3-2
「あ、戻ってきた。ふたりとも、お疲れ様」
棚の前には、陽菜乃さんが立っていた。たぶん、僕たちの様子を見に来たんだろう。
「どう? 何か困ったことや変わったことはない?」
その証拠に、陽菜乃さんはふわりと微笑みながら、仕事の状況を聞いてきた。
「いいえ。たまに子供たちから質問を受けるくらいで、困ったことは特にないです」
「それを困ったことがないって言えちゃうところが、一ノ瀬君のすごいところよね。普通の学生さんたちは、化粧室の場所を聞かれただけでも目を白黒させちゃうのに」
陽菜乃さんが、おかしそうにクスクスと笑う。どうやら褒めてもらえたらしい。
「それはそうと、もう四時を回ったから、そろそろ事務室に戻ろっか。ふたりとも今日で最後だから、課長たちに挨拶してきましょう」
奈津美先輩と揃って「はい!」と返事をする。
そうか。僕らがこの図書館のスタッフでいられるのも、あと一時間弱しかないんだ。ものすごく名残惜しい……。
その時だ。棚の影から児童書担当のパートさんが姿を現した。
「あ、清森さん。ちょうどいいところに」
「黒部さん? どうかしたんですか?」
駆け寄ってきたパートさんを、陽菜乃さんが首を傾げながら迎える。
「いやね、あっちの棚で、また例のイタズラが……」
「ああ、あれですか。ここのところは落ち着いていたのに、またやられましたか」
例のイタズラ? 何だか、あんまり穏やかじゃない感じだな。
何があったのか聞いてみたいところだけど、僕らが口出ししていいものか……。
「あの、陽菜乃さん。例のイタズラって何ですか?」
僕が逡巡している間に、奈津美先輩が果敢に突っ込んでいった。
奈津美先輩の空気を読めないところが、こんな時に役立つとは……! グッジョブです、先輩!
「ああ、イタズラって言っても、些細なものなんだけどね。ほら、あっちに最下段が開いている書架があるでしょ。その空いている棚に、本が何冊か勝手に並べられているのよ」
陽菜乃さんが、棚がある方を指さしながら言う。
確かに書架整理中、最下段が空いている棚を見た。あそこが事件現場か。
「けど、それだけじゃあ、イタズラとは言えないんじゃないですか。誰かが、読み終わった本を適当に入れていっただけかもしれませんし」
「これが一回や二回なら、私たちも一ノ瀬君と同じように思うわ。けど、七月の頭から、毎日のように本が置かれていたのよ。しかも、時間は決まって夕方四時頃で、職員の目がない隙に本が置かれているの」
これじゃあ、誰かが意図的にやっているとしか思いないでしょう? と、陽菜乃さんが困り顔で僕を見る。
うーん、そこまで来ると、やっぱりイタズラなのかな?
職員も忙しいから、ずっと同じ書架を見張っているわけにはいかない。隙をつくのは簡単だろう。ならば、職員をからかうための子供のイタズラというのは、十分に考えられる。
「夏休みに入った辺りからは、パタリと止んでいたんだけどね。またやり始めたんだとしたら、ちょっと困りものね」
陽菜乃さんが、悩まし気にため息をついた。
「その書架、ちょっと見に行ってもいいですか?」
「構わないわよ。私も一緒に行くわ。――黒部さん、本は私が配架し直しておきますので、お仕事を続けてください」
「そうですか? じゃあ、お願いしますね」
ぺこりと頭を下げて、パートさんが去っていく。
それを見送り、僕と奈津美先輩、陽菜乃さんは、件の書架へと移動した。
「これが、その勝手に並べられている本ですか。やっぱり、パッと見ただけだと読んでいた本を全部押しこんだようにしか見えませんね」
「そうね。だけど、ひとりで読んでいたにしては、統一性に欠けるわね」
陽菜乃さんに言われ、改めて本の背を見てみる。
並んでいる本は、全部で八冊。左から、
『ごんぎつね(請求記号913)』
『面積と体積(請求記号411)』
『ねずみ小僧の谷(請求記号913)』
『まどのそとのそのまたむこう(請求記号E)』
『タガメのいるたんぼ(請求記号486)』
『会津藩、戊辰戦争に散る(請求記号210)』
『おりがみであそぼう(請求記号754)』
『うみのいきもの(請求記号480)』
となっている。
