
今のって、絶対腹いせだよな。僕が覚えていないことに対する腹いせだよな。
すると、彼女は両手を下ろし、僕の方を見た。その目に涙はなく、むしろ憤りの炎が燃えている。彼女は怒りのままにビシッと僕を指差し、挑戦状でも叩きつけるように声を上げた。
「いいわ。忘れたというなら、絶対私からは名乗らない。意地でも悠里君自身に思い出してもらうんだから!」
「それは構わないですけど、このままだと僕、見ず知らずの先輩から勧誘を受けただけになりますよ。その場合、見ず知らずの先輩のために入部する義理はないので、このまま帰ることになりますが」
上級生の大人気なさを目の当たりにして頭が冷えた僕が、冷静に指摘する。
瞬間、彼女の勢いが目に見えて消沈した。心の中で葛藤しているらしく、口元をむにゃむにゃさせ、「あ~」とか「う~」とか唸っている。
と思ったら、恨みがましい目つきで、僕のことを睨んできた。
「……七年前は、もっと素直でかわいい男の子だったのに~。少し会わない内に、どうしてこんなひねくれちゃったのかしら」
「ひねくれたとは何ですか。むしろ、ここまで付き合っているだけでもかなり心が広い部類だと……って、七年前?」
「そうよ! 七年前の夏、市立図書館、製本家、約束!」
二年生が、キーワードのようにいくつかの単語を並べる。
そのひとつひとつが僕の脳内に木霊し、ひとりの女の子の姿を映し出した。改めて彼女の顔をまじまじと見てみれば、確かに当時の面影もある。
いや、でも、まさかな……。
ありえないと思いつつも、僕は愛想笑いを浮かべて彼女に問い掛けた。
「あの~、つかぬことをお伺いしますが、先輩のお名前は栃折奈津美さんではないですよね……?」
「そうです! 私が栃折製本工房の栃折奈津美です!」
両手を腰に当てた二年生が、ぷくっと頬を膨らませる。やっと思い出したのね、と言わんばかりだ。
一方、僕の方は信じられないものを見たような心地だ。開いた口が塞がらない。もう少し体力が余っていたら、「うっそだ~っ!」と人目も憚らずに叫んでいたかもしれない。
確かに僕は七年前の夏、一週間だけ栃折奈津美という女の子と遊んでいた。けれど、当時の奈津美ちゃんは、芯は強いけどあまり自己主張しない、大人しい子だった。間違っても人前で腰にしがみつくような奇行をする子ではなかったはずだ。
「……まさか、偽物?」
「失礼ね。正真正銘、本人です」
二年生が、ブレザーの胸ポケットから生徒手帳を取り出し、中を見せてきた。そこには確かに『栃折奈津美』という名前と、彼女の顔写真がある。
何だか昔の思い出が崩れていく気がして、眩暈を起こしそうだ。
そんな僕の心情に気づくこともなく、奈津美ちゃん改め奈津美先輩はなぜか勝ち誇った顔で、またもや超理論を展開し始めた。
「まあいいわ。さあ、これで納得できたでしょう? あなたはこの高校に入学したその時から、書籍部に入る運命だったのよ」
「いえ、わけがわかりませんから。先輩があの『奈津美ちゃん』だってことはわかりましたが、それとこれとは話が別です。僕、そろそろ勉強の時間なので失礼します」
適当な理由をつけて帰ろうとしたら、また腰にしがみつかれた。
「七年前に約束したじゃない! まさか忘れたの!?」
「あの〝約束〟なら覚えていますが、〝書籍部に入る〟という約束を交わした覚えはありません!」
再び奈津美先輩を引き離しながら、こちらも必死に反論する。
すると、奈津美先輩も今度は意外とすんなり手を離してくれた。ただし、何だか様子がおかしい。先輩から、覚悟を決めた人間特有のオーラみたいなものを感じる。
「いいわ。それなら私も、最後の手段を取るから」
「は? 最後の手段?」
嫌な予感を覚えながら尋ね返す。
対する奈津美先輩は桜色の唇をニヤリと吊り上げ、おもむろに地面にうずくまった。
「ひどい! あんまりよ! 思わせぶりな態度で約束しておいて、飽きたらポイなのね! 女の子みたいに綺麗な顔して、中身は鬼畜外道なのね! 女ったらし! 天然ジゴロ!!」
地面に伏せた奈津美先輩が、これ見よがしに大きな声で叫びながら泣き始めた。
当然ながら、騒ぎを聞きつけて再び野次馬が集まってくる。どうやらこれが狙いだったようだ。この人、形振り構わな過ぎだろう!
そうこうしている内に、野次馬の数は増えていく。突き刺さる野次馬からの白い視線。僕の方を見たり指さしたりしながら、ヒソヒソ話をしている。
堪らず僕は、奈津美先輩に声を掛けた。
「ちょっ! 何やってんですか、先輩。みんな見ていますから、そんなみっともないマネ、やめてください」
「書籍部はもうおしまいよ! 今年も入部者0のまま、きっと私の代で廃部しちゃうんだわ~っ!」
より一層大きな声で、奈津美先輩が喚き立てる。
どうやらこの人、「死なばもろとも!」といらん覚悟を固めたらしい。先程の妙な威圧感の正体はこれだ。こうなっては、もうテコでも動きそうにない。
泣きたいのは、僕の方だよ。何で入学早々、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。
自分の不運を嘆きつつ、僕はもはやヤケクソで叫んだ。
「ああ、もう! わかりましたよ。入ればいいんでしょ、入れば! わかりましたから、さっさとやめてください」
「本当!」
根負けして僕が折れた瞬間、奈津美先輩はパッと顔を輝かせながら立ち上がった。
「ありがとう、悠里君。君なら、きっと入部してくれるって信じていたわ!」
僕の手を握り、目をキラキラさせる奈津美先輩。気のせいか、握る手の力がやたらと強い。僕を絶対に逃がさないという強い意志を感じる。
「そうと決まれば、早速部室へ行きましょう!」
「今からですか!? というか、そんな強く引っ張らないでください」
僕の手を引っ張り、奈津美先輩はポカンとする野次馬の間を抜けていく。
こうして僕は、抵抗虚しく書籍部の部室へ連行されたのだった。