桜花との邂逅
よろしくお願いします。
──ここはどこだろう。
千恵は気がついたら、白い空間にいた。白いといってもペンキのような白さではなく、霧のような靄が続いている。
しばらくその場にいたが、この世界にたった一人しかいない気がして不安になった。きょろきょろと周りを見回しても、深い靄が続くだけで、何も見えない。
「……蘇芳ーっ、いないのーっ?」
叫んでも千恵の声が木霊するだけで、返事はない。
千恵は先程まで、鉄筋コンクリートの建物にいたはずだ。それならどこかに出入り口があるかもしれない。そう思った千恵は、手探りで歩き始める。
だが、どこまで行っても手先に触れるものはない。そこでふと気づいた。
──歩いてるのに、風を感じない? それどころか、私は呼吸もしてない……!
息を吸ってもいないことに気づいて、千恵は恐怖でその場に崩れ落ちた。
「え……まさか、私、死んだの……?」
確かに蒼に背中を切り裂かれたが、それくらいで死ぬものだろうか。だが、今はその痛みも感じない。
「嘘でしょ……」
思い出すのは、両親の笑顔。いつも千恵の味方になってくれて、愛してくれた。それなのに両親よりも先に死んでしまうのか。あの笑顔が泣き顔に変わると思うと、心が痛む。
そして、蘇芳。
桜花だけを追い求めた彼は、何百年も生まれ変わるのを待っていた。それなのに千恵は結局思い出せず、また彼を何百年も孤独にさせるのか。
蘇芳の表情一つ変えずに涙を流していた様子は、心に焼き付いている。
──蘇芳に、会いたい。
「死にたくない、死にたく、ない……!」
心が引き千切られそうだ。だが、こんなに辛いのに、涙も出ない。拳を強く握り締めても、傷すらつかないことに絶望する。
その時、落ち着いた女性の声が聞こえた。
「あなたはまだ死なないわ」
弾かれたように声のした方を向くと、知らない女性がにっこりと笑った。
「はじめまして、千恵。私が桜花よ」
「え……」
千恵は呆然と女性を見つめる。
十代後半に見えるその女性は癖一つない漆黒の髪を金色の紐で結い上げている。薄桃色の着物とは対比して、紅を引いたかのように真っ赤な唇。長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳。
「きれい……」
思わず呟いた千恵に、桜花は笑う。
「ありがとう。千恵は可愛いわ。蘇芳があなたを放っておけないのがわかる」
何の冗談かと千恵の表情は曇った。
「それは違います。私が、桜花さんだから放っておけないんだと思います……」
「まあ、それもあるでしょうね。だけど、あなたは勘違いしているわ。私は蘇芳に守られる存在ではなかったから。蘇芳から聞いたでしょう? 私は母だったと」
千恵は少し遅れて頷いた。桜花も頷くと、話を続けた。
「私は蘇芳を拾って育てた。蘇芳にとっては二人だけの隔離した場所でね。そうしないと、私も蘇芳も平穏に暮らせなかったから。そうして蘇芳は私に依存していった。突然蘇芳に好きだと言われた時は何の冗談かと思ったわ。私にとっては息子のような存在だもの。私は完全に蘇芳を受け入れることができなかった。でも、蘇芳をそんな風に育ててしまった責任をとらないといけないと思ったの」
「そんな……恋人だったって蘇芳は言ってました」
千恵の非難するような視線に耐えられなくなったのか、桜花は目を伏せた。
「ええ、そうよ。だけど、蘇芳は恋人というものをそもそもわかってなかった。だから、私は恋人とはこういうものだと、誤った知識を植え付けた。名前が変わっただけで、それまでの関係と何も変わらないと」
「それじゃあ、桜花さんは蘇芳のことを……」
「家族としては愛しているわ。だけど、異性として見ることは難しかった……酷い女よね。責任をとると言いながら、結局受け入れることができなかったんだから」
桜花の声は沈んでいた。桜花も悩んでいたのだろう。きっと桜花は一緒にいるうちに自分の気持ちが変わるかもしれないと思っていたのかもしれないが、結局は変わらなかった。だが、人の気持ちは無理に捻じ曲げることはできないと千恵は思う。
