3-1
駅ビルから出ると、すでに太陽は西に傾いていた。夕日が街をオレンジ色に染め、足元には長い影ができている。
そんな夕焼けの中、両手に紙袋を持った奈津美先輩が「うーん」と伸びをした。
「あ~、堪能した~! やっぱり、夏休みはちゃんと楽しまないといけないわね」
やり切った感満載で、奈津美先輩が両手に抱えた戦利品に目をやる。紙袋の中身は、展覧会を行っていた書店が発行している稀覯書目録だ。今回展示されていた本も、すべて収録されている。他にも、カタログ類を片っ端からもらっていた。
さらに極め付けは、「これなら買える!」と奈津美先輩が嬉々して選んだ仮製本の古書だ。二十世紀前半の本だが、それほど珍しいものではないため、お値段は二千円のお手頃価格だった。
「ああ~、どんな製本をしようかしら。やっぱり、古書には革の装丁が似合うわよね。ここは思い切り奮発して、ちょっと高い革でも使ってみようかしら」
本が入った紙袋を胸に抱き、奈津美先輩はクリスマスプレゼントをもらった子供のようにはしゃいでいる。もうすでに、買った本を製本することに頭が向かっているようだ。
奈津美先輩らしいと、思わず微笑ましく見てしまう。
「その本の製本もいいですけど、文集の製本も忘れないでくださいね。文化祭まであと二週間を切ってるんですから」
「もちろんわかっているわ。そっちだって、一切手を抜くつもりはありません。最高の本にしてあげるんだから!」
僕がやんわりツッコむように言うと、奈津美先輩は自信満々に胸を張った。
うちの学校の文化祭は、二学期が始まってすぐに行われる。僕らにとっても、今はラストスパートの真っ只中だ。
そして、奈津美先輩の自信が張りぼてではないことは、僕が一番よく知っていた。
今回の製本は、僕も製本の手伝いをさせてもらっているのだ。文集の製作状況は、僕だって余すことなく把握している。
その出来は、奈津美先輩に対する感情や当事者としての贔屓目を抜いてみても、素晴らしいの一言だ。
素材的には、一昨年作成した本に及ばないかもしれない。けれど、この二年で奈津美先輩がさらに磨きをかけた技術が、素材の差を見事に埋めていた。
これなら、絶対に二年前よりも素敵な本が出来上がるはず。そう確信が持てる出来栄えだった。
「その意気で、残りの宿題も手を抜かずに頑張ってくださいね」
「うっ! も、もちろんよ?」
なぜそこで呻いたり、疑問形になったりするかな。
本当にこの人は、考えていることが表に出やすい。奈津美先輩が宿題をサボらないように、しっかり目を光らせておこう。
すると、不意に奈津美先輩が駅ビルの方へ振り返って、その最上階を見上げた。
「ああ、なんで楽しい時間は、こんなに早く過ぎて行ってしまうのかしら。学校の授業なんて、時計が止まっているんじゃないかってくらいに時間の進みが遅いのに。ずっとあの展示会場で、外界のことなんか忘れて本に囲まれていたい気分だわ」
「スタッフさんたちに迷惑ですから、やめてください。大人しく現実を見ましょう」
どうやら、宿題やら来週から始まる二学期やらを想い、帰ることが名残惜しくなってしまったらしい。本気で展示会場を占拠しに行かないよう、釘を刺しておく。この人なら、本気でやりかねないし……。
ただ、これはチャンスでもある。なので僕も、今日は少しだけ背伸びをしてみることにした。
「また来たいのだったら、文化祭が終わったらもう一回来ればいいですよ。打ち上げも兼ねて、今日みたいにふたりで展示を見て回りましょう」
顔から火が出そうになりながら、今度は僕から奈津美先輩に誘いを持ちかける。
なんとか声を裏返らせたり、つっかえたりすることなく言えたけど、顔はきっと赤くなっているだろう。おかげで、奈津美先輩の方をまともに見ることができない。
今が夕方で、本当に良かった。これなら多少顔が赤くなっていても、夕日の所為だと誤魔化せるから。
ただ、僕の誘いに対し、奈津美先輩は何も返答してはこなかった。
もしかして、少し強引過ぎただろうか。露骨に誘い過ぎていて、引かれてしまったのだろうか。
