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歳を取ると一年がとても早く過ぎるように感じると言うけれど、それは年長者だけの特権ではない。僕たち学生でも同じだと思う。
つまるところ、これはライフスタイルの問題なのだ。
毎日同じ時間に起きて、同じ時間に電車に乗る。朝から夕方まで、一定の間隔で授業を受け続ける。こんな決まり切った生活を続けていたら、時間の感覚だって麻痺してくるというものだ。
というわけで、高校に入学してからあっという間に一年と数カ月が経った。
僕は初々しい一年生から中間管理職的な二年生に進級し、今は六月下旬。校舎の外では、今日もどんよりとした雲が空を覆っていた。
これは、放課後には雨が降り出しているかもしれない。
僕は頬杖をついたまま、図書室のカウンターから灰色の雲を見つめる。
最近はずっとこんな天気ばかりだ。ここ一週間で、青空を見た記憶がない。こうもぐずついた天気ばかりだと、気分まで滅入ってくる。
「あの、すみません。この本の貸し出し、お願いします」
ふと声を掛けられ、視線と気持ちを室内に戻す。
今は、昼休みの図書室カウンター当番の真っ最中だ。カウンターの前には、一年生の校章を付けた男子生徒が立っていた。
男子生徒から貸出カードと本を受け取り、それぞれのバーコードを読み取っていく。
「お待たせしました。七月十二日までの貸し出しです」
本に期限日を書いたスリップをはさみ、男子生徒に手渡す。この学校の図書委員になって二年目。もはや目をつぶっていてもできそうなくらいに慣れた動作だ。
本を受け取った男子生徒は、「ありがとうございます」と頭を下げて去っていった。なかなか礼儀正しい後輩だ。
立ち去る後輩の後ろ姿を眺めていると、今度は自分の後ろから声が掛かった。
「一ノ瀬君、おつかれ。ごめんね、少し遅くなっちゃった。私、食べるの遅くて」
「いえ、時間通りですよ、宮野先輩」
声の主は、一緒にカウンター当番をやっている三年の先輩だ。
昼休みのカウンター当番は、ひとりがカウンターに座り、もうひとりが奥の準備室で昼食を取ることになっている。今日は僕が先にカウンターに入るシフトだ。
「今日はどんな感じ?」
席を代わりながら、宮野先輩が聞いてくる。三カ月近く一緒に当番をやっているだけあって、割とフランクな感じだ。
僕も同じく気楽な口調で引き継ぎをする。
「天気が悪い所為か、利用者多めですね。いつもより、少し忙しいです」
「了解。じゃあ、後はやっておくから、裏でお昼取ってきなよ」
「はい。よろしくお願いします」
宮野先輩に見送られ、カウンターから出る。
これで今日のお勤めは終わったようなものだ。後はいつも通り、昼休みが終わるまで、のんびり弁当を食べていればいい。
だけど、何の変哲もない日常というものは、得てして唐突に破られるもので……。
――バタンッ!
僕がカウンターから出たのと、まったく同時。出入り口の方から大きな音がして、図書室の静寂が打ち破られた。
いや、見方によっては真の静寂が作られたとも言えるかもしれない。なぜなら、図書室内にいた全員が驚いた顔で動きを止めたのだから。
ともあれ、おそらく今のは勢いよく開けられた扉が壁にぶつかった音だろう。扉にはめられているガラスにヒビが入っていないか、心配である。
まあ、それはとりあえず横に置いておこう。
大きな音に次いで、静まり返った図書室内にパタパタという軽やかな足音が響いた。
何だか聞き覚えのある足音である。というか、この足音は間違いない。この騒動の元凶は、絶対にあの人だ。
この学校の図書室は、カウンターから出入り口が見えない。出入り口とカウンター奥の準備室が横に並ぶ配置のため、背が高めの間仕切りがあるのだ。
よって数瞬の間、足音の主が姿を現すのを待つ。間仕切りの陰から姿を現したのは、やはり僕の予想通りの人物だった。
背中に流れる黒髪と、黒曜石のような黒い瞳。新雪のように白い肌と華奢な体。黙って立ってさえいれば、お淑やかな深窓の令嬢に見えなくもない女子生徒である。
