千恵の秘密と彼との出会い
よろしくお願いします。
──またいる。
谷原千恵は気づかない振りをして、視線を窓の外に向けた。だが、それに気づいた教師は教壇前から見咎める。
「おい、余所見をするな。こっちを見ろ!」
向きたくない。何故ならそこには──。
「ふふふ。私が見えるのね……」
千恵に静かに語りかける声を、教師は注意しない。
それもそのはずだ。千恵にしか聞こえないし、見えないのだから。
仕方なく顔を教師の方に向ける。だがそうすると、教師の隣にいる透けた女性が視界に入るのだ。
そう、彼女はこの世界の者ではない。死者だった。
千恵はうんざりしながらも、女の話は聞こえない振りで教師の話に耳を傾ける。
「ここは次のテストに出るから覚えておくように」
「ねえ、聞いてる? だから、私のお願い聞いてくれないかしら。誰も私に気づいてくれなくて困っているのよ」
二重音声が千恵の神経に障る。
──五月蝿い。
死者の声というのは厄介だった。
時として寂しいからと引き摺り込もうとしたり、生前の願いを叶えてもらおうとしつこく付き纏うのだ。
また、厄介なことになったと千恵は嘆息した。
◇
千恵が人ならざる者を見始めたのは、母によると生まれてすぐらしい。
生まれてすぐの赤ん坊は確かに良く泣く。だが、千恵の場合は桁違いだったそうだ。常に何かに怯えているように泣き続ける様子を心配した母は、病院に連れて行った。それでも病院では異常が見つからず、両親は途方に暮れた。
八方塞がりだった時に、母は何を思ったのか、母の叔母に相談したそうだ。つまり祖母の妹にあたる人で叔祖母なのだが、この人は一風変わった人だった。
物には魂が宿るだの、幽霊が見えるだのと言っていたせいで、周りから煙たがられ、祖母も気味悪がっていた。だが、母はそんな叔祖母を好きだったそうだ。
母が千恵を連れて相談に行った時、叔祖母は千恵の視線の先に気づいて一言呟いた。
「あなたも見えるのね」
それで母は納得したらしい。そんなに簡単に信じられるのかと千恵は不思議だったが、彼女の行動を見てきた母には、彼女が本物だとしか思えなかったそうだ。
それから千恵は、物心がつく頃には叔祖母に対処の仕方を教わるようになった。その頃はまだ自分が異端だとは思っていなかったからだ。
千恵に見えるのは、死者だけではなかった。正体のよくわからない精霊のようなものも見えてしまう。彼らは優しくて、幼い千恵のいい遊び相手だった。
だから知らなかったのだ。周囲の人がそんな千恵をみてどういう反応をするのか。
「千恵ちゃんって、独り言ばっかり言ってるよね」
「えっ? 違うよ。友達と話してるんだよ」
ほら、と千恵が指差した先には男の子がいる。皆が洋服を着ている中、その子だけが着物姿なのは気づいていたが、叔祖母の教えでそういうものだと受け入れていた。
だが、皆には見えないようで、首を傾げている。
「変な千恵ちゃん。誰もいないよ?」
「いるよ? 変わった着物を着た男の子」
「いないよー。嘘ついたらダメだよ」
「いるもん! どうしてそんな意地悪いうの……?」
結局その後も嘘つき扱いをされて、千恵は泣きながら家に帰った。母は千恵の全てを受け入れてくれていたから、困った顔をしながらも話を聞いてくれた。
そして、母は言った。
「私にも見えないの。千恵と叔母さんが特別なのよ。だから外で言っちゃダメよ」
そんなことを言われても子供の千恵にはわからなかった。そうして必死に訴えれば訴えるほど、周囲の人たちは離れていった。
──もう、いい。
いつからか千恵は諦めた。その方が楽だった。わかってもらえると期待するから裏切られた気分になるのだ。
そして、それからは他人に見えない友人との交流もやめた。
◇
「ちょっと聞いてる?」
自分の世界に入っていると、また女の霊が話しかけてくる。その時、チャイムが鳴り、教師が大きな声で告げた。
「それじゃあ、今日の授業はここまでにするぞ! 次回の時間割をちゃんと確認しておくように」
「起立! 礼!」
号令に合わせて立ち上がり、礼が済むと、生徒たちは散り散りに別れる。その様子を千恵は冷めた目で見ていた。
「行かないの?」
「……というか、話しかけないで」
ようやく教室から人が居なくなったのを見計らって、女の霊は話しかけてきた。それなりの配慮はあるらしい。それでも相手にするつもりのない千恵は、彼女に視線を向けず立ち上がると、教室の外に出た。
「ねえったら!」
もどかしげな声も無視する。すると霊は千恵の頭上に浮かび上がり、上から覗き込んできた。視界に入るのが鬱陶しい。諦めの嘆息をこぼすと、仕方なく足を止めて、女を見据える。
「……私には願いを叶える力なんてないわ。わかったなら他を当たって」
「だからあなたにしか見えないって言ってるじゃない。こんなに困ってるんだから、助けてくれてもいいでしょう?」
「……勝手なことばかり。それならあなたも私の願いを叶えてくれるの? 自分の都合ばかり押し付けないで!」
千恵が声を荒げると、途端に女から嫌な空気が流れ始める。
「……あなたは生きているからいいわよね。だから私の気持ちなんてわからないのよ。それなら、いっそわかるようにしてあげましょうか……?」
女がニタリと嗤うと、千恵の動きが封じられた。やめてと言いたくても、口も開かない。
だから死者は嫌いだ。自分の都合ばかりで、こちらの事情はお構いなしで。
だけど、これはやばいかもしれない。千恵の背筋を冷たい汗が伝う。その時──。
「──見つけた」
「なっ!」
低音の声が静寂を切り裂いて、女が慌てた。そこで千恵の体に自由が戻る。声がした方を向くと、一人の男が立っていた。
男はこれまでに千恵が出会ってきた誰とも、全く違っている。
夕日のような赤毛に、海のように凪いだ青い瞳。それだけなら、通りすがりの外国人で見たことはある。
だが、千恵が言いたいのはそういうことではない。
「……角?」
男の額に一本、どう見ても角にしか見えないものが生えている。
訝る千恵を気にすることなく、男は目を細めて笑う。
「ずっとお前に会いたかった……」
これが、千恵と彼──蘇芳との出会いだった。
読んでいただき、ありがとうございました。