桜花という人
よろしくお願いします。
「おはよう、谷原さん!」
教室に入ると、小夜が弾けるような笑顔で挨拶をしてきた。途端に周囲がどよめいた。
それもそうだろう。これまで全く接点のなかったカースト上位が下位に挨拶をしているのだ。話しかけられた千恵だって面食らった。
「おはよう、鷹村さん」
顔が引きつりながらも、挨拶を返す。その後ろから蘇芳が話しかけてくる。
「なあ、千恵。これは何だ?」
答えようにも、今の蘇芳は誰にも見えない。わかっていて話しかけているのなら腹立たしいのだが、この鬼は何も考えてないに違いない。純粋だから許されると思うなよ、と千恵は内心で毒づく。
挨拶を交わした後は席に着いた。千恵は廊下側の一番後ろの席なので、その後ろには授業参観の保護者のように、蘇芳が立っている。
授業の間だけでも自由に過ごせばいいと思うのだが、蘇芳は断固として離れない。ついてくるというよりも、まるで見張られているようだ。
そして授業が始まった。教師が黒板に板書しているのを、クラスメイトたちが静かに写す音が響いているはずだった。だが、千恵だけはそうではなかった。
「おい、千恵。これは何て読むんだ?」
蘇芳は授業でわからない言葉があるたびに千恵の隣にきては質問する。そのせいで千恵は授業に集中できない。
”いいから静かにして”と、ノートの端に書く。それを読んだ蘇芳は不服顔だ。そしてやっぱり黙らない。
「わからないから聞いているんだろう。教えてくれ」
「ああ、もう!」
千恵はとうとう声を上げてしまった。視線が一斉に千恵に集まり、いたたまれない気持ちになった。
「どうした、谷原」
「すみません、少し気分が悪くて。保健室に行ってきてもいいでしょうか?」
嘘をつくことに心は痛むが、このままでは授業を受けられない。教師も疑ってないようで頷いた。
「ああ、行ってこい。それなら保健委員に……」
「いえ、一人で大丈夫です」
千恵が立ち上がり、教室を出ようとしてふと振り返ると、小夜と目が合った。大丈夫と口をパクパクさせて言っているようで、千恵は小さく頷いた。ふっと小夜が笑って、つられて千恵も笑い返した。
◇
授業中の廊下に人通りはなく、グラウンドから掛け声が聞こえるだけだった。それでも誰かに見られていたらと思うと蘇芳と話すことは出来ず、急いで保健室に向かった。
保健室に行くと保健の先生は出かけているようだった。ベッドにも人がいないのを確認して、千恵は蘇芳に向き直った。
「蘇芳。お願いだから、授業中は静かにして。これじゃあ勉強にならないの」
「静かにしているだろう? 動き回ってもいないぞ」
「わからないことを聞きにきてるじゃない。私だってわからないから勉強してるの。邪魔するのなら、どこか別の場所で時間を潰してて」
「嫌だ。静かにするからそばにいる」
これでは頑是ない子どものようだ。見かけが二十代前半に見えるから、そのギャップがすごい。そこでふと千恵は気づいた。
「そういえば、蘇芳って何歳なの?」
蘇芳は面食らったようで、瞬きをした後、腕を組んで考え込んだ。
「そこまで悩まなくても……」
「覚えてない。というよりは数えるのをやめてしまったが正しいかもしれない。桜花のことで頭がいっぱいだったからな」
「そう……」
本当に蘇芳の頭には桜花のことしかないのだ。そこまで思われる桜花とはどんな人だったのだろうか。どうせ授業に戻っても同じことだ。それなら蘇芳と話をしようと、千恵は蘇芳に尋ねた。
「桜花さんってどんな人だったの?」
「桜花か……綺麗な女だった。外見だけではなくて、中身もな。俺みたいな容姿は当時、嫌われて恐れられていた。だから捨てられたのに、そんな俺を拾って育ててくれた。それどころか、褒めてさえくれたんだ。どうしてなのかと不思議だったが、あいつ自身があいの子だからだったんだな」
「あいの子?」
聞きなれない言葉に、千恵は聞き返した。蘇芳は頷いて続ける。
「ああ。だが、俺とは違って人と精霊の間に生まれた子だと本人が言っていた」
「ちょっと待って! 精霊って子どもができるの?」
精霊と人の間に子どもができるとは思わなかった。つまり、あいの子とは、ハーフのことかと、千恵は納得した。
「ああ。確かに普段は人に見えないし、触れることもできないが、力が強ければ俺みたいに実体化することができる。そうすれば性交はできる」
「もう、そんな言い方はやめて。セクハラよ!」
千恵の顔が熱を帯びる。そういう生々しい話を年頃の乙女にして欲しくはない。だが、蘇芳は不思議そうに首を傾げるだけだ。
「せくはらって何だ」
「説明が難しいけど、とにかく、せい……とかは言わないで」
「何故だ? 皆そうやって生まれてくるだろう」
「それはそうかもしれないけど、とにかく聞いてて恥ずかしいからやめて! そんなことより、桜花さんは何の精霊のハーフなの?」
「はーふ?」
「あなたが言うあいの子? ってことよ」
「なるほどな。桜花の父親は桜の精だと言っていた。桜花と一緒に住んでいた頃、家のそばに桜の木があって、それが父親だと言うから、最初は信じてなかった。だが、俺が鬼になってから精霊が見えるようになって桜花の父親に会ったんだ。桜花はずっと本当のことを言っていた。俺に見えなかっただけなんだ」
「そうなのね」
蘇芳自身は元々普通の人間だったのだ。それは見えなくて当然だ。だが、そうするとまた疑問が湧く。
「それならどうして私が桜花さんの生まれ変わりだってわかるの?」
桜花の魂が見えなかったのなら、千恵が桜花だとわからないはずだ。それなのに蘇芳は迷いなく千恵が桜花の生まれ変わりだと言う。
「桜花は半分精霊でもあったから魂が人と違う。桜花の妹もそうだったからな」
「どんな風に?」
「精霊は生まれ変わらない。ただ生まれて消滅するだけだ。だから、魂が欠けてしまうんだと思う。お前の魂もそうだからわかった」
「私の魂ってそうなってるの?」
そもそも魂が見えないのだから欠けているといわれてもピンとこない。
「そうだな。不完全だが綺麗だ」
蘇芳はうっとりと千恵を見つめている。
魂が綺麗と言われても褒められている気がしない。蘇芳の独特な感性に千恵は溜息をついた。
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