様子を窺うように、恐る恐る奈津美先輩の方へ顔を向ける。
そして僕は、戸惑いの声を上げた。
「先輩……?」
僕の視線の先で、奈津美先輩は儚い微笑みを浮かべながら立ち尽くしていた。眉をハの字にして、困ったような、寂しいような、そんな色々な感情を混ぜた笑みで佇んでいた。
「先輩、どうかしたんですか? もしかして僕の誘い、ウザかったですか?」
「ううん、違うの」
やっぱりやり過ぎだったかと思って聞いてみると、奈津美先輩はすぐさま首を振った。
それが本心なのか、僕を気遣っての嘘なのか、その表情からははっきりしない。
僕がどうすればいいか迷っていると、奈津美先輩は「嘘じゃないわ」と続けて優しく声を掛けてくれた。
「誘ってくれて、すごくうれしいわ。今日だって、悠里君と一緒に展示を見ることができて、すごく楽しかったもの。またいっしょに来ることができたら、きっと今日よりも楽しいでしょうね」
「それじゃあ、何でそんな悲しそうに笑っているんですか?」
まるで今にも消えてしまいそうに、そんな儚く……。
口に出かけた言葉を、僕は必死に飲み込んだ。なぜかはわからないけど、嫌な予感がしたのだ。これを口に出してしまったら、良くないことが現実になってしまうような、そんな嫌な予感が……。
けれど、神様は残酷だ。言葉を飲み込んだ僕を嘲笑うかのように、時計の針を前へ前へと進めていく。
「……悠里君に、大事な話があるの」
「大事な……話……?」
表情を引き締めた奈津美先輩が、僕を正面から見つめた。
奈津美先輩の澄み切った瞳に、僕の顔が映り込む。迷子になってしまった子供のように情けない顔だ。動揺し、狼狽えている。
そんな僕の姿を見て、心を痛めたのだろうか。奈津美先輩が、少し辛そうに唇を噛んだ。
しかし、すぐにひとつ深呼吸をして、改めて僕の目を見据えた。
「悠里君の誘い、とてもうれしかったわ。でも、ごめんなさい。それを受けることはできないの」
「どうして……ですか?」
擦れた声で、奈津美先輩に尋ね返す。
頭の中では、警鐘が絶え間なく鳴り響いていた。虫の知らせというやつだ。これ以上先に進んだら、取り返しのつかないことになる。
それでも、聞かずにはいられなかった。
僕の眼前で、奈津美先輩は押し黙っている。理由を告げることを躊躇っている様子だ。
けれど、意を決したのだろう。
奈津美先輩は、僕にとって最悪の知らせを口にした。
「……文化祭のすぐ後に、私は高校を中退するわ。それで、フランスにいる祖父の知り合いのもとへ修行に行くの。だから……もう悠里君とお出掛けすることはできないの」
奈津美先輩の言葉が、僕の全身を稲妻のように駆け抜けた。
いや、むしろこれが本物の稲妻で、僕のことを一気に焼き尽くしてくれていたら、どんなに楽だっただろう。
呆然と立ち尽くしている僕に向かって、奈津美先輩は言葉を続ける。
要約すると、僕が市立図書館のイタズラの顛末を告げたあの日、奈津美先輩のお祖父さんのところに来客があったそうだ。その人はフランスで工房を開いている製本家で、お祖父さんの古くからの知り合いだったらしい。日本へ観光旅行に来たその人は、旧知の仲であるお祖父さんのところへ挨拶に来たのだ。
そして、工房でお祖父さんと話をしていた製本家は、一冊の本に目を止めた。
それは、奈津美先輩が二年前の文化祭で作った文集だった……。
『君の孫、高校卒業後は製本家になるための修行するつもりなんだよね。だったら、ぜひ僕の弟子として雇わせてくれないか。こんな素敵な本を作る子なら、育て甲斐がありそうだ。何なら高校卒業後なんて言わず、今すぐに来てもらってもいい!』
製本家は、お祖父さんへ熱心にそう申し出たらしい。
相手は本場フランスで活躍する、一流の製本家だ。孫を預ける先としては申し分ない。それに日本語も話せる人だから、言語面での障害も少ない。正に最高の修行先だ。
お祖父さんは、すぐに奈津美先輩へ電話を掛けた。これが、あの時の電話だ。
お祖父さんと製本家から話を聞いた奈津美先輩は、お盆休みの間に一生懸命考えたらしい。そして――フランスへ渡ることを決めたのだ。