ただし、今は興奮した様子でその白い頬をピンク色に上気させている。瞳は爛々と輝き、口元も笑みを抑え切れないといった様子だった。感情を隠すのが苦手な人なのだ。
ついでに言うなら、一度動き始めると、周りが見えなくなる人でもある。現に今も、周囲から向けられる奇異の視線に気付きもせず、図書室内をキョロキョロと見回している。
「あ、いた! おーい、悠里君!」
黒曜石の瞳に僕の姿を映し、彼女が大きく手を振ってきた。自然、図書室中の視線が僕の方に集まる。
恥ずかしいから、本当にやめてほしい。というか、隣から感じる宮野先輩の同情するような視線が心に痛い。
「探したわよ、悠里君。聞いて! 私、ついにやったの!」
パタパタと僕の前にやってきた彼女は、ウフフ、とうれしそうに笑う。
一方の僕は、仏頂面の半眼で答えた。
「ほう、そうですか。で、今回は何をやらかしたんですか、先輩? 職員室への呼び出しだったら、ひとりで行ってきてくださいね。補習だったら、逃げずに大人しく受けてきてください」
「もう、違うわよ! 人を問題児みたいに言わないで。〝やらかした〟んじゃなくて〝やった〟の!」
僕の皮肉に、奇怪な女生徒こと奈津美先輩は、上気した頬をぷくっと膨らませて憤慨した。笑ったり怒ったり、ころころと表情を変えて忙しない人だ。
あとひとつ言わせてもらえば、「問題児みたいに言わないで」も何も、現在進行形でやっていることがすでに問題だ。立派にやらかしている。
まあ、そんなことをいちいち突っこんでいては先に進まない。奈津美先輩と会話する上で大事なこと、それはスルースキルだ。過去を振り返ることなく、これからを大切にするため、僕は一切の感情を捨てた棒読みで言葉を紡いだ。
「わかりました。僕が間違っていました。先輩は問題児ではありませんし、やらかしてもいません。先輩は、僕が尊敬する立派な書籍部の部長です」
「うんうん。わかればいいのよ!」
奈津美先輩が、えへん! と胸を張る。
その仕草によって強調された部位が目に入った瞬間、僕の頭の中に〝関東平野〟の四文字が躍った。かわいそうに……。
「どうしたの、悠里君。お葬式みたいな顔をして」
「いえ、気にしないでください。ところで先輩、一度ゆっくり深呼吸をした後、周りを見回してみてくれますか?」
「へ? うん、わかったわ」
僕に言われた通り、奈津美先輩はその場でゆっくりと深呼吸をする。素直な人だ。
とりあえずこれで、先輩も少しは冷静になれたことだろう。安堵する僕の前で、奈津美先輩は周囲を見渡し……先程とは別の意味で頬を赤く染めた。
「気が付いてくれて、僕もうれしいです」
労わるような口調で重々しく言いながら、奈津美先輩の細い肩に手を置く。
頭が冷えたことで、ようやく自分が注目の的になっていることを察したようだ。それも、恥ずかしい意味での注目の的であることに……。
奈津美先輩に人並みの羞恥心を与えてくれた神様に、心から感謝したい。けど、欲を言うなら、猪突猛進な行動を起こさないための思慮深さも与えてほしかった。
ともあれ、これで奈津美先輩の暴走は治まった。今なら僕の話も耳に入るだろう。
「いいですか、先輩。僕は今、図書委員の仕事中です。それに、図書室はおしゃべりをする場所ではありません。この意味、わかりますよね」
まるで小さい子に言い聞かせるように、ゆっくりと図書室でのマナーを説く。
真っ赤な顔をした奈津美先輩は、驚くほど従順に、コクコクと何度も頷いた。
「お話は、放課後の部活の時に聞きます。今は大人しく、教室へ戻ってください。わかりましたか?」
最後にひとつ、コクリと頷き、奈津美先輩は回れ右をする。そのまま逃げるように、そそくさと図書室を後にした。これにて、一件落着。
それにしても、奈津美先輩の話って一体何だろうか。きっとロクなことじゃないんだろうな……。
去っていく奈津美先輩の後ろ姿を見送り、ひとつため息をつく。この一年数カ月の経験から鑑みるに、あの笑顔は絶対にろくでもないことを運んでくる。
せめて、職員室に謝りに行くような事態にはなりませんように。
どこの誰とも知れない神様に祈りつつ、僕は外の天気のようにどんよりした気分で、図書室の奥に引っ込んだ。