母の気持ち
よろしくお願いします。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関のドアを開けると、一足早く帰っていた母が、廊下のモップがけをしていた。奥から三和土までモップをかけながら来て、千恵の顔を見て動きを止めた。それから母は心配そうに覗き込んできた。
「何かあったの?」
千恵は思わず目を擦った。涙が残っていたのかと思ったのだ。
「目もだけど、顔が腫れてる。たくさん泣いたんでしょう?」
「あ、これは……」
「すまない。俺のせいだ」
千恵の後ろから蘇芳が出てきて母に頭を下げる。千恵は慌てて否定する。
「蘇芳のせいじゃなくて、いろいろあったの」
「そう。話はダイニングでゆっくり聞くわ。とりあえず着替えてらっしゃい」
「うん。蘇芳はお母さんと先に行ってて。着替えたらすぐに行くから」
「わかった」
蘇芳は素直に頷くと、母について行った。それを見送って、千恵は階段を上って自室へ行き、着替える。どこへ行くわけでもないからと、水色のTシャツにジーンズというラフな格好だ。
着替え終わると急いでダイニングへ向かう。天然な蘇芳と母を二人きりにすると、会話がとんでもないことになりそうで恐ろしい。
ダイニングに入ると、二人は向かい合わせでお茶を飲んでいた。蘇芳の隣にお茶が用意してあり、千恵はその席に座った。
「ごめん、おまたせ」
「そんなに急がなくてもよかったのに。変な子ね」
「……蘇芳がまた変なこと言ってないか心配だったのよ」
千恵の言葉に蘇芳はムッとしたようで、反論する。
「俺は変なことなんて言ったことはないぞ。今だってちゃんと今日あったことを話していた」
「そうなの?」
千恵は疑わし気に母を見る。母は頷いた。
「ええ。全部ではないけど。蘇芳さんの罪に千恵が巻き込まれたってだけ。合ってる?」
「合ってるけど、それだけじゃないの。前にお母さんに話したよね、私は桜花さんって人の生まれ変わりだって」
「そうだったわね。あまり詳しいことは聞いてないけど」
「うん。話したら心配すると思って言えなかったんだけど……」
千恵は逡巡しながらこれまでにあったことを話す。蘇芳との出会いから順序立てて話して、学校でのイジメのようなもののあたりで母の顔が険しくなった。
「どうしてその時に相談してくれないの! 私はそんなに頼りないの?」
「お母さん、違うから! 心配かけたくなかったし、自分で解決できるって思ったの。頑張ってそれでもダメだったら、ちゃんと話すつもりだった」
千恵は慌てて母を諌めるが、母はまだ納得していないようだった。今度は悲しそうに目を伏せる。
「……千恵はそう言うけど、何かあってからじゃ遅いのよ」
「そうだな。巻き込んだ俺が悪いが、辛い時に頼ってもらえないのは辛い。千恵はあの時俺にも頼ろうとしなかった。一人で平気だと言って、全然平気そうに見えなかった」
「二人とも……ごめんなさい。それと、ありがとう。困ったことがあったら相談するから……」
二人の気持ちが嬉しくて、千恵は素直に頭を下げた。そして、相談すると言ったところで、この間からの悩みが頭をよぎる。
母に相談してみようか。
答えは自分で出さないといけないにしても、聞いてもらうだけでも違うかもしれない。
ちらりと蘇芳を見て頷く。
「あのね、お母さん。相談があるんだけど……蘇芳、悪いんだけど、ちょっと私の部屋に行っててくれる?」
「何でだ? 俺だって聞きたい。悩んでいるのなら力になりたい」
蘇芳は前のめりになって詰め寄ってくる。それだけ心配してくれているのがわかる。だが、蘇芳のことで悩んでいるのがわかれば、蘇芳は優しいから傷つくだろう。それは千恵の望むところではない。
千恵は真剣な表情で蘇芳に訴える。
「蘇芳、お願いよ。お母さんは女性だから相談できるところもあるの。蘇芳は今も充分、私の支えになってくれてる。だから……」
「……わかった。本当は嫌だが、ダメなんだろう? 千恵は頑固だから……」
恨めしそうに蘇芳は文句を言う。それでも最後は立ち上がって部屋を出て行った。その際、何度も振り返っては悲し気に千恵を見ていた。そうしていれば千恵の気が変わるとでも思っていたのかもしれない。だが、千恵は目が合うと蘇芳に手を振っていたので、その度に肩を落としていた。
蘇芳が居なくなって静かになった空間で母が感心したようにポツリと呟く。
「蘇芳さんは本当に千恵が好きなのね」
「ちょっ……お母さん」
「あら、そうでしょう? 好きじゃなかったらあんなに心配しないもの。それで、千恵は何を悩んでるの? まさか、幸せ過ぎて怖いとか言わないわよね」
「そうじゃないんだけど……あのね、お母さん。私はこれからも蘇芳といたいって思ってる。だけどそうなると、きっと結婚も子どももできないと思う。親不孝だとは思うんだけど……」
母は小さく笑った。
「何を今更。私は蘇芳さんを受け入れるって言ったでしょう? そういうこともある上で言ったのよ。本当はすごく悩んだわ。千恵には普通の幸せを掴んで欲しかったから。だけど、普通って何なのかしらね。あなたは人には見えないものが見えることで苦しんできた。見えないのが普通だからよね。そうやって私も普通にこだわってあなたを苦しめてきたのかもしれないって反省したの」
「お母さん……」
母も考えてくれていたのだ。葛藤もあっただろうが、そう静かに語る母はどこか達観しているように見えた。
「あなたはあなたの幸せを考えればいいわ。親なんていつまでも一緒にいられる訳じゃないもの。蘇芳さんといるためにどうすればいいかは、ちゃんと自分で考えないといけないとは思うけどね」
「ありがとう……私が一番普通にこだわってたのかもしれない。普通に進学、就職、結婚、出産が幸せだって考えが私の中にもあったの。だけど蘇芳や桜花さん、蒼さん、鷹村さん、河邑さんと出会って、色々考えるようになった。普通とは違った形の幸せでもいいんだよね」
「そうね。私から言えるのは、後悔しないように生きなさいということ。お父さんは、まあ、大変だとは思うけどね」
母は苦笑する。父も千恵が見えることは知っているが、半信半疑なのだと思う。それでも千恵が嘘つき呼ばわりされて落ち込んでいると励ましてくれたし、わかろうと努力してくれていた。
最終的には蘇芳の正体を明かして理解を求めるのもいいかもしれないと思って気づいた。
千恵も結局、蘇芳との未来を受け入れているのだ。
普通でなくても構わない。
二人にとっての幸せの形が、千恵の中で少しずつ固まり始めていたのだった。
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