帰路でスキップした
ジュライ伯爵の朝は長椅子の上から始まる。
眠りこけたせいで凝り固まった肩を解し、ローテーブルに散らかったままの書類を読みながら、空いているもう片方の手でコーヒーを飲むのが彼の常だ。
乱れたプラチナブロンドをかき上げて登城する時間を確認する。
今日からウルの教育係としての仕事がはじまるのだ。
ジュライは学生の頃王都の学院を首席で卒業し、今は図書館の経営に携わっている。
王立図書館の最高責任者という大層な肩書きを持っているが、目の下に隈が出来るほど仕事に追われているわけではない。
だからこそ今回の推薦を素直に引き受けたのだ。自ら志願し一次選考で落ちていった者達からは恨まれそうである。
ジュライが抱いたウルの印象は悪くない。
他の王族が少し、いや、かなり個性派揃いなため、どんな癖のある人間がでてくるのかと気が重くなっていたのだが、一番まともそうな王太子で拍子抜けした。
途中、妙に人を惹きつける引力のようなものを感じたが、ほんの一瞬で霧散してしまった。
たかが一瞬。されど一瞬。
脳裏に焼き付くとまではいかないが、ふとした合間に浮かんでくる位には印象に残っている。
本の趣味を聞いてきたのはきっとただの戯れだったのだろう。腹の内を探ろうと一手を投げてみだが感触はいまいちだった。
ウルが言っていた本は薬学と題しながら、毒に関しての記載が非常に多い。それも古代の毒薬についてだ。
著者は薬物研究所に勤めていて、毒を薬に変える研究と開発を行っているネレー・グラン。その関心と興味は不老不死へ強く向いていて、竜についても本で語っていた。不老不死の象徴とされる竜がもし現代にいたら研究したい、と。
ジュライも読んだことがあるから分かる。
分かるからこそ、裏の意味を探ってしまったのだ。
ウルが毒に倒れ、生死を彷徨っていたという事実は有名だ。しかし盛られた毒の名前や詳細は、部外者には一切明かされていない。
ぼくが飲んだ毒薬は?
ジュライには彼がそう言っているように聞こえたのだ。
古代の毒と薬。不老不死の研究。そして老いていないウル。
これらのことから、ジュライはウルに盛られた毒が、魔女の秘薬と呼ばれる古代の毒薬だと思った。
その主な材料が竜の血であることから、竜の生態についての書の題名を答えたのである。
古代竜の血から作られる魔女の秘薬です、と。
あえて失念という言い方をするならば、ジュライがウルのことを子供だと思ってしまったことである。まさか中身が二十三歳の成人男性だなんて想像もしていないだろうし、そもそも知らないのだから当然だ。
ましてや十年間幽体離脱して世界旅行にでかけていたなど、にわかには信じられない話である。
だから目の前でにこにこと笑っているウルに意表を突かれて押し黙ってしまったのも、仕方のないことなのだ。
「実はついこの間、また暗殺されそうになったんだ」
教材をめくっていたジュライの手が止まった。
「……お怪我は?」
「大丈夫。返り討ちにしたから」
「それを聞いて安心しました」
淡々と返すジュライの表情は無だ。
「結構な騒動になったから、てっきり貴方も知っていると思った」
「申し訳ありません。以後、迅速に把握するよう努めます」
「飼い犬に聞くのか?」
部屋に沈黙が降りた。
ジュライは伏せていた顔を上げ、真っ直ぐにウルを射抜いた。
「あの日は人払いをしていたから騒動になんてなっていない。父上にも報告していない。だから、貴公のように忍ばせている者達だって誰も把握出来ていない」
行儀悪く羽根ペンをくるくると指で回しながらウルは続ける。
「首謀者として少し貴方のことも疑っていたが、今その疑いが晴れた。試すようなことをしてすまなかったな」
「…いえ」
会話についていけないという体験をジュライは数年ぶりに味わっていた。
「貴方は優秀だ。言葉の裏に添えた意図を汲み取り、逆に相手の器をはかろうとする度量だってある。有能な人間を傍に置くことが出来て、ぼくはとても嬉しいよ」
濁流のように流れてくる情報に押し潰されないよう、目まぐるしく頭を回転させながら、光栄ですと賛美への礼儀も忘れない。
確かにジュライは自分の従者を何人か王城内に紛れ込ませ、ひっそりと働かせている。しかしそれは情勢を掴むための政治的な手段であって、暗殺を目論んだことは一度もない。
ウルは何食わぬ顔でジュライの心理を暴き出してみせたのだ。
瞬きもせず、ただひたすらにじっとウルを見つめる。
聞きたいことも言いたいこともあるというのに、何故かうまくまとめることが出来ない。ふわふわと虚空を浮遊しているような、地に足がついていないような、この持て余したものをどうにか消化しようとすればするほど口がまごつく。
そうして分かった。
これは高揚だ。それも、初めて感じる類いの。
「何処で何を学んだらそのようになれるのですか」
「世界から」
壮大だった。
二の句が継げなくなった変わりに嘆息する。
どうやらこの王太子は人をおちょくるのが好きらい。
嘘じゃないのにと頬を膨らませる愛らしさに騙されてはいけない。中身は真反対なのだから。
「情報通な貴公に質問なんだが、王族の家族間はどうみえている?」
眉間に皺を寄せたウルはわざとらしいほどに重苦しかった。
「陛下と王妃殿下が会話されているのはよく見かけます。ただ、会話の成立はしていません」
「初動でそれか」
「レヌ様とアノン様は縄張りを争う猫のような関係です。うっかり噛み殺しかけている時もありますが。王女殿下は…」
ウルが腕をかざした。ジュライはピタリと閉口する。
「今日はもう解散しよう」
聞かなかったことにしたいらしい。
「また明日もある。地道にいこう」
「はい、殿下。とても有意義な時間でした」
それこそ、ジュライが楽しいと思うくらいに。