「それに、恐らくだけど、蘇芳自身も自分の気持ちをわかってなかった気がするわ。そう思うようになったのは千恵のおかげ」
「え、私?」
千恵は何かしたかと考えたが、思い当たる節はない。千恵がしたのは、自分は桜花じゃないと言い続けただけだ。
「ええ。私は負い目があったから蘇芳を甘やかすばかりだった。蘇芳も言ったけど、私と千恵は全然似てないわ。私と違って、千恵は蘇芳を叱ってくれた。それにあなたは蘇芳を異性として愛してくれている」
「桜花さん! 愛してるだなんて!」
千恵の顔が熱くなる。恐らく真っ赤になっていると思うが、それを見た桜花は目尻を下げる。
「あら、間違ってないでしょう? 私にはあなたの気持ちがわかるのよ。だけど体を張って庇ったのはよくなかったかもしれないわ。蘇芳は自分のせいで私が死んだと言ったけど違うのよ。私は村人に襲われた蘇芳を庇ったの」
「それじゃあ、私は反対に蘇芳を傷つけてしまったんですね……」
良かれと思ったのに、逆効果だった。蘇芳は今、どんな気持ちでいるのだろうか。だけどそれを知る術はない。ここがどこかわからないし、帰れるのかもわからない。
「……ねえ、桜花さん。私は死んだんじゃないのよね? ならここは死後の世界じゃないの?」
「違うわ。ここは精神世界ってところかしら。あなたと私のね。あなたは精神体だけど、私は単なる記憶の欠片。あなたたち二人がもどかしいから、ついこうしてお節介をやいてるの」
「それなら私を帰してください!」
必死の形相で千恵は桜花に頼む。桜花は神妙な顔で頷いた。
「もちろんよ。だけど、ちょっと待ってくれない? あなたに私たちの記憶を見て欲しい。これからも蘇芳と一緒にいるのなら必要になるかもしれないから。それと、もっと厚かましいお願いなんだけど……」
桜花は言いにくそうに言葉を区切った。その間が不安になって、千恵はおずおずと尋ねる。
「何ですか……?」
「あなたがその記憶を見ている間、私に体を貸して欲しいの。私はちゃんと蘇芳と話さないといけないと思うから。蘇芳が前に進むためにも」
桜花の眼差しは真剣だった。しばらく二人は見つめ合った後、千恵は頷いた。
「……私もその方がいいと思います。蘇芳はあんなにあなたを求めていますから。でも、出来るだけ蘇芳を傷つけないで欲しいです」
「ええ、わかっているわ。許してくれてありがとう。それじゃあ、こちらに来て」
「はい」
桜花の傍に行くと、桜花の後ろに靄が晴れた一本道ができている。
「この道を進んで行って。そうすれば見えてくるから」
「わかりました。桜花さんはどうするんですか?」
「私は表層意識に戻るわ。ずっと眠ったままだと蘇芳の気が狂いそうだから。道が途切れたら自然に私と交代できるから心配しないで」
「また会えますか……?」
千恵の問いに桜花は寂しそうに笑って首を振る。
「それは無理ね。私はもう死んだの。今の私は記憶の欠片。いずれ消えてなくなるわ」
「そんな……蘇芳が悲しむわ」
「ええ、そうね。だからお願い。蘇芳を支えてあげて。今の蘇芳には彼を愛するあなたしかいないのよ」
「でも、私じゃ駄目だと思うんです。桜花さんじゃないと……」
「……私は生まれ変わって会おうと蘇芳に約束した。だけどあの時の私はわかっていなかった。生まれ変わったあなたと私は同じのようで違っているって。私があなたの人生を邪魔してはいけないのよ。もう、話はおしまい。これ以上話してたら私も未練が残るから。はい、行ってらっしゃい」
桜花に背中を押され、千恵は振り返りながらも一本道を進み始めた。するとそのうち千恵の後ろから道が消えた。
──もう後戻りはできない。
行き着く先に不安を感じながらも進み続けると、目を開いていられないほどの眩い光にさらされ、千恵は目を瞑った。
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