なるほど。並んでいるのは全部児童書コーナーの本みたいだけど、背ラベルの請求記号は見事にバラバラだ。請求記号の番号は本のジャンルを示しているから、陽菜乃さんが言う通り、ひとりが読んだにしては統一感がなさ過ぎる。ちなみに、Eは絵本のことだ。
そう考えると、ここに入れるために適当に別の書架から本を持ってきたようにしか見えないか。わざわざ色んなところから本を見繕ってくる辺り、ちょっと悪質だ。
「とりあえず、片付けてしまいましょうか。もしこの本を探している人がいたら、迷惑になっちゃうし」
「そうですね。僕も片付け、手伝います」
陽菜乃さんと一緒に、本を棚から取り出す。
どういうつもりでこんなことをしているのかわからないけど、傍迷惑な話だ。このイタズラのせいで本が見つけられなくて、クレームになることだってありえるのに……。
何だか、イタズラの犯人が無性に許せなくなってきた。こうなったら、張り込みでもしてしょっぴいてやろうか。
と、僕が内心で息巻いていた時だ。
「あの……陽菜乃さん!」
義憤にかられる僕の耳に、澄んだ声が響いた。
誰の声かなんて、考えるまでもない。その人物の方へ振り返ると、僕と同時に動くひとつの影があった。
「陽菜乃さん、このイタズラ、あと一回だけ許してあげてくれませんか?」
お願いします、と奈津美先輩が頭を下げる。
僕と陽菜乃さんは、わけがわからず目を丸くするばかりだ。
いきなりどうしたんだ? 何で奈津美先輩が、犯人の肩を持つようなことを言い出すんだ?
「先輩、どうしたんですか? イタズラを許せなんて、そんなこと認められるわけないじゃないですか!」
「図書館にとって、これが悪いことだっていうのはわかっているわ。これが利用者さんにとっての迷惑になるってことも……。けど、悠里君だって見たでしょ。私、どうしてもこの子に返事が届いてほしいの!」
だって、私もこの子の気持ちがわかる気がするから……。そう呟いた奈津美先輩の表情は、今にも泣き出しそうなくらいに切実だ。
どうしていいかわからず、僕は棚から取り出したばかりの本に目をやる。
奈津美先輩は、この並べられた本に何を見たんだ? 返事って、一体何のことだ?
「先輩、さっきから何を言っているんですか? 何をそんなムキになっているんです?」
「だって、あのメッセージを読んだら、私、居ても立っても居られなくて……」
「メッセージ?」
奈津美先輩が感情的に訴えてくるが、僕と陽菜乃さんは揃って首を傾げるばかりだ。
メッセージ? そんなもの、さっきの本にあっただろうか。
「えっと……あれ?」
そこで奈津美先輩も、ようやく自分と僕たちの間に認識の齟齬があると気づいたようだ。気付いてないの? と、戸惑い交じりの視線を僕に向けてきた。
「悠里君、さっき本が並んでいた時、一体どこを見ていたの?」
「どこって……請求記号がバラバラで、統一感がないな、と……」
チラリと陽菜乃さんの方を見ると、僕に同意するようにコクリと頷いてくれた。
ただ、奈津美先輩はきょとんとした様子で目をパチクリさせている。
「請求記号って、背のラベルについているあの番号よね? 何でそんなこと見ているの?」
「いや、何でって……。普通、最初にそこ見るでしょ。本を並べるのに、一番重要な情報なんですから」
困惑気味な声音で答える。
僕の答えを聞いた奈津美先輩は難しい顔で考え込み、ふと何かに気が付いた様子でポンと手を打った。
「悠里君、頭がお仕事方面に固まり過ぎよ。もっと利用者さんの視点で考えてみて。普通の利用者さんは、最初にそんなところを見ないわ」
「普通の利用者の視点……」
言われて、初めて気付いた。
盲点だったというか、普段のクセで書架を管理する側の視点に立ってしまっていた。
請求記号なんて、図書館に詳しい利用者でもなければ、どうでもいい数字の羅列でしかない。ましてや子供がそこを気にすることなんかないだろう。
では、利用者がまず目にする場所とはどこか。そんなの、ひとつに決まっている。
利用者が目にする部分とメッセージ。子供が考えるイタズラ。それに、児童書コーナーの至る所からかき集めた本。そこに、わざわざ色んなところから見繕わなければならない理由があったとすれば……。